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弐
鬼とは、元来人間だった化物だ。
恨みつらみ、妬み嫉み、そういった深い感情を持ったまま死ぬと、鬼となって蘇るという。
だが、あの人にそんな根深いものがあるようには感じられなかった。生死を歪めるほど、何かに囚われるような人ではない。
少なくとも、俺はそこまで彼の気持ちを揺さぶることができなかった。
拒むように押し当てられた手の感覚がまだ胸に残っている。
強く押しのけるでもなく、ただ当てられた手。
温かい血の通った手だ。
抜け道から自室に戻る。いや、自室と言っても本来は晴臣のもので、俺のものではない。
俺は死んだ母親とへその緒で繋がって泣いているところを、商家の下男に見つけられた。見殺しにするのは酷いと思ったらしく、町医者に運び込まれた。
それは皮肉なほど、美しい月夜だったらしい。
その後はしばらく、その下男を養父として育ったが、物心ついた頃に引き取られた。
有日ノ帝国は戦こそ強いが、土地柄か天候に恵まれず、田畑は痩せ細っているため、商家と言っても裕福ではなかった。その下男ともなればなおさらだ。
本来の名を忘れ、ここで見聞きしたことを一生黙っていれば、生きる限り不自由なく生活できる。
ここに来て最初に聞かされたことだった。右も左も分からない子どもだった俺は、景晴と名を変え、養父との別れを受け入れるしかなかった。
養父の兵衛が生活に窮していることは幼心にもわかっていたのだ。兵衛は優しい父だったが、あのままあそこにいては彼の首を絞めることになっただろう。それくらいは理解できていた。
つけられた名を捨て、影武者になる決断は間違いではなかった。兵衛も一人なら生活で困ることはないだろう。
だが、文のやり取りすら禁じられ、広い寝台で情けなく枕を濡らしながら寝た夜は一夜、二夜ではない。
その凍てるような寂しさを和らげてくれたのが、彼だった。
颯。小さな庭と小さな東屋。そこに佇むようにいる鬼だ。
かつて、この国が帝国に至る前、人里を荒らして回っていた鬼を帝一族の先祖が神通力で討ち滅ぼした。颯はその時代からいる唯一の鬼だった。
鬼はもうほとんど存在していない。存在していても、帝一族がいる限り無力だ。
見えない枷に縛られる颯は、感情の起伏が全くと言っていいほどない。
十二年通いつめて、結局彼の本心に触れたことはなかった。
――幸せにな。
背にかけられた言葉を思い出す。
今になってまともに別れも告げずに出てきたことを後悔したが、もうあそこに戻る時間はなかった。
だが、別れのあいさつなどきっと颯は気にしていない。俺が口づけしようとしたことも、すぐに忘れる。なにせ、齢数百の爺だ。長い長い寿命の中のとりとめのない出来事として、すぐになかったことになる。
最後の最後まで、心無い言葉をかける男だった。まさに鬼だ。
初めて会った時から恋焦がれて、十二年も通いつめた俺のことをあんなふうにあしらうなんて。俺の気持ちを知っていて、あんなふうにあしらうなんて。
嘘でもいいから、寂しいと言ってくれたら、もっとすっきり別れられた。
「寂しいなんて、欠片も思ってないくせに」
そう言って笑って別れられた。
もしくは「寂しくなどない」と口にしてくれたらよかった。
何でもいいから、気持ちに区切りをつけさせてほしかった。
どうしてこんな針山のような胸を抱えてここをさらなければならないのか。
この先もう二度と会えない事実はあまりにも大きく、実感がない。
「……颯」
こんなことなら、押し倒してしまえばよかった。
そう想像して虚しくなる。
帝一族の加護のある宮殿内で鬼は……颯は無力だ。
そんなものにあやかるようにして抱いたら、今以上に後悔する。
そもそも、だからこそ颯が拒むように胸に手を当ててきた時、俺は身を引いた。
結局、それだけだ。
あの手が颯の答えだ。
お前などいなくても関係ない。寂しくなどない、という答え。
鬼に恋などした俺が馬鹿だった。
自室の外の訪いを告げる鈴が鳴った。
俺は居住まいを正し、顔を隠す薄布のかぶりものをした。布越しにこちら側から外は見えるが、外から顔は見えない作りになっていた。
部屋の扉の前に立つと入室を許可する声を上げた。
