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まだ、したいことがあった。出来ることがあった。 けれど、出来ないことも多かった。しなかったことも多かった。 夢を語るには短い人生になるだろうと思っていたし、誰かを好きになることも無い方がいい、そう思ってきた。明日が来ることも俺には当たり前じゃなかったし、ネガティブな発言は良くないと笑っても、どこかいつも薄ら寒くて渇いていた。そんな後ろ向きだった俺が……、友達からの『また、あした』に返事も出来ないような俺が、今は颯介との未来を想像している。そして復学後、須崎にどんな顔をして会えばいいのかを考えている。 「あのさ、Xデーに会った?」 「その言い方はよせ。酒を飲んだ。俺もアイツも正気じゃなかったし、お前のことで頭が一杯で酒に逃げた。須崎は、お前が可愛かったんだ。だから、俺みたいな悪い虫がつくのを恐れたんだよ……」 俺は、この男の鈍さに呆れて須崎に同情した。どこからそういう発想になるのか、悪い虫というなら須崎にとって俺の方が悪い虫に違いない。 「まだ、解んねぇの?俺といたら颯介が一人残されるのが解っていたから、先生は雲谷が『凪』だとか俺を牽制して離そうとしたんだ」 「それは違う」 怒色すら感じる低い声に息を呑むと、颯介は首を軽く左右に振って思案気に窓の向こうへ眼を遣った。僅かな沈黙の後、意を決したように向き直る。 「まだ、報せるつもりは無かったんだけどな……手紙を預かっている」 廊下を配膳車の音が忙しく行き来し始めて、コンソメのような匂いが近付いて来た。 颯介は椅子から腰を浮かせると、 「夕食を取って来るよ」 と、パールホワイトの封筒をシーツの上に残して病室を出て行った。 『急啓、神奈川へ赴任が決まりました。 君の退院を待たずに去るのは心残りでは有るが、合併症もなく経過は良好と聞いて安堵しています。本当は説教の一つもしたいところだが、物分かりの良い顔で何でも直ぐに諦めてしまう君が自分の為に守りたいものを見つけた事は幸いです。教師が言って良い事ではないが、朝雲暮雨を急ぐことはない、待たせておけば良いとだけ伝えておきましょう。 君を卒業まで見守りたかった。くれぐれも身体に気を付けて、お元気で。 不一  鹿野を頼みます。        須崎真詩 時枝海晴 様 』   結語の後の一文は後から書き足されたものか署名の上というのも配置が悪く、几帳面な須崎らしくなかった。添えること自体、最後で迷ったのか『す』の文字が歪に震えている。俺には『今でも颯介を想っている』という先生の最後の主張に思えた。悪意で見れば、これは頼みじゃなく嫌味だし、好意的に見れば大人の颯介を俺に《頼む》と言うのは先生の大切な人を任せたという、もっとオーバーな言い方をすれば、任せる為にも生きろという俺へのエールともとれる。その飛躍した解釈の根拠は、俺を《卒業まで見守りたかった》というのが先生が最も書きたかった事だと感じたからだ。須崎は流麗な文字を書くが、その一文だけ強調するように力強く、思念を感じる筆跡に思えたからだ……。 「何も聞いてねーじゃん、いつ……」 動揺した声は独り言のつもりだったけれど、 「予定が早まって本人も慌てている」 と、グリーンのトレーを運んで来た颯介がベッドのテーブルを出した。 「先生に会えない?」 「会わないでくれないか?俺が会って欲しくないんだ」 二人の間でどんな話が交わされたかは判らないが、手紙を見る限り須崎は俺たちが一線を越えた事を知っている。『朝雲暮雨』とは情交のこと、親密な交際、肉体的な交じりの意味が有るのを『四字熟語バカ』の異名を取る俺は知っている。前後の文脈を見ても須崎がSexを指しているのは明白だ。 「お喋り。何もかも白状することないのに……」 「何の話だ、アイツ、何を書いて来たんだ?」 見ればいいと手紙を遣って、俺は不貞腐れた顔でスプーンを取った。颯介は怪訝な顔つきでベッド脇の椅子を寄せ、手紙を開く。 「育ち盛りが足りるのか?」 