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第1話

 姫小路(ひめのこうじ)大輔は悩みがあった。筋肉質で骨格がしっかりとしてよく日に焼け肌に短く黒い短髪の姿に似合わない苗字についてではない。人より腋臭を強いのではないかということと、その腋臭に強い執着を示す者がいることだった。 「だいちゃん」  姫小路には、兵藤(ひょうどう)(ともる)という友人がいる。線が細く、色が白い。さらさらの髪の下には透き通った大きな瞳がすっとした二重瞼で愛らしく見える。美少年だ。まるで2人はタイプが違ったが入学式でたまたま隣に居合わせた兵藤と、落とした物を拾ったのがきっかけで知り合った。 「と、ともちゃん…」  またあれか、と姫小路は思った。兵藤は触れたら折れそうな細い腕から信じられないくらいの力で2回り近くはありそうな印象を受けるほどの体格差の姫小路を部室棟裏の壁に押さえつける。コンクリートの打ちっぱなしの部室棟は空気が淀み、汗や埃や様々な薬品が混ざった匂いがする。部活終了後に狙ったかのように兵藤はいつも現れた。ゼミが今終わったと明るく話す。空はもう深い青に染まっている。  兵藤は姫小路が来ていた黒いジャージの前をゆっくりと開く。白い手がジャージのファスナーを焦らすように下げていく様子を上から見るのはカノジョも女友達もいない姫小路にとってひどく緊張するものだった。露わになっていく均整の取れた筋肉。兵藤の可愛らしい口元が吊り上がる。だがそれは逞しいほどの胸板が見えたからではなかった。隆々とした腕の付け根の下、あまり人には見せることはないが、見せないというところでもない茂み。姫小路は苦々しく表情を浮かべる。人より臭うのだ。香料のある制汗剤を使っても誤魔化せなかった。 「いただきます、してもいい?」  痛いほどの視線をまだ腕の内側と胸筋によって閉じられている狭間に浴びせていた兵藤が頭1つ分以上はありそうな姫小路を見上げる。兵藤は自分の美貌に気付いているのかそれともいないのか分からない。ただ姫小路は兵藤に逆らえなかった。きらきらと星や花をちりばめそうな笑顔を浮かべて兵藤は閉ざされたそこへ顔を埋める。姫小路はされるがまま腕を上げた。生い茂る毛と光る汗。立ち込める腋の匂い。兵藤は開かれた目的地へ桜色の舌を伸ばす。 「っ!」  姫小路はぴくりと動いた。ほぼ他人に触らせることのないそこへ生温かい感触が這う。初めの時は驚いて拒否した。「だいちゃんの匂い、好きだな」。それは衣服についた洗剤や柔軟剤の香りの話だと思っていた。だが違った。戸惑った顔をされて、引かない?怒らない?と言質を取られ、告白されたのが、自分の腋臭にたまらない気持ちになると言うから姫小路は戸惑った。泣きそうになる兵藤を宥め、ずるずると回数を重ねている。今日で右手で数えるには足りなくなったくらいだ。毎日ではないのがせめてもの救いで、本当にゼミのある日やゼミの終わりが遅くなった日にやって来る。 「ちょっ、そこ…くすぐったい……」  毛穴を抉るように舌で突かれると擽ったさに力が入らなくなってしまう。猫が別の猫の体毛をざりざり舐めるように兵藤は容赦なく腋に舌を這わせる。鼻先を特に毛が密集した部分に当てて大きく息を吸い込む。他の人ならば卒倒するような臭気なのではないか。卑屈な考えが浮かんぶ。 「だいちゃんのここ、やっぱいい匂い」  また顔を上げ、少しとろんとした大きな瞳を向けられる。恥ずかしくなって閉じようとする。箸よりも重いものは持てなそうな節くれだった白い指が姫小路の屈強な筋肉に痣がつくのではないかというほどに力強く、腕を掴む。すんすん、すんすん、鼻が鳴る。眠そうに瞬く長く濃い睫毛。恍惚としている瞳と、緩む口元。 「だいちゃん」  嫌な予感がした。少し上擦った声は大体碌な話ではない。 「勃ってきちゃった。シてもいい?」 「え」  薄暗い視界の中でもきらきらと輝く色素の薄い大きな瞳。ガラス玉のようだった。とにかく美しく可愛らしいと思った顔が下卑たニュアンスを含んだ頼みをして、無邪気に首を傾げた。 「座って」  了承など要らない。兵藤に言われるがまま姫小路は屈む。お気に入りの左腕からジャージの袖を抜く。可愛い顔がジーンズから、緩く勃ち上がったものを出す。 「ちょ、ちょっと!ここ外だぞ」 「じゃあ部室借りていい?」  断れば、やめてくれるかも知れないと思った。 「外トイレ行こう?」  悪意も何もない、普段の兵藤へと一瞬で戻る。兵藤はそういうところがあった。だがまた外トイレに行けば見た目からは全く想像も出来ない馬鹿力で姫小路を押さえ込んでしまうのだ。