扉が開き、姿を見せたのはいつもの側近ではなく、帝直属の近衛兵だった。
「ご出立のお時間です」
「ああ」
身一つでここに来た。出ていく時も、荷物は体だけだ。
呼びに来た近衛兵と共に部屋を後にする。
廊下にはいつも高価な香が漂い、今日も毎日と変わらず焚かれていた。南の国から取り寄せたカナという香木の香りだと、今ならわかる。だが、ここへ来たばかりの時は、どこからともなく漂ってくる、嗅ぎ慣れないにおいにそわそわするだけだった。
晴臣になりすますため、一通り帝一族としての作法や教養は身につけた今となっては懐かしい思い出だ。
近衛兵について慣れた廊下を進む。
普段は四方を囲まれるため、一対一だとなんとなく落ち着かなかった。
十二年、平穏無事に過ごしたわけではない。いくら守られていようと、食事には毒が混入し、外を歩けば矢を射られた。ここを出ていけば、そんな生活も終わりを告げる。
颯と会うことを引き換えに、俺は安息を手に入れる。
影武者として最後に一度、謁見の間で晴臣と面会し、この顔を隠すかぶりものを外すという儀式が残っていた。
謁見の間と廊下の間に金の装飾が施された朱塗りの門があり、わずかに開かれていた。その間を近衛兵と通ると、香りが変わる。カナの香木は現帝が好む香りとして、宮殿内で広く使われているが、謁見の間で焚かれる香は、俗世と神の御下を隔てる意味を持ち、龍のつのという珍品が練り込まれている。
カナとは比べ物にならないほど高価な品だったが、これは決していい香りではなく、鼻の奥で苦味に変わる。強いにおいで、着物に染み込むとなかなか落ちない。颯はこのにおいが嫌で仕方なかったらしく、俺は危うく出禁を言い渡されるところだった。
とはいえ、この他の香との違いが、帝一族の神聖さを引き立てるものなのだろう。
門の先には巨大な両開きの扉がそびえる。左右対称の見事な透かし彫りが施され、謁見の間を見ることができた。本来の謁見はこの形で行われるが、今日は俺が門をくぐると、扉が奥に控えた近衛兵によって厳かに開かれた。
一礼してから歩み出る。
玉座がある一段高くなった奥には御簾が下ろされ、人影がちらつく。昨日までは俺があそこにいた。その場所まで伸びた毛足の長い敷物の上を進んだ。
「止まれ」
年に数度聞く晴臣の声だった。
俺は歩みを止め、片膝をついて顔を伏せた。
「十二年、大儀であったな」
ねぎらいの言葉が終わると、鈴が鳴らされ、御簾が上がる音がした。
この後、晴臣が玉座から降りてきて直々に俺のこのかぶりものを取る。そして、顔を伏せたまま退室し……ここを去る。
晴臣が敷物を踏むかすかな足音に耳を澄ませ、目をつむった。
かぶりものが外され、俺は一呼吸置いて下がろうとした。
急に背を打たれ、前に転んだ。両手をつき、反射的に顔を上げた。
本紫の着物に身を包み、宝刀を下げた晴臣と目が合う。
真正面から見たのは子ども時代以来初めてだった。引き締まった顔だがどこか、狐のような目つきで、目が合った瞬間、嫌な寒気が背筋を這い上がった。
俺は体を起こそうとしたが、いつの間にか近づいていた近衛兵に槍の柄で背中を押さえつけられた。
「っどういうことですか」
晴臣に問いかけると、晴臣は袖で口元を隠し、細い目を更に細めた。
「におうぞ。これは賤民のにおいか」
近衛兵が晴臣の言葉に笑った。
「どうした。まさか、本気で隠居暮らしができると思っていたのか! 死体から生まれた賤民の分際で」
晴臣が刀を抜いた。今まで宝刀だとばかり思っていたが、立派な刃がついている。
「っ賤民なものか! 俺の父は立派な人だっ」
肘を立て、起き上がろうとしたが、晴臣が片足を上げた。次の瞬間には顔を蹴られた。
鼻がぐっと熱を持ち、だらだらと鉄臭い血が流れ出す。
「ふ、ぐ……っ」
「おい、ちゃんと押さえつけろ」
晴臣が近衛兵に命じる。
一人が槍の穂先を俺の喉に向け、もう一人が背を膝で、両肩を手で床に押さえつけて来た。
ぐっと胸を圧迫されるような息苦しさに、いよいよ心の臓が危機を感じて騒ぎ出す。
用無しになった影武者は、確かに邪魔な存在だ。
首を切ってしまえば、後々に禍根を残すことはない。
だが、それが為政者のすることだろうか。
