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「着替えを出しておくから、風呂使いな」
と言われ、そんなつもりはないのに睨みつけていたらしい。
「そう警戒してくれるな。あのキスがそんなに怖かった?」
今度は自覚をもって睨みつけた。
浴槽は胡坐もかけない狭さだったが、たっぷりの湯は芯から身体を温めてジンジンと、どれほど冷えていたかを感じさせる。あまり長湯するのも心臓に良くないとはいえ、ずっと浸かっていたくなる心地良さだ。石鹸かシャンプーか、柚子のような柑橘系の香りが広がっていた所為かもしれない。
外で颯介の派手なクシャミが聞こえる。人の世話ばかり焼いてアイツも相当、濡れていたと思い出し慌てて上がった。脱衣カゴに用意されていたのは新しいTシャツとパンツ、スウェットの上下と軽いコットンの薄手のガウンで、好きに選べという事だろう。ガウンなんて着た事もないけれど、その肌触りはやっぱり上質でこの家に似つかわしくないものだった。着る物には拘る人なのだと知って笑みが浮かぶ。颯介のことを一つ知るたび少し近づけた気がして、背伸びをしてみることにした。スウェットの下を履いて上気した肌にブルーグレーのガウンを羽織って部屋に戻ると、俺のぎこちない「ありがとう」に颯介は、
「いいカラダしてるな」
と、眼を細める。
「言い方がエロオヤジくせぇ」
「俺は体型が綺麗だと褒めただけだ。無駄な筋肉が一つもない」
話を摺り替えられた気もするが、変に意識しているのは自分の方かも知れないと、恥ずかしくなった。
「お前、だいぶ、俺のこと意識してるだろ。可愛いね……」
「そーすけ!」
あははは、と豪快に笑うこの人をずっと見ていたいと思っているのは本当だ。颯介が俺に『興味がある』と、『惚れそうだ』と言ったあの言葉を何処まで信じていいのかは判らない。もしかしたら、あのキスだって『本物の恋を知らないね』の延長で本当に大人のキスを教えてくれただけ、特別な意味なんて何もなかったのかもしれない。そう思うと鬱々としてきた。
「制服、乾くといいが……」
颯介の声に我に返る。隣の部屋を覗くと、ハンガーに掛けた制服に扇風機を回してくれているが、きっと、完全には乾かないだろう……。
「乾くまで、ここにいていい?」
「それは、どう受けとめたものかな?」
我が意を得たりと笑う眼にドキリとして、俺の思考は颯介が自分を好もしく思ってくれているのを前提に都合よく解釈してしまうのだと呆れ半分、視線を外した。
「どうとでも……。颯介も風呂入れば?クシャミしてんじゃん」
「聞こえてた?」
「聞こえてた」
颯介は苦笑いで「そうするか」と、のっそり部屋を出て行った。
一人になって、ぐるりと視線を巡らせる。
どう見ても独り暮らし、女の人を招くような部屋じゃない。
隣室の書棚はギッシリで入りきらない本が床に山積みになっている。畳敷きに文机、軽く半折りに文鎮で重しをしてあるのは薄い和紙のようだ。悪いとは思いつつ気になって仕方がない。輪になった処を覗き見ると颯介の手蹟で品書きらしき文字が見えた。広げるのは流石に気が咎めたが書道が得意らしい。他にはスポーツ医学の本や推理小説に混じって天体の本が多い事に気付いた。本と本の間に挟まっていたのは月齢盤だ。年月日を合わせると其の日の月齢が判るんだけど、直近の『月齢1』が何月何日か割り出すことも可能だろうか?多少の誤差はあるにせよ、雲谷が知りたがっていたXデーが判るかもしれないと夢中になっていて、俺は風呂を出た颯介の気配にまるで気付かなかった。
「10月10日だ」
突然、背後から声がして、ビクッ!と肩が震える。
上半身は裸のまま、タオルを肩に掛けた颯介が憮然としたツラで台所の蛇口をひねった。
「どうして教えてくれるの?」
「聞いたところで何も起こらないからだ」
その言葉で、颯介が須崎の書いた『紫紺の華』のあの一節を知っていて、意図を探る文芸部の事も見通しているのだと知った。
「気を悪くした?」
「そう思うなら、くだらない探偵ごっこはやめろ」
「くだらねぇかな?颯介はアレが須崎からのラブレターだって解んねーの?」
俺には大問題だ。
10月10日まで残り14日、何なら今ここで颯介を独占したいと言いたいくらいだ。けれど、須崎の15年間を無にするみたいで気持ちのいいものでもない。アイツじゃなきゃ良かったのに、須崎の悠長さが、15年後を信じていられた能天気さが腹立たしかった。
