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第7話

 なぁ。全く視界を刺激しないくせ、強い光を放つ男に姫小路は真っ黒く陰った。 「この前言った、オレがもてなすって言った話…」  何故、また話しかけてくるのだろう。姫小路の態度の種類が分からないわけではないらしく、きゃらきゃら笑う快活な相馬らしくない機嫌を伺いながらおそるおそる話しかけている。分かっているなら話しかけるなと思ってしまう。そういう直向きさが、彼の眩しさが姫小路を追い詰めると言った兵藤の言い分がやっと身に染みてきた。 「ごめん、行けない」  怒ったら、少しは嫌なヤツだと思ったかも知れない。怒らせる原因が誰なのか考えもせず。 「え…?」 「もう気にしてないしさ。相馬の友達誘ったらいいじゃん?」  姫小路はどうしていいか分からず、誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。 「で、も、オレは大ちゃんに…」 「いいって、疲れるだろ、相馬も。オレといんの。じゃあ行くわ」  逃げ去って、行き着く先はコンビニエンスストアのサラダスパゲティを食べる兵藤のもとだった。姫小路はテーブルに両肘をついて、組んだ手元に顔を埋めた。兵藤は可愛らしい顔立ちでサラダスパゲティを不味そうに食べている。姫小路も食べたことがあるがそのサラダスパゲティは特に美味しくもないが不味くもない。 「なんであたしが怒ってるか分かる?」  互いに黙っていたが兵藤が口を開き、姫小路は顔を上げた。 「みたいな感じ?」  バジルが散りばめられ刻まれたローストチキンが形の良い唇に消えていく。 「怒ってはないけど…」 「怒ってはないけど落ち込んでるんでしょ。またあの男?懲りないな」  普段は頬を綻ばせ、農家や酪農家や漁師や調理者、加工者、運送屋その他生産者、販売員に感謝と感動を伝えるほどに美味しそうに物を食べていた兵藤が、今は味わうことさえなく己の腹を満たすためだけに物を食べている。兵藤の左腕の外側には、肘が中間に位置するほどの大きな傷跡があった。初めて半袖姿を見た時、友人とふざけ合って付けてしまったと言っていた。この前聞いた、発狂したという友達の話を思い出してしまう。関係の有無は分からない。訊くに訊けるようなことではなかった。 「ちょっと遊ぶ予定があったけど、断っちゃって」  ふぅん。興味なさそうに兵藤は相槌をうつ。 「まぁ、罪悪感に押し潰されそうならやめたら。都合のいいヤツだなって切り捨てられるかも知れないけど。問題は受け入れられた時だよ。お人好しと善人と馬鹿は紙一重で同じ人種だから」  プラスチックの容器に当たるパスタの軽快な音。玉ねぎが微塵切りにされ醤油ベースで甘酸っぱく味付けされた匂い。 「うん…」  相馬には何の悪気もない。行動を反芻したところで、避けられている理由など分からないだろう。数日間避け続けても相馬は諦めなかった。罪悪感が募るが、これが最後だと思う。あの実直に、罪悪感がそろそろ悪意に変わりそうになってしまいそうだ。 「辛気臭い。だいちゃんの腋の臭さは大好きだけど、辛気臭いのは好かないよ」  最後の一口がレタスに包まれ口に運ばれた。あまり嬉しくない告白だ。 「歯、磨かなくちゃ。カノジョに会うから。じゃぁね」  食後に休むこともなく、容器を袋にまとめて兵藤は、仕草だけは可愛いらしく姫小路に仔猫の手を振ったがその表情は不機嫌さを隠さない。それよりも。カノジョといった。姫小路は手を振り返すことも忘れていた。 「カノジョ、いたんだ」  呟いていた。小さくなっていく真っ白い翼が生えていないのが不思議な背中を見送る。  数日間、相馬はついに姿を見せなくなった。大学に来ているのかも分からない。探そうとして、我に帰ってやめてしまう。酷いことをしてしまった。姿を見つけようと、見つけようと、見つけようとしてしまう。だがいない。 「だいちゃん」  背を叩かれる。何を言うでもなく、指定された席に兵藤は向かっていく。 「うん…」  遅れた返事。相馬に酷いことをしてしまった。あの派手な集団の中にも相馬はいなかった。姫小路の近くを通り過ぎる時何か言われるのではないかと、息を忘れた。冷汗。毛が伸びた腋から、あのむわりとした匂いが広がる。目をカッと開いて、鼓動のたびに視界が揺らぐ。だが、何も言われなかった。むしろ。  あ、キヨの友達じゃね。  なんだっけ?キヨッピとか呼んでんだっけ?  最近あいつ来てねぇからよろしく言っといて~  気怠げだが友好的な言葉をかけられる。相馬を追い詰めたかも知れないというのに。人を避けたことなどなかった。