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第2話

「大ちゃん」  酔っ払っているのか、相馬は開いた腋へと鼻を近付けた。息が、毛が繁茂するそこにかかった。匂いは届いているはずだ。相馬が漂わせる清涼感のあるクリスタルを思わせる香りも空間を包む淡いベルガモットの香りも負ける姫小路の体臭が。誤魔化せないほどの距離にいる。羞恥と不安で、さっきとは違う意味で涙ぐむ。せっかく会えた中学時代の友人をこのような形で遠ざけてしまうかも知れない。嫌われてしまうかも知れない。 「よ、よっぴ…」  声に反応して、そのまま腋から目の前に顔をスライドさせる。制汗剤を持っていないほうの手で拳を作り、腋へと当てた。匂いを擦り付けいると気付いたのはその拳が姫小路の鼻先に持ってこられたからだ。自身の匂いだというのに、親和しない刺激臭。きちんと洗っているし、匂いの元になるような食べ物も調べて出来るだけ避けた。それでも臭う。体質ばかりは仕方なかった。香水で誤魔化せたとしても近付けば犬や猫でなくとも嗅ぎ分けられてしまう。そして混ざった匂いは酷いものだろう。なんで自分なんだろうと思ってしまう。家族はそれは腋窩を至近距離から嗅げばある程度臭うかも知れないが悩むほどではない。  相馬は姫小路に嗅がせた後、新しい香水を確かめているかのように自身の拳を鼻先に当てた。姫小路の胴体に馬乗りになる。ロールオンタイプの制汗剤の口に埋め込まれた球を指で転がして、濡れたのを確認すると姫小路の腋に当てた。毛の特に密集する部分が冷たくなる。 「ひっ」  相馬は姫小路の腰の辺りに乗っていたが段々と臍の辺りへと迫ってくる。膝立ちして体重を抑えているのもあるが、引き締まった身体は姫小路の体格には軽かった。 「ぁむ」  腋で制汗剤がころころと踊っているようだった。その間、相馬は首を伸ばし姫小路の短い黒髪を噛む。 「いっ、痛っ、よ、よっぴ…っ!」  くすぐったさと腹に乗る質量と、髪を噛まれて引っ張られる小さいながらも鋭い痛み。酔っているのかこの奇行は反対の腋を塗り終わるまで続いた。むしろ髪を噛むためにしつこく塗っているようにすら感じる。 「も、もういいよ、よっぴ、よっぴ!」 「大ちゃん」  相馬は姫小路の髪に鼻を埋めてから息を吸う。うん、と言った。何かに返事をしているような、納得し満足しているような響きを孕んでいる。それから顔を上げて、涙ぐむ姫小路の鼻を甘噛みする。ふわりと透き通った甘みのあるミントの香りがして、脱色と染髪で傷んだ毛先が顔に触れる。 「足噛んでいい?」  相馬は姫小路の上から退いて、訊ねる。 「え?」 「だってオレもう眠いもん」  呂律の回らない口がへにゃへにゃと動いてまるで脈絡も因果関係もないことを言った。かなり深く酔っ払っている。そこまで強いのを飲んでいたか。それとも酒に弱いのか。もしくはダブルアタック。 「噛むの」  掠れた声が甘えている。有無を言わさずに姫小路はジャージの下を剥がされる。 「ちょっと、よっぴ!よっぴったら!」 「大ちゃんのこと噛むわ、めんご」  整った顔が、中学時代はヤンキーだの不良だのと恐れられていた顔が、人懐こく笑う。膝まで露わになった逞しい大腿へ顔を近付ける。外気に晒されて不安になった。 「待って、よっぴ」  硬い筋肉を面白がって相馬はペチペチと叩いた。そして舐め、柔らかく歯を立てた。ぞわぞわとした感覚に姫小路は身を竦ませる。膝まで下ろしていたジャージのズボンはさらに下ろされ、片脚だけ完全に脱ぎ、もう片脚は膝下まで落ちている。 