ジャージを着直すとすぐ袖を掴まれ、外トイレへと引っ張られる。兵藤は美少年だが男だ。  薄暗く、ちかちかと点滅する蛍光灯。蛾の死骸が下には転がり、蜘蛛の巣もある。タイルに背を預け、同じように屈んだ。ジーンズのファスナーを下げる音に緊張する。目の前に現れる、美少年の顔や身体付きとは別パーツのそれ。男同士だから恥ずかしさなどないのだろう。 「だいちゃん、お願い」  腋を開かずにいると兵藤は沈んだ声を出す。後ろで蛍光灯がちかちかと点けたり消えたりして、兵藤の可憐な顔は逆光し塗り潰されているようだった。逆らえない。情けなくコンプレックスの脇を絶世とすら思えた美少年へ晒す。その恥ずかしさに腰の辺りの力が少しずつ抜け、また妙な筋肉に力が入る。 「あ…ああ…すごい」  見てはいけないものを見ている。兵藤は姫小路の腋へと陰茎を擦り付ける。半分勃っている。変な感覚に兵藤から目を逸らした。何か別のことを考えようとする。腋の毛が半勃ちの陰茎に撫でられる。ざりざりとした感触。兵藤の少し高い息遣い。腋の匂いに欲情されている。恥ずかしいさに顔が熱くなって、段々と姫小路の股間にも熱が集まっていく。 「だいちゃん…、すごい、だいちゃん…ッ」  やめてくれ。首を振るが喋れなかった。顔が真っ赤になる。腋を掠れたり、腕の内側に擦り付けたり、先端部で腋窩を突いたり好き放題される。早く終わってくれと思った。姫小路の股間も張り詰めていた。腋を犯されている腕を取られ、柔らかく曲げられる。固くなった兵藤の可愛らしさの欠片もない熱い筒を腕の内側と胸の筋肉が挟む。 「ッ、…っ」 「だいちゃんの腋で出していい?」  抜き差しが速くなる。胸の突起もまた張り詰めた。諦めの頷き。 「あっ…!」  兵藤の可愛らしい声が聞こえ、脈が腕と胸に伝わる。緩く動く熱。腋に挟まれた液体。胸に塗り付けられる白濁。身体の側面を伝っていく感覚がむず痒い。それらが大きな刺激となって姫小路の股間に響く。触れたい欲求に駆られたが、その時とうとう蛍光灯が切れた。暗くなる。混乱して頭が真っ白になった。姫小路はオカルトが苦手だ。暗いところも苦手だった。外トイレのアルミの扉を突き破るように飛び出す。股間の滾りも吹っ飛んだ。 「ぅわ!っぶね」  外トイレを出てすぐの、行事でもなければあまり使われない駐車場で人とぶつかる。香水の淡い清涼感のある匂いがした。少し落ち着いた金髪に銀のイヤーカフス。形の良い眉が歪み、切れ長の瞳が訝しむ。 「大ちゃん?」 「よっぴ…」  安心してしまった。相馬(そうま)清孝(きよたか)。通称「よっぴ」。中学時代の友人だ。まさか大学で再会するとは思わず、入学したての頃は地元が恋しくもなって喜んだものだった。思い出した安堵感につい声が震える。 「どした?」 「トイレ、電気、消えて…」  へなへなとへたり込んでしまう。相馬は姫小路を顔を上から覗き込んだが、正直な彼の顔はまた大きく歪んだ。 「なんかここ臭くない?」  周りを見渡す相馬。姫小路はそこまでか、と思った。兵藤のとはいえ体液で汚された脇の匂いを確認する気も起きない。 「もしかしてヌいてきた?なんか青臭い」  姫小路はジャージを急いで着直す。腋にジャージの生地が潰されぐちゃ…とした。 「ね、ね、よっぴ、お願い、ついてきて」  相馬はマジか、と言ったもののそのまま姫小路と共に部室棟へ向かった。部室棟にまだ荷物を置いたままだった。そして着替えなければならない。このまま帰るつもりでいたが予備のシャツに着替えるしかない。汗拭きシートで脇とその周辺を拭き、予備のシャツに着替える。相馬は見張るように外にいた。部外者が入るの悪ぃだろ、と。相馬は中学時代、手のつけようのないほどの不良少年だったが随分と丸くなっていた。 「暗いのダメは相変わらずか~」 「う、うるっさい!よっぴだって虫ダメだろ!」 「ばっかお前、虫は大体のやつダメだろ」  相馬と積もり積もった話をしながら帰る。ドラッグストアの前で姫小路は立ち止まった。ドラッグストアの光を浴びて浮き上がる姿に相馬は、なんだ?と眉を上げる。 「なぁ」 「あん?」 「俺、脇、臭い?」 「大体の野郎の腋は臭ぇだろ?」 「う~ん、そうじゃなくて」  姫小路は腕を上げる。相馬が、顔を顰めた。 「人より臭いんじゃないかって」 「女子かよ。そんなら買っていけば、腋臭抑えるやつ」  相馬がドラッグストアへ入っていく。姫小路もそれに続いた。相馬が向かったのはコンドーム売り場で、中学時代を振り返ればイメージだったといえばイメージで、縁遠かったといえば縁遠い。姫小路は制汗剤やボディシートが売っている棚を探す。