「動いてないもん。でも、今日は颯介と一杯話したから腹が減ったかも……」 嘘じゃなかった。幸い咀嚼の辛そうなメニューじゃなくて、具沢山の野菜スープを潰して潰してスプーンで掬った。嚥下する一瞬の緊張を気付かれたはずはないが、颯介が背中を擦ってくれるのも助かった。 「おいおい、これが高校生に宛てた文面か?《待たせておけば》って何を?」 「そこはいい。解っている」 「《鹿野を頼みます》って、おかしいだろ。逆じゃないか?」 「17歳に任された気分はどーよ?オッサン」 真意は俺だけが判れば良かった。 手紙を取り返してさっさと畳むと、颯介は釈然としない顔つきで俺の食事を如何にも不味いものを見る眼で眺めている。 「その顔、やめてくんない?そんなに不味くないよ?」 「俺……、お前のアレがそこそこ立派ってこと言ってねーからな?」 「……っぶ!っごほっ……、な、何言って?本気で不味くなるわっ、ボケ!」 「口が悪いねぇ、海晴は……」 「颯介が変なこと言うからじゃん!」 「いや『白状』って俺はただ、将来的な意味で海晴を大切にしたいと言っただけだ」 えっ……? 身体ごと傾がってフリーズした俺の肩を颯介の逞しい腕がズシリと抱く。 「須崎に海晴を愛していると言った。俺は海晴と生きたい」 真剣な面持ちで言われると、ずっと一緒にいられるような安心感と、いつか竹箆返しを食らうんじゃないかという不安に心を乱されるから、俺は上手く笑えなくなってしまう。 「そういうの、まず、本人に言わね?どうして、須崎が先に聞いてんだよ」 「ぁ……、」 間の抜けた声をあげた颯介に振り向かされて、けれど、颯介は期待した表情が見れなくてガッカリしたと思う。俺は素直に『傍にいて』と甘酸っぱい台詞を吐く事が出来なくて、戸惑ったつまらない表情を見せてしまった。少し困ったふうに俺を覗き込んだ颯介がギュッと腕に力を込めて、俺の身体に沁みこませるようにゆっくりと語り掛けて来る。 「なぁ、海晴。『Time is money』って言葉、解るか?」 「時は……金なり、だろ?」 「意味は?」 「時間は、お金と同じくらい価値があって大切なもの……?」 「じゃ、本当の意味は?」 「え?」 「手術は成功したし、お前はこれからも生きるんだ。もう、悲観するのはよさないか?そうする間にも時間は過ぎていく。その時間で何かを成せたかもしれない。それを、お前は無駄にしている。ナーバスになるのは理解するさ。でもな、生は誰にも有限で未来は誰にも判らないんだ。一分一秒先のことすら誰にも予測なんてつかないんだよ……」 颯介は俺を励まそうとしている……。その気持ちは、ちゃんと伝わっている。 けれど、幸せな未来を描くことに不慣れな俺は、むしろ、描く事を拒否して生きて来たんだ。 「颯介。その有限が近いことをずっと意識してきたヤツは、これから、どう生きればいい?」 どうせ、模範的な同情心と鼓舞の言葉でも聞かされるのだろうと思っていたら、颯介は瞬時には理解が追い付かないまでも俺の背筋を伸ばすのに十分な言葉を与えてくれた。 「俺がその質問に答えることは難しいが、海晴には答えを見つけ出せるんじゃないか?」 「大人に解らなくて俺に解ることがあんのかよ?」 「あるよ。『大人』は関係ない」 その自信に満ちた顔を見ていると不思議と活力が湧いてくる。案外、俺も乗せられ易いと口の端の綻ぶ思いがして、少し考えて俺には颯介の言うことに答えが出せた気がした。 経験だ……。 俺には生死を彷徨った経験がある。命を失う事とは常に隣り合わせだったし、失くす瞬間を想像して怯えた夜も一度や二度じゃない。だから、命の尊さが解る。多くの人に見守られ甘やかされて育った、その優しさや感謝の気持ちが解る。病弱で勉強も遅れがちで誇れるものなんて何もないと思っていたけれど、俺には物語を紡ぐ頭がある……。 颯介が言った言葉の延長上に有るのは無いものを嘆くより有るものを生かす事を考えろということじゃないだろうか?それしかないって事は、それがあるって事だ。生は有限でも俺は未だ生きている。時間がある。