「よっぴ!」 「うるひゃいって!」  膝の骨の窪みを大きく口を開けて齧られる。加減されているため痛くはないが痒くなってしまう。脹脛の質感を確かめながら叩かれ、骨の上を舌が這う。踝も噛まれた。 「よっぴ、足、臭いから!」 「やだ!舐める!」  黙れと言わんばかりに足首をがぶりと噛まれたがやはり痛くはない。その後何度も舐め、労わられる。膝を曲げそうになっては固定された。とうとう足の指にまで舌が近付く。指の狭間と狭間を足の甲側からねじ込んだ。5本指の背を舐め、それから足を持ち上げる。鼻先を近付けて、鼻を鳴らす。 「ちょ、よっぴ…何して…」  足の裏が柔らかくなった。頬擦りされている。ぱさぱさと髪が足に当たった。一点、生温かい湿る。足の裏も舐め回されるのか。 「よっぴ、やめて、よっぴ、汚いから…」  声が震えた。相馬は姫小路の足を丁寧に下ろして、首を持ち上げて自分を見る中学時代の友人へ微笑んだ。姫小路はその美しさに不覚にもどきりとした。女性的な美しさではなく、男性と一目見て分かる秀麗な顔は一瞬にして悪ガキへと戻った。飛び跳ねるように姫小路の上半身の脇へ躙り寄り、顔を覗き込む。 「よっぴ?」  相馬は大学でよく友人に囲まれていた。おそらく飲みに出掛けたりも多いだろう。その度に奇行に走るのか。 「乳首(ちくビ)ーム!」  とろんとした目が一瞬で輝き、見つけた!とばかりに布の下から存在を主張する胸の突起を両手の人差し指で押される。 「んっ」  じわりとした甘い痺れがそこから広がる。ぱさりと相馬の身体が傾いて、姫小路は布団になった。  相馬は何も覚えていないらしかった。寝てしまった相馬の下から抜け出したため、昨夜の珍事は姫小路しか知らないのだ。ホッとする。見てはいけないものを見てしまった気がする。 「悪かったな、一泊させちまってさ」  相馬を置いて帰ってしまうことは出来たが、外から鍵を掛けられないため結局姫小路は相馬のアパートに留まった。部屋を満たすいい匂いが身体に染み付いて腋の匂いを消してはくれまいかと思いながら一夜を過ごした。 「一泊させてもらっちゃったのはこっちだし」  相馬は真顔になって姫小路を見る。その眼差しは鋭い。 「シャワーくらい浴びりゃ良かったのに」 「ごめん。臭いよな」  綺麗な部屋だ。手入れが行き届いている。腋が異常に臭うだけでなく汗まみれの大きな男は1日シャワーを浴びないだけでも不潔なのだろう。勝手に使うのは悪いと思ったが、相馬を不快にさせるなら気にしなければよかったと姫小路は内心落胆した。 「いや?別に」  そういうつもりでもないと、相馬は躊躇いなく姫小路に接近してスタンプのように背中に鼻先を当てていく。 「ちょ、やめろって」 「へへ」  相馬のアパートを出て、姫小路は自身のアパートに帰り、午後から大学に行った。外トイレに置き去りにしてしまった兵藤は怒っているだろうか。気が重い。大講義室の段になっている座席を選んで座る。最前列でも最後列でもなく、中心の列の隅が好きだった。 「だいちゃん」  美貌が美声で姫小路を呼んだ。誰もが振り返る。その先にいるのは特に華やかさのない体格のいい男だ。怒っている様子はない。普段通りの兵藤だ。 「午前中いなかったみたいだけど、大丈夫だった?」  周りの女子がちらちら見て、周りの男子もしきりに兵藤を気にする。何度見ても美しい。何度見ても飽きることはない。だが姫小路は兵藤が少し怖くなってしまった。 「ちょっと、急用で…」 「そっか。風邪とか怪我じゃないなら良かった」  にこりと笑うと花が咲く。