「どうして《十五年》だったんだろうね。聞いても須崎は答えてくれなかったよ」
「……、腹空かね?カップ麺でも食う?」
あからさまな拒絶。積まれたカップ麺を横目に俺は小さな溜息を一つ吐いた。
「シーフードがいい」
押し黙ったまま、ひたすら啜った麺は無味に思えた。
「珈琲でいいか?」
と言ったきり、颯介は瓦斯の炎を見つめ、何を思うのか黙ったままだ。
「購買部の職員になったのは偶然?」
話の矛先を変えてみたが、この話題も良くはなかった。相手は大人だ。興味本位でさぐりを入れても口八丁にあしらわれるだけだと焦ったのが良くなかった。何か話してくれればいいのに、颯介はこういう時に助け船を出してくれる人ではなさそうだ。少し前まで俺を揶揄って笑っていた姿が嘘に思えてくる。顔を上げられなくて目の粗い畳の薄汚ればかり見つけては、意識はビリビリと颯介の気配を追いかけていた。雨の蒸し蒸しと黴臭い空気が纏わりつく。
「颯介……、」
意を決して呼びかけたものの俺の声には覇気がなくて、
「颯介」
傍へ行って、もう一度、呼んでみた。
「ん?」
「何を考えているの?」
「イケナイコト」
「冗談じゃなくて。俺、帰った方がいい?」
「砂糖、いくつ?」
マグカップがふたつ。熱湯を注いで珈琲の香を漂わせると、颯介は残り湯をシンクに垂らしベコンと音を立てた。つまりは未だ帰らなくていいらしい。
「砂糖なし。牛乳、多い目で」
「了解」
颯介は短く言って俺の背に手を当てた。優しい手つきは向こうへ行けという拒絶ではなさそうだ。むしろ、時間をくれと言う距離の置き方にも思えて、俺はそれ以上、自分から詮索するのをやめようと思った。除湿中のエアコンはガタがきてヤケに饒舌だ。
「古くて悪いね」
と、頭を掻いた颯介は6畳間の座卓に珈琲を並べ、部屋の隅に畳んだ布団を背もたれに隣へ俺を呼んだ。面と向かうより、顔が見えない方が話しやすいことも確かに有るだろう。
「さて……、何から話そうか?」
「その前に何か着てくれませんか?」
上半身裸で隣にいられては落ち着かない。「お、」と笑った颯介は、
「そこ、気にすんのかよ」
と、布団の上に畳んであったシャツに手を伸ばした。
晒すことに何の躊躇もない筋骨の張りも強靭な体躯を颯介はしていた。俺の筋肉を『無駄がない』と言うが、つるりと潤って細いばかりで、悔しいが未だ子供の身体なのだと気付かされる。颯介の陽に灼けた大胸筋は厚く、男も羨むシックスパックは見るなと言われても見てしまう彫像のような美しさだ。ジーンズの上に白の地柄のストライプが入ったコットンシャツを羽織った颯介は32歳にしては、やっぱり若い。うっかり、
「触っていい?」
なんて、口にしていたくらいだ。
「構わないが、」
然程、驚いた顔もせず薄らと笑った眼を覗き込む。畳に手をついて身を乗り出し、もう一方の手でその熱い肌に触れると心臓が力強く押し返してきて、知らず指の腹に力がこもった。
「すげぇ……」
「変なヤツだな。服を着ろと言っといて、男の胸触って喜んでいる」
「だって、俺の触ってみろよ。こんなにドクドクしねぇよ?」
「ったく、調子狂うな」
颯介が触ることは無かったが、俺は心底、感動していた。生命力に溢れる健康な身体ってのはこんなにも強靭で、再三、動いているか確かめたくなる自分の弱い心音とはまるで違う。
「……ぁ、おい!」
太い骨を辿った指がくすぐったかったらしい。身を捩った颯介の手が畳につく俺の手首を払ってバランスを崩し、支えを失った俺は縺れるように颯介を押し倒してしまった。咄嗟に左肩を押しのけてくれなかったら、全体重を掛けていたところだ。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないな」
真下に見る颯介の髪が乱れて息を感じる程に顔が近い。心臓がドッドッドッと駆け足を始め、「ごめん」と離れようとして、伸びてきた手に髪を掴まれた。背中に回された大きな手でそっと胸に抱かれる……。何だコレ、何が起こってんだ?掌に感じた心音より、もっとダイレクトに颯介の鼓動を感じて、俺は身じろぎも出来ずにいた。
「重くねぇの?」
「嫌じゃないのか?」
「……、じゃないみたい」
「へぇ……」
颯介が笑う。
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