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 腿に景晴(かげはる)の頭が乗った。こんなふうに甘えてくるのは久々だと思いながら、私はその重みを心地よく思う。  景晴は私の腿に頭を任せたまま、開け放たれた障子戸の外に広がる庭をぼんやりと見ている。  土地のせいか、外はほとんど曇り空だ。それでも、景晴が来た日は晴れ間が見えて庭にも光が差し込む。  乾いた風が吹くと、部屋の中によいにおいが舞う。庭の貧相な花ではない。私に言いつけられた景晴が焚きしめた香りだった。  宮殿の中には儀式的に風変わりな香を炊くらしく、前までは景晴がそのにおいをまとって来ていた。私にはそれがどうしても耐えられず、何でもいいから着物に別の香を焚きしめるよう言ったのだ。そうしなければ出入りを禁じるとまで言った気がする。  いくら景晴とはいえ、あのままでは腐肉の燻製同然だった。  庭からの風で乱れた景晴の髪をそうっと耳にかけてやると、むず痒そうに鼻の下をこする。 「ふふ」  その幼い頃から変わらない仕草が可愛らしい。だが、そう思う一方、武者らしく精悍な横顔に寂しさを覚える。 「(はやて)」  いつの間にか低く艷やかに変わった声で名を呼ばれ、胸がひりひりした。 「なんだ」  平静を装い、髪を梳かし、額を撫でてやると、景晴がごろんと寝返りをうつようにしてこちらを向いた。その黒い瞳に自分が映り込む。  汚い黒い肌。老いて見える白い髪。  額から左右に伸びる複数ある鈍色の、つの。  鬼の膝で横になる武者など、この世のどこを探しても景晴だけだろう。 「……ここへ来るのは今日が最後だと思って、な」 「そうか」  景晴はその名の通り皇太子、晴臣の影武者だった。  この有日ノ帝国(ありひのていこく)は古から帝派と、教皇派とに分かれ、醜い諍いを繰り返している。発端は、近隣諸国を征服した帝国が、神通力を持つ帝一族を神と崇めるよう強制的な統一を図ったためとされている。  弾圧を受け、征服された国の反乱分子が帝を神とせずに全く違う神を崇拝する一神教を立ち上げ、実質的宗教紛争が影武者の存在を必要とした。  本物の晴臣はこの抗争から身を守るため、成人ノ儀を迎えるまでは都から離れた神殿で神通力を磨きながら暮らしており、年に数度、特別な祭礼にのみ都を訪れている。  影武者の景晴はその僅かな時間に抜け出し、最奥ノ東屋と呼ばれるこの場所に来ていた。何度も訪れるうちに見張りの目をかいくぐる術も熟練され、今では晴臣が祭礼を行う時間以外にも、周りのすきを見てここを訪れゆったり過ごしている。 「初めて会った時は、まだ五つだったのにな」 「しかも継ぎ接ぎのぼろを着て」 「ああ、そうだった、そうだった」  懐かしくてつい顔が緩む。  あの時は晴臣もいたが、私の目を捕らえて放さなかったのは、野良猫のように警戒心をむき出しにした景晴だった。 「今日で最後か」  事実を飲み込むために自分で口にした。  もう彼はここには来なくなる。つまり、晴臣が成人したということだ。  皇太子としての仕事もこれから増えていく。影武者である景晴の仕事は終わり、隠居という形で宮殿の外に家を与えられる。  そうなってしまえば、この東屋に入る手立てはない。  だが、それでいいのかもしれない。今後のことを考えると、今まで通り景晴をここに通わせるわけにはいかなくなる。  次期帝にのみ許された数百年続く、帝国の伝統という名の辱め。  かつて、神通力を以て鬼退治を行ったとされる帝一族の先祖。それを称えるため、国の繁栄を祝うため、様々な理由をこじつけて、祭礼のたびに私を犯しに来る。  皇太子が稚児として扱われる十数年だけが、私にとっての安息の日々だった。  そして、この十二年は、今までの中で最も心安らげた十二年だった。 「少しは寂しいか?」  景晴が指を絡めるように私の手を握った。 「どうかな」 「なんだよそれ」  遠からず別れが来ることはわかっていた。  だから私は、自分の気持ちだけは知られないよう努めてきた。呼吸を乱さず、視線を濁さず、頬を染めず、声を震わせず……。 「お前は寂しいのか?」  祈る思いで問いかけると、景晴は少し目を見開き、それから目つきを鋭くした。 「聞かないとわからないのかよ」  いじらしいその返し。私は答えずに笑って誤魔化した。  温かな春のような、景晴との日々。これがあれば向こう数百年、微笑んでいられる。 「……颯」 「ん?」  景晴が体を起こし、私の襟を掴んだ。  真正面からじいっと顔を見つめられ、私はあっと思って景晴の胸を押した。  軽く押しただけで、私の襟から手が離れる。  景晴が何をしようとしたのか、わかってしまう自分が嫌だった。そして、本心ではそれを望んでいるのに、拒絶しなければならない事実が胸を押しつぶすほど辛かった。  だがそれ以上に、これから起きることに、景晴の姿が重なってしまうことが嫌だった。 「景晴」  顔を伏せたまま、景晴が立ち上がる。  行ってしまう。  そうわかっていても、引き止める言葉を私は持っていなかった。  だから、ただ「幸せにな」とだけ、広くなった背に声をかけた。

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