小さい頃から、除け者にしたりいじめたりすることが出来なかった。他人に悪意を見出すのか怖かった。1人を仲間外れにすること、誰かをいじめることに巻き込まれなじめず、姫小路に皺寄せがきたこともある。集団でやるのなら罪悪感が分散されるのだとしても、姫小路には耐えられなかった。短く切ってある黒い髪を摘んで引っ張る。不安になるとついやってしまう癖だった。講義も頭に入らない。  取り巻きの1人に声を掛けられたのはその講義の後だった。長い巻き髪の少し厳しそうな印象を受けるが、可愛らしい女だった。グロスで光る唇をつい見つめてしまう。少し洒落た学食で話さないかと誘われて、胸が大きく脈打った。無自覚かそういうものなのか襟が大きく開き、無防備な胸元が危うげだった。オレンジを基調としたメイクがよく似合っているが姫小路には分からないことだった。 「その、話って?」  女は対面に座る。互いに名乗ることもない。泣きそうになっている長い睫毛の下の大きな黒目。どきりとする。何を言われるのか、半分は純粋な興味で、もう半分は期待。 「清孝くんのことなんだけど」  清孝。よっぴ。相馬だ。本名を忘れていた。よっぴと呼んでいる期間が長かったから。 「よっ…相馬、が、どうかしたの?」 「…最近来てなくて」  ぅげ、と思った。それを問い詰められるのは困る。 「その、告白、したの…。それで、なんていうか、気に病んでるのかな、って思って…」  一筋の光が見えた。相馬が来ていないのは自分のせいではないかも知れない。ただ距離を置いただけだ。悪口を言ったわけでも、無視したわけでも、罵倒したわけでもない。危害は加えていない。自分のために、避けただけ。降りかかる火の粉を払っただけ。思い付く限りの言い訳を探す。 「よっ、…相馬に?そ、それで…?」 「大ちゃんだっけ?…清孝、よく大ちゃんのこと話すから…その、あまり気にしないでって伝えてほしいの…。また友達としてでもやり直したいって」  鼻がひくりと動いた。砂糖をかけた果物といった異質の甘さが調和された香りがした。まとわりつく香りではなく爽やかに鼻腔を抜けていく。姫小路はじわりじわりと腋が湿っていくのを感じる。香りに対抗するように、自身の生々しい刺激的な臭いを拾った。 「よっ…そ、相馬に?」  小さな頭が縦に揺れる。あまり女性と認識した女性と接したことがなかった。中学時代も高校時代も関わりの多かった女子は、女性より先に気楽な友人や喧しい妹、勝気な姉といったふうで、姫小路の思う女性とは違っていた。目の前の女が、違う世界から転移してきたように思ってしまう。兵藤は美少女然としているが、首筋や肩のライン、半袖から見える腕の肉付きなどから男であることを色濃く再発見させる。 「他の人だとごたごたしそうだから言えなくて…でもこのままじゃ嫌だから…」  羨ましいと思った。相馬が異性に好かれることがではない。相馬の周りにいる者はやはりタフだ。 「ダメ、かな」  頼られてしまうと断れない。名も知らない、ただ共通の友人だけでこうして関わっただけの相手。お前は図体が大きいのだから弱っている人を守れる男になるんだよ。小さい時に祖母に言われたこと。頼ってくる人々を弱っているとは思わなかった。自分より背が低いから、腕力がないか、運動神経が鈍いから、他者と上手く関われないから。頼られる内容は様々だった。 「わ、分かっ、た…」  頼られる。自分にしか出来ないことだから。 「ほんとに?ありがとう、…嬉しい!」  潤んだ瞳が揺れて姫小路に真っ直ぐ向けられる。相馬が姿を見せなくなったのはこの女と一悶着あったらしいからだ。それだけで気がわずかばかり楽になる。ただそれが可能性でしかないこと、それが原因の半分でしかないかも知れないことも頭に入れておきながら。 「う、うん…」  去り際の女の足取りは軽やかだった。踵を削り取りそうな真っ赤なハイヒールが小気味良く響いていった。相馬によく似合う派手で華やかで垢抜けた女。隣に自身を描いてみて、似合わなかった。相馬にも、その女にも。 「臭いよ、だいちゃん」  別の講義の合間にすれ違った時、兵藤に言われた。 「ご、ごめん…」  今日は一段と臭うのか。鼻に届く嗅ぎ慣れた腋の臭いは確かに人より強いがいつもと変わらない気がした。鼻が慣れて感知しなくなったのか。嫌だな、と憂鬱になる。すでに大分伸びてきているが、毛を剃ったのは間違いだったのか。相馬と少し親密になってしまったことも―― 「何の匂い?女モノじゃん、やめて」 「え?」  兵藤に腕を取られ、近くのトイレに連れ込まれる。"あれ"をする時間はない。 「鼻が曲がるよ」  兵藤は不機嫌な表情で、トイレの壁に姫小路を押し付け、腕の根元に顔を埋めた。