寝ている場合じゃない気がする。一時の前向きで直ぐにまたポッキリ折れてしまっても、それこそ生きているって事だろう? 「……原稿用紙が欲しいな」 と言ったら、颯介は「答えが見つかったか」と嬉しそうに俺の肩を抱き寄せた。 「ううん、そんな大層なものじゃないけど、この悲観も経験なら生きる糧にしてみようと思って。颯介が言いたかったのは、そういうことじゃないの?」 その時、俺は『慈しむ』という顔を見た気がした。 親との血縁愛とは違う、こっ恥ずかしい言い方をすれば人が人を愛する眼とはこういう眼を言うのだろうという情愛深い眼差しに、身体の奥が何とも落ち着かなかった。困って目を反らした俺に颯介は、 「何冊でも買ってきてやる」 と、顔中グシャグシャにして泣きそうなツラで笑っていた。何度も何度も脳震盪を起さないか心配になるほど、頷きながら笑っていた……。 退院したら何をしたい?と言うから、 「海を見たことがない」 と言ったら、颯介とドライブする約束が出来た。 「天国より遠いと思っていた……」 思わず言って、口を手で塞ぐ。 「バァーカ……、地獄に墜ちるとは思わなかったんだな」 額にコツンと手の甲骨が振ってきて、俺は颯介の冗談にそれもそうだなと笑った。 「海の中を見てみたい……」 「じゃ、まずは海中展望塔だな」 「波打ち際なら泳げなくても平気?」 「手、引いてやるよ」 「やだよ、カッコ悪い……」 「海の家でイカ焼き食うか」 「オシャレなシーサイドレストランで夕日を見たい」 「女みたいなこと言うんだな?」 「女に言われたことあんのかよ?」 「あるよ、バーカ」 「バカバカ、口が悪いんだから」 軽口叩いては、いつになるかも判らない夢物語に笑い合う。 退院したら暫くはリハビリだ。まずは家の中で、それから近所を散歩、少しずつ距離を伸ばして身体をつくっていかないと復学が遅れてしまう。颯介は今月一杯で購買部の臨時職員ではなくなると言うから、俺が復学する頃にはもういない……。 「寂しい?」 なんて聞くから余計に寂しくなって頷いたら、いつの間にそんな話になっていたのか、俺は退院の翌日から母親が仕事で留守の間は白兎堂の預かりになるらしい。 「今のアパートは仮住まいでね、店の裏が実家なんだ。離れの改修工事が終わったから戻って来いって。本格的に修行に入るからそう構ってやれないが、復学しても下校先は白兎堂だ。人目のある方が安心だし気兼ねはいらない。いいね?」 母親の承諾は得ていると言うが、颯介が俺を自宅に一人で置きたくないらしい。承諾どころか迷惑なんじゃないかと冷や汗をかいたけれど、既に決定事項みたいな調子で言うから、ここは好意に甘えて後のことは白兎堂の人たちの様子を見て考えようと思った。 「店……、手伝えることある?」 「嫁修行か?前向きで良いな」 「そんなんじゃ……、そーすけのバカ!」 「赤くなって可愛いね」 「バッカじゃねーの?バカ、バァーカ、これ、とっとと片付けて来いよ!」 入院して初めて完食した夕食のトレーを突きつけると、 「ハイハイ」 と、笑って病室を出ていく広い背中に頬が緩む。 どうして、俺の周りの人間は、こんなに優しい人ばかりなんだろう……? 白衣の天使に未だ居たのかって顔をされたと苦笑いで戻って来た颯介はインディゴのジャケットを取って片腕に俺の背を支え、静かにベッドへ横たえた。 「疲れるから少し休みな」 「帰るの?」 「原稿用紙が要るんだろ?」 腕の解かれるのは心許なくて、咄嗟にジャケットの袖を掴む。 「どうした?」 「……、万年筆も要る」 「わかった」 「あと……!」 手紙を仕舞った抽斗(ひきだし)に万年筆があるのを見られていたのかもしれない。颯介は引き止めたい俺の気持ちなんて御見通しとばかりクスッと笑った。 「明日、また来るよ」 髪を撫でてくれる手は優しくて、俺は『あした』という言葉を怯えもなく信じられた。 「うん、颯介。また明日ね」 また、あした……。

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