かすみ草の化身のようなこの美少年が異常なほどの匂いを放つ姫小路の腋に執着と劣情を抱くのが分からないでいる。相馬のことは、酔っ払いの奇行なのだと忘れることにした。誰にでもある酒の失敗だ。相手が自分で良かったとすら姫小路は思った。相馬は女子に人気だ。相手が女子だったらと思えば、よくある男同士の乳繰り合いに過ぎない。 「だいちゃん?」 「ん?何?」 「昨日のこと、怒ってる?」 「昨日のこと?」 「外トイレでハッスルしちゃったこと」  兵藤は真顔でそう言った。一瞬、真顔で言うようなハッスルという単語の意味を探しかける。その話を振られるとは思わなかった。むしろ置き去りにしたことを責められるのかと思っていた。 「お、怒ってないよ!」 「突然出て行っちゃうから…ごめんね。汚しちゃったし。つい夢中になっちゃって」  さらさらのキューティクルが兵藤の髪に天使の輪を被せる。少し目を伏せ悲しそうな表情をされたら許さないという選択肢はない。許さないという概念すらも奪われている。 「いや…大丈夫だよ」 「まさかジャージの下が素肌だと思わなくて…すごく興奮しちゃって…」  生々しく語られる。下卑た話だが、桜色の愛くるしい唇から紡がれるといっそ清々しい内容に聞こえる。 「またひとつ、だいちゃんへのフェチズムが増えちゃった」  耳打ちされる。姫小路は顔を真っ赤にした。 「大ちゃん~」  後ろの席の一段高くなっている座席へ知った顔が、朝別れてきたばかりの顔が通った。男子もいるが何人か女子を侍らせている。 「あ、よっぴ。朝ぶりじゃん」  相馬がからからと笑って周りの友人たちに、中学時代の友達なんさと紹介した。姫小路は少し嫌だなと思った。腋の匂いを嗅がれたりしないか。何か臭いと気付かれたりはしないかと不安になる。朝ぶりって何、と隣に座った女子に訊かれて、大ちゃん朝帰りなんだよ今日と説明する。キャハハ、何それ~と笑う姿は華やかだった。彼等は酔っ払った相馬の奇行を知ってるのだろうかと要らない詮索をしてしまいそうになる。もう噛まれて舐められて頬擦りされているのだろうか。 「隣の子は?カノジョ?めちゃめちゃ美人じゃん」  相馬は兵藤を見てから姫小路に説明を求める。兵藤はムッとして、姫小路が口を開くがその前に相馬の連れの女子が、兵藤燈くんだよね?と訊ねた。めっちゃかわいいから有名だよ。他の女子が続く。お前知らねぇの。男子の連れも言った。 「え、知らない知らない」  身内に首を振ってから姫小路らに向く。 「オレ相馬清孝。大ちゃんからは"よっぴ"って呼ばれてるけどコイツらからは"キヨ"って呼ばれてんさ。よろしく」  相馬は人の好い笑みを浮かべた。中学時代は荒れたヤンキーだった、とは言えそうにない。 「ボクは兵藤燈。だいちゃんの…だいちゃんの親友だよ。こちらこそよろしく相馬くん」  相馬と机を挟んで対峙し、ふわりと笑う。 「だいちゃんにこんなカッコいい友達がいるなんて知らなかったな」 「何言ってんだか。大輔にこんなかわいいマブダチがいたなんて」  突然呼び捨てにされていた。中学時代に戻ったようで少し照れ臭い。  授業開始のチャイムが鳴る。スクリーンがおり、照明が落ちた。資料が配られ、後ろに回した時相馬は起きていたが中盤で追加の配布資料を回した時には寝ていた。ラグに乗せたとはいえ寝づらかっただろう。姫小路も少し背中や肩が痛い。寝姿を見て苦笑していると横から手が伸びた。股間部を撫で、揉み込んでくる白い手。隣を見上げた。下方の黒板と教授を見て真面目に講義を聞いている兵藤がいる。