賤民などと罵られることは、自分の食い扶持を減らしてでも俺を育ててくれた兵衛が馬鹿にされたようで苦しかった。
「ああ、それにしても、この男は毒を食っても矢を食らっても死ななかったらしいな」
「はい。誠に丈夫な男です」
近衛兵が嘲笑を含み、答えた。
それを聞き、晴臣が方を揺らし愉快そうに笑う。
「いやはやさすが、乳の代わりに泥を啜って育った賤民は体の作りが違うな」
「っな……」
「神聖な血を継ぐ余ならば死んでいただろう」
こんな男のために、俺は今までに幾日も吐き下しに苦しみ、熱を出して生死の境をさまよって来たのか。
こんな男の国を守って来たのか。
怒りとも悲しみともつかない感情が溢れ出す。
握った拳をぶつけることもできず、ただ体を震わせる。
だが、ふとあの人のことを思い出し、俺は拳を緩めた。
「……俺を、殺すなら」
死ぬならやはり、背を向けて出てきてしまった颯に言いたいことがあった。
「代わりに伝えてほしいことがある……」
「無礼な口を利くやつだ。まあ、いい。言ってみろ」
「颯に、幸せだったと伝えてくれ」
ここでの暮らしは、颯と知り合うためのものだった。
そう思えるならこの死に様も幾分ましになる。
さあ、首を切れ。
そう思い、ぐっと奥歯を噛み締めたが、近衛兵も晴臣も動かなかった。
どうしたのかと思い、顔を上げると、晴臣と目が合う。そして、その狐のような目が嫌らしく弧を描いたかと思うと、吹き出したつばが顔にかかった。
「あっはは! お前! お前、あの鬼なんかと通じていたのか! 傑作だっ」
俺が唖然とする中、晴臣は散々笑い続けた。ひいひい言いながらやっと呼吸を落ち着け「わかった」と承諾する。
「末期の言葉だ。あ奴に届けてやる」
言いながら、冷たい刀の腹で俺の頬を叩いた。
「それはそれとして、私からもお前に伝えておきたいことがある」
この男の言葉など何一つ聞きたくない。
そう思ったが晴臣は構わず続けた。
「今夜から、余は颯を抱くぞ」
耳にした瞬間、キンと頭の中で音が鳴った。
晴臣が何を言ったのか、まるでわからなかった。
「は?」
ただ、蘇ってきたのは口づけを拒まれた手ではなく、俺の髪をすく指先だった。
「どうして……」
情けない声が出た。
晴臣が俺の頭を踏みつけた。
「ぐっ」
「どうしてだと? これは鬼を討滅した先祖を称える神聖な祭礼だ。貴様が抱く汚らわしい情欲とは違う」
あの颯がこの男に抱かれる。
それだけで胸が張り裂けしまいそうだというのに、晴臣は続けざまに信じられないことを口にした。
「下賤な貴様にもわかるよう、言葉を崩し『抱く』と言ったが、これは征服の再現だ。鬼は我が神通力を以て首をはねなければ死なん。あの澄ました鬼の手足を切り落とし姦するのだ」
ぎくりと不自由な体がこわばった。
手足を切る?
あんなにも無力な颯の手足を奪って、そこに一体、何の意味がある……。
「もぎ取った手足を肥やしに、また庭も広がるというものだ」
――幸せにな。
颯はどんな思いであの言葉を口にしたのだろう。振り向きすらしなかった俺には、推し量ることすらできない。
「喜べ。四肢を切られ、芋虫のようになった颯に教えてやる」
晴臣が刀を振り上げる気配がした。
「下等な鬼になんぞに懸想した馬鹿な賤民の最期をな!」
俺は渾身の力を振り絞り、こちらに向けられた槍を掴んで思い切り引っ張った。
体勢を崩した近衛兵から槍を奪い取り、振り回しながら横に転がった。
俺が抜け出したことで足を滑らせた晴臣後ろにひっくり返る。
「何をしている!」
真っ赤な顔の晴臣の悲鳴のような怒声が飛んだ。
俺を押さえつけていた近衛兵がすぐに槍を構える。
俺は手の中の槍を持ち変えた。近衛兵が繰り出す鋭い突きを横目に見ながら、思い切り槍を放った。
一直線に飛んだ槍が晴臣の顔をかすめた。
その直後、腹に鈍い衝撃が走る。体の奥をえぐられる感覚が続けざまに二度、三度と続いた。扉の前にいた近衛兵まで駆けつけ、俺に槍を突き立てる。
だが、そんなことより腰を抜かし小便で着物を濡らす晴臣が、憎く、ここで死ぬ自分が虚しくて、悔しくて……。
「颯」
俺の幸せを願った彼の顔が、見たくてたまらなかった。
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