脇の匂いを抑えると売り文句が貼られた塗り薬を選んだ。テレビコマーシャルでも見たことがある。効くだろうか。会計を終え、入り口で相馬が待っていた。 「たまにはうち寄ってくか?」  相馬が人の好い笑みを浮かべた。互いに一人暮らしだ。酒やジュース、つまみを買い込んで相馬のアパートへ上がる。ダークグレーを基調とした落ち着いた雰囲気の変わった形の角部屋だった。 「めっちゃオシャレじゃん」 「デザインアパートってやつ。隣が事故物件らしいぞ」 「え」  なんてな。相馬は姫小路の背中を軽く叩いて部屋へ案内した。他の土地より高台にあるため窓から見る景色は開けていた。買ってきたつまみはそのままで食べられたが相馬は簡単にアレンジする。姫小路はガラスのテーブルと毛足の長いオフホワイトのラグの上で待っていた。電気を点けることもなくラバランプがライトグリーンに発光し、キッチンのオレンジの光が洒落た部屋をさらに瀟洒に見せた。空間を漂う嫌味にならないほどの淡い香りはコンセントに挿さったアロマディフューザーからだ。腋臭の酷い自分が臭くしてしまわないか。また卑屈になる。 「自炊してるの?」 「まぁな。高校の時ちょっと、カフェでもやりたいと思いはじめてさ」  赤血球の形に似た強く丸みを帯びた、中心の浅く凹んだ更にからからとフライパンから炒ったつまみを転がす。 「あのよっぴが?」 「忘れろ、あの頃はバカだったんだよ」  相馬は苦笑して姫小路の対面へと座った。やはり電気は点けないようだがキッチンの電気は消さないらしい。運動部のためアルコールを控えている姫小路は炭酸飲料を開ける。講義の話や同期生、教授の話をする。それから部活動の話。姫小路が所属しているのはスポーツ推薦生とはまた別の、趣味で楽しむいわば実質サークルだ。相馬はオカルト研究会とコーヒー愛好会に入っていた。オカルト研究会は同好会の維持の為にと頼まれた幽霊部員らしい。あれこれと近況を話し合い、目立つ同期生の噂話などをした。相馬は何缶かを空にする。 「んでさ~、コーヒー愛好会はジャズ研とさ~」  相馬はけらけらと笑った。大人っぽい整った顔が幼くなる。テーブルに突っ伏したまま話の途中で動かなくなる。 「よっぴ?」  す~、す~と肩が緩く上下する。細いわけではないが、日々鍛えている友人に囲まれているため相馬も華奢に見えた。何か掛けようと立ち上がりかけた時、淡い香りに混じったツンと鼻をつく匂いがした。兵藤が執着する、腋の匂い。恥ずかしくなる。垢抜けた部屋がさらに惨めにさせる。買ったばかりの腋臭を抑えるという薬を開けた。この部屋で腋を晒すのか。憚られる。目の前の相馬が起きてしまったら。立ち直れるだろうか。トイレを借りる。浴槽と一体化していた。大柄な姫小路に少し狭いが相馬ならそうでもなさそうだ。鏡の前で腕を上げる。兵藤に舐め回された腋。兵藤は特に左腋を気に入って執拗に鼻先を押し付けた。無数の茂みの根元ひとつひとつに唾液をまぶすように兵藤は偏執性を見せた。  買った制汗剤はロールオンタイプだった。少しでも抑えてほしい。  かさ…。  何か物音がした。隣は事故物件らしいぞ。相馬の言葉を思い出して、姫小路はばたばたばたばたと足音を気にせず相馬の元へ走った。相馬はテーブルから身体を起こす。ぼーっとした顔が、姫小路を捉えた。 「よっぴ!」  引き締まった身体にしがみつく。涙目になる。 「うん?どした?」  相馬はやはりいい匂いがした。腋臭など感じさせない。 「お、お化け…」 「お化け?」  相馬は体格のよい男にしがみつかれ、重そうだったが、支えるのが疲れたのか相馬は体重を姫小路へ預けた。すん、すん。通った鼻梁の下で吸い込まれる空気。嗅がれている。コンプレックスを。 「ああ、薬塗るの」  親猫の乳を(まさぐ)る子猫に似ている。相馬は姫小路の腋を求めて顔を近付けようとしながら、手に握ったままのロールオンの制汗剤を奪い取る。 「塗ってあげる」  相馬の目は少し熱っぽかった。掠れた声に見てはいけない姿のような気がして顔を逸らす。中学の時、かわいい女の子は全て相馬が手をつけていた。そして相馬は恨まれ、だが彼女らは恨みきれずにまたごたごたを繰り返す様を見ていた。彼女らは見たことがあるだろうが、自分は見ることはないと思っている相馬の表情が耐え難い。  間の抜けた音を立て、制汗剤の蓋が取れた。相馬に促されるまま、姫小路は床へ倒される。切なく歪み陰を作る相馬の顔にベルガモットの香りの他に何か危険なニオイがした。

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