片手だけ全く別のことをしている。 「なっ、あ…っひ、」  兵藤の手に刺激され姫小路は腰を揺らしてしまう。なんで。兵藤を見ても兵藤はしっかり講義を受けている。ガラス玉のような瞳は下方の教授を見据えている。悪戯にくずぐられ形をなぞられる。どうせ午後からでシャワーも浴びたからとジャージで来てしまったのがいけなかった。生地が薄く通気性もよければ熱と匂いは籠らないと。だが今、新たに立ち塞がる難関。兵藤の手がしっかり形を確かめ、摩っている。 「とも…ちゃ…っンっ」  硬くなる。下腹部が重苦しい。穿いたまま出したくない。だが今すぐ出したい。矛盾した欲求。頭の中が変になりそうだった。斜め後ろの相馬の連れの女の子がかわいいことや、肩や胸の露出が激しいこと。滑らかな太腿。兵藤の白い手への錯覚。いけないと思った妄想が比例して突き詰められていく。まだ掻き消えることはない理性に抜け出そうかと助言される。だが動こうとすれば兵藤に先回りされ、ぐっと太さを掴まれた。兵藤は突然どうしたのか。手が暇なのか。白く細い手を押さえつけて動きを封じると今度はくすぐるように指先で甘く掻かれる。親指以外の4本の指がばらばらに少しずつ固まる茎を弄ぶ。震えた手で兵藤の二の腕に触れた。出てしまう。意図を悟ったのか兵藤は手の動きを止めた。姫小路は肩を上下させながら項垂れる。熱が下がっていくのを待つしかない。膝を擦り合わせる。触りたい。思う様扱きたい。木製の座席が小さく軋む。 「大ちゃん、大輔?」  一段高い後ろから肩に触られる。背を屈め前にのめっている。熱くなった身体には相馬の掌は温い。耳元で囁かれる。 「大丈夫か?体調良くねぇのか?…悪かったんな、昨日」 「だ、だい…じょ、ぶ…」  変な気分が冷めないでいる。まだ股間部にいる兵藤の手が弱く茎を抓る。漏れ出そうな声に、咄嗟に口元を押さえる。 「ゲロ吐きそ?」 「だ、大丈夫…ちょ、ちょっと、しゃっくり」  大講義室は少し騒がしかった。特にこの講義は教授が緩い。そのためあちこちの小さな私語が集まって少し騒がしい。それがうるさいと思ったこともあったが今は助かった。 「ん、あんま無理すんなよ」  分かったと相馬は身を引いた。 「っ…」  兵藤の手がまた悪戯を始める。涼しい顔で肉欲も感じさせない白い顔はスクリーンに映し出される映像を見ている。瞳がきらきらとスクリーンと同じだけ光った。ただ片手が姫小路の股の間を苛む。形を辿って指が往復する。触りたい欲求に耐えられなくなって冷房が火照った身体を嘲笑う。 「っぅ、ん」  達しそうになって、期待と、期待に引き摺り出される羞恥と躊躇い。だがそのある快感。身を固くしたところで兵藤の手は離れる。黒板の横の時計の長針が動く。数秒遅れてチャイムが鳴った。照明が点いて、資料や筆記用具を片付ける音でまた騒がしくなる。課題の話や、間食の話が始まった。教授が大まかに来週の内容を話すが聞いている者の方が少なかった。  隣りの兵藤は何事もなかったように机の上を片付けている。 「だいちゃん?どうしたの。具合、悪い?」  集団で帰ろうとしていた相馬が振り返った。 「大輔、昨日はマジで、無理させて悪かった」  何も喋れず手だけ上げる。連れの男女らの雑談を聞き流しながら、大講義室を出て行くまで相馬はじっと姫小路と、兵藤を見ていた。相馬の視界から2人が消える直前で兵藤とばちりと目が合った。  姫小路は後は達するのを待つだけの屹立を凝視する。

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