46 / 46

エピローグ

 コンコンとノックされる前に気づいていた。 「先生?」 「どうぞ」  聞き慣れた足音、聞き慣れた声。  夏休みに入り、時間を見つけては以前よりも頻繁に美術準備室を訪れるのは、ひとりだけ。 「休憩しようぜ」  昼近くになると自販機で買った飲み物を差し入れてくれる年下の恋人は、そのトルソーに負けない整った顔で微笑みかけてくる。 「ん。ちょっと待って」  雑然とした壁いっぱいの本棚から半分近い画集や資料を床へ置いた部屋で、涼は腕に抱えた本をタイトルと内容をパラっと見ながら棚へ並べていく。ほとんど使いようのないものは上の段へ。最後の一冊がまさにそれで、涼は面倒ながらも脚立を引き寄せそこに足をかけようとした。 「どこ?」  だがさっと横から伸びてきた手がそれを取り上げ、涼の後ろから棚の上の方へ持ち上げる。 「あ……そこの、緑の本の横に。サンキュー」  すかすかの棚へそれを置いた腕が、そのまま涼の背後から体を抱きしめた。 「終わり? まだやる?」  耳元に顔を埋めた洋平が、鼻先を涼の耳にすりすりと擦り付け、妙に甘い声を出す。  むずむずと羞恥が湧き上がり、涼はことさらクールにその鼻を摘み上げた。 「こんなんじゃ、やりたくてもできない」  大人しく腕を離した洋平は、にやりと笑って向かい合った涼の額にちゅっと唇を落とす。さすがにそれにはかあっと頰を染めた涼が、ぶすくれた表情を作ってさっと洋平の横を通り机に向かった。照れ隠しなのはばればれなのだが、それでも年下の男にいちいち恥ずかしがってる顔は見られたくないのだ。  それをよくわかっている洋平は、たまに密室だということをいいことに、涼にいたずらを仕掛けて楽しんでいる。 「ほら、座れば?」  もはや洋平専用になっているパイプ椅子を、涼が行儀悪く足で突ついてみせた。すると自分の椅子へ座った涼に歩き寄りながら、洋平がふと思い出したように後ろポケットへ手を入れた。 「なんだ?」  差し入れのペットボトルの蓋を開けながら涼が首を傾げると、洋平が一枚の紙をひらひらと宙で振って見せる。すぐにそれが何かに気づいた涼が、呆れたように洋平を見上げた。 「まだ持ち歩いてるのか」 「んー、返そうと思ってたんだけどさ。でもよくよく考えたらちょっと腹がたってきて」  口元にそれを当てて考えるように涼をじっと見つめる洋平に、涼は少しばかり眉根を顰める。 「––––言っておくが、それ撮ったの桧枝だからな。賭けに負けて仕方なく……」  変な趣味の男と付き合っていたわけではないと涼は主張した。だがそれは逆効果だったようで。 「あの胡散臭いカメラマン? 余計にムカつくんだけど。何賭けとかで裸になってんだよ」 「……裸じゃないだろう」  涼は無駄な足掻きのように言ってみるが、もちろんそれで洋平が納得するはずもない。何を考えているのか、ますます顔を顰める年下の男に、涼はふっと息をついて提案してみた。 「おまえも撮ればいい。その写真を撮った時は二度とやるかと思ったけど……。おまえなら、いくらでも撮らせてやるよ––––」  少し顔を仰け反らせ、嫉妬する可愛い男に涼が艶やかに微笑んでみせると、洋平は目を見開いた後、くすりと笑った。 「いいね––––」  涼に近づき机の上に写真を放った洋平が、ついでに机と涼の座る椅子に両手をかけて覆いかぶさる。 「その時は……俺のネクタイで縛るってのは、どう?」  顔を寄せて上から見下ろす年下の男は、雄の顔で舌舐めずりをした。  ぞわりと背中を這い上がった痺れに酩酊した涼は、目の前のネクタイをきゅっと引っ張ると、顎を上げて恋人の唇に自分のそれをゆっくりと重ね合わせる。 「––––俺も、赤より……お前の青がいい」  触れ合わせたままそう呟けば、可愛い雄が、がぶりと涼に喰いつく。  赤い花に隠されるより、年下の男の青に食い散らかされる方が、よほど幸福だな––––。  情熱的な深いくちづけを受けながら、涼は愛おしい年下の恋人の首にゆっくりと手を回したのだった。  恋はまだ、始まったばかり。  染められ、散らされ、喰われて––––そして、一緒にゆっくりと溶け合うのだ。  完結

ともだちにシェアしよう!