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シャガール・ブルーの静けさが俺は怖かった。 まるで天国へ手を引かれていくような心許なさに、もういいのだと諦めてしまう自分が怖かった。真白の天井、消毒液の臭い。定員オーバーの潜水艦を思わせる手術室は息が詰まりそうで、生体情報モニターのピッピと鳴る音に心拍数が跳ね上がるのを宥めるための深い息を吐く。憶えているのは、そこまでだ。 子供の頃から、心臓が丈夫じゃなかった。 入退院を繰り返して今度こそ最期になるかもしれないと病室を出る間際、視界に入れたのは、薄鼠(うすねず)の低い空だった。俺の空は今や此の鍵付きの小さな窓の向こう、それすら四角い鉄骨フレームに切り取られ、昨日とうとう、三原色の無粋な看板が嵌めこまれた。 「また、空が狭くなった……」 ダイビングスクールが生徒を募集しているらしい。一度でいいから海の中を見てみたかったと思わなくもない。けれど、俺には天国よりも遠い場所だろう……。 車椅子に乗せられて病室をバックで出ると、 「あら、また」 と、声がして、看護師が清掃員を呼んだようだった。 「何かあったんですか?」 と訊くと、彼女は「いいえ」と濁したけれど、 「あらあら、花びらが。すぐに片付けますね」 という如何にも仕事熱心な清掃員のハキハキした声を聞いて、看護師が俺を気遣ったのだと直ぐにわかった。廊下に落ちていたのは竜胆(りんどう)の花びらだったに違いない……。 あれは、入院して直ぐの週末だったと思う。 検査を終えて病室に戻ると、ベッドサイドに竜胆の花束が置かれていた。まるで仏花のようで不愉快だと怒った母がゴミ箱へ捨てようとして、咄嗟に俺はその手を遮った。 「母さん、花に罪はねぇって言うじゃん?」 「海晴(かいせい)……」 「そんな不安そうな顔するなよ。ほら、仕事の時間だろ?行けよ……」 母は俺の名を呼んでは泣きそうな顔をする。だったら呼ばなきゃいいのにと思うけれど、俺も呼ばれたいんだから案外、甘ちゃんだ。本来、花を粗雑に扱える人ではない。病床の俺を案じる余裕のなさが母の心を荒ませるのは見ていて辛かった。 それを見かねたか、看護師は励ましのように、こんなことを言った。 「紫の竜胆には健康の願いが込められているんです。その薬効から『病気に打ち克つ』といって、ほんとうは縁起の良い花なんですよ。どなたか、お見舞いにみえたのかもしれませんね。面会簿を確認してみましょうか」 俺は内心「不要だ」と毒づいた。 この小柄でふくよかな熟練の看護師はどんな場面でも(ほが)らかで、先回りできる頭の良さも機敏な動きも患者の信頼を集めている。けれど、俺みたいな高校生には何でも見透かされるようで鼻についた。母が帰ると俺は看護師に言った。 「その竜胆、捨てて貰えますか。見たくないんです」 看護師は理由を訊くでもなく、穏やかに浮かべた笑みを崩さないまま、 「ナースステーションで、お預かりしましょうね」 と、静かに持ち去った。 そんなことがあってから、まだ幾日も経っていない。つまり、竜胆の贈り主は今日も現れた。 二人部屋の片側は空いている。間違いなく俺に贈られるはずだった竜胆を今日は何故、置いて行かなかったのだろう? ふと脳裡をよぎるのは、図書室の片隅に並ぶ古い文芸部誌に寄稿された或る時代小説の一節だった。 《十五年の後、西南西に一の微笑を戴き、あなたが日毎汗を拭った()の場所で、ともに瘧草(えやみぐさ)(わら)うのを()でとう存じます。》 筆者は須崎真詩(すざきまさし)。 俺の通う私立東陵学園高等学校の国語教諭だ。 ……思えば、床に落ちていた花びらは青かった。 今になって、妙にあの青が気に掛かる……。

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