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参
景晴はもう、宮殿を出ただろうか。どんな屋敷に住むのだろう。少なくとも、ここよりはいいだろう。
夜になり、昼間に彼が見ていた庭からは虫の音さえ聞こえない。
膝にはまだ彼のぬくもりが残っている気がした。
風が吹くのに合わせて目を閉じれば、景晴の香りがするようだった。
景晴は出自こそ町民だが、趣味がよかった。私に言いつけられ、渋々焚きしめたとは思えないほど、よく似合う香りをまとっていた。
私の景晴。口づけを拒んですまなかった。薄情な私なんてすぐに忘れてしまえばいい。
どこかで幸せでいてくれるなら、それを思うだけで、私も幸福だった。
目を閉じ、景晴との思い出を反芻していると、渡り廊下が騒がしくなる。
どうやら時間が来たらしい。
だが、いつも以上に落ち着きのない雰囲気だった。声を張り上げているものも、二、三いる。
それでも私の置かれた状況は変わらない。
逃げも隠れもせずただじっと待っていると、部屋の中に武装した男たちがなだれ込んできた。その先頭にいかにも仰々しい鎧兜姿の晴臣がいる。
幼い頃に見たきりだったが、正直、惚れた贔屓目を差し引いても、影武者だった景晴の方が利発そうだった。
「殿下、本日は日を改めた方がよいかと」
年かさの男が言うが、晴臣は鼻息荒く「否!」と叫び、刀を抜いた。
「このように仕来りを簡略化されましては、ご先祖様に申し訳が」
「黙れ! あの賤民の思い通りにはさせんっ」
「先程から申し上げる通り、そのように私情を挟んではご先祖様のお怒りに触れることになりますぞ!」
なるほど、宮殿に戻って早々にわがままで周りを振り回しているらしい。
「ふっ……」
つい笑うと、晴臣がぎらりとした目で私を見た。
「貴様! 鬼の分際で余を愚弄するか!」
がしゃがしゃと騒々しく鎧を鳴らし、刀を構えて晴臣が突っ込んできた。
避けても癇癪を大きくするだけだろうと思い、甘んじてその刃を腹に受けた。
だが、その時、嗅ぎなれた自分の血以外に、捨て置けない香りがした。
私の腹を刀で突いたことで、憂さ晴らしできたのかほくそ笑む晴臣。興奮しているのか、柄を握る手が震えている。
「……さて」
私は刺さり切らなかった刀身を掴んで声をかけた。
「殿下に聞きたいことがある」
「お、鬼ごときが余に」
「なぜおのれから景晴のにおいがする?」
そう問いかけると、晴臣の目が憎悪に燃えた。私の腹からざっと刀を抜く。その時、ばらりと私の指が切り落とされたが、そんなことは今、どうでもいい。
私が詰め寄ると、晴臣は威嚇するように声を上げたがそんなもの恐ろしくもなんともない。
「もう一度聞くぞ。なぜ」
「逆徒を切り伏せたまでだっ」
私の問いかけを遮り、晴臣が金切り声で叫ぶ。
「……切り伏せた?」
「じ、自分が誑かした男の末路が気になるか? ん? どうだ?」
「景晴は今、どこにいる」
嫌な予感がして背中が寒くなる。
晴臣はハアハアと息をつき、手の震えを逃がそうとしている。
「斬り殺したのか」
自分でも驚くほど低い声だった。
ひやりとした空気が流れ、荒々しい晴臣の吐息が場違いに響く。その息遣いが笑いに変わった。
「ひ、はは、そっ、そうだ! 身代わりとはいえ、わずかでも政に及んだ影武者なんぞ、邪魔なだけだ。もとより、打首される運命だったのだ。先代の影武者たち同様にな!」
「まさか……」
凛々しい目をした景晴。
影武者として十二年もの間、命を狙われ続け、時には生死の境をさまよってきた。
景晴に守ってもらった恩をこの男はまるで感じていない。
そして、人でなしはまだ話を続けた。
「聞け。そして、余は哀れに思い、お、温情でな、その冥土の土産に、こっ、今宵、貴様を嬲るのだと教えてやったのだ」
さあっと血の気が引く。
あの子には、景晴には、何の罪もない。
汚いことはこの国の内紛で十分だった。それ以上に醜いことは知る必要がない。ないに決まっている。
あんなに直ぐな目を、恋慕を私に向けていた。
その思いを汚していい理由などありはしない。