腋汗で色が変わっている布に躊躇いなく白く通った鼻を押し当てる。息を吸われ、湿った部分に刹那の清涼感が訪れる。 「ボクの匂いが移るのも嫌だよ、本当は」  鼻や口元を付けたまま喋るため、くすぐったかった。ガラス玉の双眸に威圧的に見上げられる。凄む小さな顔もまた艶やかな小悪魔と見紛う。足音が近付いてきて、兵藤は身体を離した。 「ともちゃん」  どうしよう。兵藤の顔を見たら、つい訊いてしまいたくなる。どうしようかと。まるで宗教だ。天使はあくまで遣いでしかない。 「知らない女の匂い付けてるだいちゃんなんて知らない」  兵藤は臭いと罵り嫌がりながら姫小路の身体中を嗅ぎ回る。 「ごめ…っ、じゃなくて、その、」 「自分で決めたら、そろそろ。どう思ってる?ボクの案にのって、こうなっちゃったこと」  冷たい顔で兵藤は姫小路の固く引き締まった腹をぺちりと手の甲で叩く。氷像の美しさと雪像の儚さを漂わせ、兵藤は去っていく。  相馬はとにかくよく1人でいた。不良と言われて、先生たちも相馬と関わることを良しとしていなかった。相馬はベランダの果ての、鍵の壊れた被服室に忍び込んでは、窓際のロッカーの上で日向ぼっこをしていた。 『そ、相馬くん、何して、るの』  呼んでこいと言われたため、姫小路は怖かったが相馬がよく居る被服室を訪れた。夕日が相馬の金髪と白い顔をを染めた。 『別に』  姫小路を一瞥して、興味無さそうに遠くを見つめる。見えるものといえば、遠くのパチンコ店の看板と、大きな工場と運動公園のナイター設備、さらに遠くのゴルフ場のグリーンの網くらいでその他は民家や細々した店で、つまらない田舎の風景だった。 『み、みんな呼んでる、よ。きょ、教室戻ろうよ』 『みんなって誰?どいつとどいつとどいつ?』 『みんな、はみんな、だよ』  姫小路に興味が失せている相馬はどこか遠くを見ながら問い、姫小路の返答には黙っていた。 『オレは、みんな、にはならない』 『え?』  鋭い眼差しがベランダと教室の框とロッカーの上の分、姫小路を見下ろす。 『どうせ頼まれたんだろ、いいぜ。帰れ』  相馬に動く気配はなかった。頼まれている以上、相馬を連れ戻さねばならない。落胆されるのが怖かった。 『教室、もど、戻ろうよ』  相馬は無視した。夕焼けを浴びて、傷んだ髪が光に溶ける。まだ男性的な成長の途中だったその姿が綺麗だと思った。目的を忘れ、見惚れてしまう。当時流行っていたカードゲームのイラストのようだった。少女の華奢さと肉感、滑らかさを残しながら男性的な肩や筋肉の線、喉仏と鎖骨に落ちるオレンジの影。 『まだ何か用があんの?』 『あ、うん、でも、教室、戻ってきてほし、くて』  しつこいな。小さく呟かれた。 『戻ろう、一緒に。みんないて、みんなだから、ね』  骨の浮かぶ手を握ると振り払われて、アルミ製の窓枠にぶつけてしまう。思いのほか、痛かった。相馬の切れ長の瞳が開いて、姫小路自身が痛みにその手を押さえる前に、握られた。 『悪ぃ、野球…』  乾いた手が姫小路の手を上下から挟んで撫で付ける。姫小路は、え、と焦っている相馬の顔を凝視してしまう。 『ボール、投げられるか』  野球部に入っていることを知っているのが嬉しかった。頭髪や雰囲気で分かるだろう。だがそれでも、相馬に認識されていることが嬉しかった。 『投げ、られるよ』  溜息を吐かれる。 『今日だけだからな。次からは行かない』 『う、ん。困るけど、でも多分また、迎えに行くと思う』  舌打ちされたが相馬はロッカーから降り、姫小路に同行する。染めて傷んだ髪がぱさぱさ鳴った。蜜柑や檸檬に似たような、胡椒が混じったような香りが届いた。ぶつけた手はまだ少しで痛みが残っていたが、指を曲げられないほどではなく、そのうち消えるだろう。  初めての会話らしい会話といえばそんなものだった。  デザインアパートの階段を踏み鳴らす。姫小路の借りている激安アパートとは違いカンカンと鉄板はうるさくないが、段差が少し急だ。都心に繋がる大通りに面して、立地はいい。八百屋や精肉店、業務用スーパーや普通のスーパーが並び相馬には暮らしやすい立地に思えた。西側にはドラックストアやラーメン屋、歯科医院や銀行も目に入る。閑散とした昔ながらの風情は残すがシャッターばかりの小さな商店街の外れにある激安アパートの集合地域とはやはり大きく違った。相馬によく似合っている。あの華やかな女がハイヒールでこの階段を上がっていく図も容易に想像できる。  相馬の部屋のインターホンを鳴らす。

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