「お前の四肢をもぎ取ると言ったら、め、目の色を変えてなあ! 近衛兵から槍をう、奪って、余に投げつけてきた。当然の報いだっ。余直々に、亡骸をめった刺しにしてやったわ!」
「おのれは……っ」
今以上に、自分の無力さを恨んだことはない。
「はははっ。鬼め、好かれてまんざらでもなかったようだな。き、決めたぞ!」
晴臣が刀を構え直し、私を見据える。
「あの影武者の死体が腐った頃、ここに持ってきてやる! 蛆が湧こうが好いた男のいつもつだ。そいつで上の口を可愛がってやる。下は余を腹いっぱい食わせてやろう!」
振り上げられた刃を見た。
いつの間にか滲んでいた涙で視界が歪む。
悔しかった。悔しくて、悲しかった。
目を瞑ると景晴の顔が浮かび、涙が頬を伝い落ちた。
いっそここで死んでいまいたい。
振り下ろされる刀が風を切る。この刀が首を落としてくれたら――。
そう願ったが、聞こえてきたのは肉を切り裂く音ではなく、何か、硬いものにぶつかったような高い音だった。
そして、ふと……私の拠り所を示す香りがした。
わけがわからず、目を開けると、ぼろを着た男がこちらに背を向けて立っていた。
晴臣が悲鳴を上げる。
それを遮るように男は足を踏み込み、拳を突き出した。
鎧が壊れる音がして、倒れた晴臣が床で一度跳ね、ふすまを破って廊下にひっくり返る。刀が吹っ飛び、天井に刺さった。
その威力は到底、人間が出せるものではなく、晴臣の後ろに控えていた家臣たちの顔が真っ青になった。
「お、鬼だ……」
誰かが震える声で呟いた。
男は吹っ飛んだ晴臣に歩み寄りながら天井の刀を抜いた。
「でっ、殿下……!」
「今こそお力を!」
家臣の声に応えるように、晴臣は何やら唱え始めた。
だが、男は怯むことすらなく晴臣の元まで歩み寄ると、派手に板張りの床を踏み鳴らした。
「ひっ」
晴臣が男の接近を拒むように手を前に出した――瞬間、男がヒュンと刀を振った。
ばらっと板張りの床に何かが散らばった。
耳をつんざくような声が響き渡る。晴臣が叫びながら片腕を抱きかかえて丸まった。
床に散らばったのは晴臣の利き手だった。
ぼろを着た男は刀を捨てると、もはや晴臣には興味がないというように、まっすぐ私の方に向かって歩いて来る。
それを見た晴臣の家臣たちは廊下に飛び出し、急いで指を失って騒ぎ立てる主君を連れ、逃げるように東屋を出ていった。
私はその慌ただしい姿を呆然と見つめ、袖を引かれてやっと景晴を見つめた。
「颯」
風に消されてしまいそうな頼りない声で私の名を呼ぶ。
よく見ると顔は乾いた血で汚れ、髪も束になって固まっていた。
だからこそ、その額から伸びる異物に目が行ってしまう。
つのだ。まるで、骨が突き出したように真っ白な。
私はばつが悪くなり、少し顔を伏せた。
「こっち向けよ」
「……今更、どんな顔でお前を見ればいい」
そうぼやいた私の頬を景晴の手が優しく撫でた。そして、軽く目元をこする。乾ききらない涙を拭うように。
軽く顎を持ち上げられ、凛とした瞳と目が合った。
景晴は曖昧に笑い、私に口づけをした。
されるがままに私はそれを受け入れた。受け入れると、それだけでは足りずに両手を景晴の頭に伸ばし掻き抱いた。
自然と深くなる口づけに再び涙が流れる。
「寂しい」
口づけの合間に私は言った。
「寂しくてたまらない……」
初めて出会った時に芽生えた恋草が、もうずいぶんと深い場所まで根を張り、私を生かしてきた。
「俺もあんたがいないと寂しい」
そう素直に伝えてくるいじらしさに胸がぐっと締め付けられる。
「なあ、颯。あんたは別れ際、あんなこと言ったけどさ、こんなに懸想した相手を一人最悪の悲境に置いて、幸せになんてなれっこない。死んだって、死にきれない。だから悔やんで、悔やんで、悔やみ切れなくてここに戻ってきた」
額を合わせると、かつりとつの同士が小さく鳴った。
「俺はもうあいつの影じゃない」
そう言って私の耳に唇を寄せた。
聞こえてきた彼の本当の名に、途方もない愛しさがこみ上げた。
そしてまるで、私の溢れた思いを示すように雨が静かに降り始めた。
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