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全てを失った夜に

 雨が降っている。黒い雨が、私の全身を重くさせていく。  まるで、錘を身体に乗せて、動くのを阻んでいるかのようだ。  このまま、私が死人となるのだろうか。路地の片隅で、誰にも看取られず、息耐える…そんな人生なのだろう。  たった一度の失敗で、全てを失った。家も、妻も、地位さえも無くなった。  仲間だと信じていた人間に裏切られ、己の足が不自由になった。  妻に気に入られようとする人間は、私一人ではなかったというのを身をもって知った。  私の後がまを狙っている人間が大勢いて、少しの隙さえあれば、ねじ込もうとする人間が多く存在し、その隙を自ら生み出そうと計画しているものがいた。ただそれだけのこと。  俺はその隙を与えてしまい、足を怪我して、全てを失った。己の落ち度だ。もっとまわりを見渡せる人間でいなければいけなかったのだ。 「ねえ、おじちゃん。足、痛いの?」 「お、おじ…?」  私はまだ25歳だ。そう思ういながら、私は顔をあげると黄色い傘をさした10歳未満の少年がしゃがみこんでいた。 「包帯がね…赤いよ? 血でしょ、それ。ちゃんと手当てしたほうがいいよ? 俺の家が近いから、来る?」  私は首を横に振った。 「そっか。でも…あ、じゃあ、ちょっと待っててね」  少年が黄色い傘を私に渡すと、雨の中、走り出した。  ちょっと待っててね…と言われても、動けないのだから、どこにも行きようがない。  しばらくして、少年が大きなリュックを背負って戻ってきた。 「とりあえず…いろいろ持ってきたよ」  そう言いながら、少年がリュックの中身を開けた。真新しい包帯に、消毒液、ガーゼが出てくる。  他には、大人の服が一着ほど入っていた。 「雨が止んだら、着替えるといいよ。俺のお父さんの服だけど。もう誰も使わないし」  使わない? 離婚でもしたのだろうか? 私のように…妻に捨てられたとか?  まさか、この子どもに両親の離婚の原因など知らないだろうが。 「新しい包帯とかもいれておいたから、雨が止んだら、きちんと治療するんだよ?」 「勝手に家から持ち出していいのか?」 「うん、いいよ。俺んち、兄貴しかいないし。困っている人には、優しくしなさいって兄貴に言われているから」  困っている人…か。私は、こんな子供に、困っている人間だと認識されたのか。  子どもがリュックごと私の太腿に置いてきた。兄貴しか…いない? 「好きに使ってよ。あと菓子パンも入ってるから」  にこっと子供が笑う。  私はリュックに触れた。大人にしては小さなリュックだが。10歳未満の子供には、きっと重たい荷物だっただろうに。 「両親はどうしていないんだ?」 「死んだ。事故で。だけど悲しくないよ。兄貴がいるから。兄貴が言うんだ。死んだ人は、俺らの目には見えないけど、心の中で生きてるって。いつも近くで俺たちを見ていてくれるって。だから俺は平気。兄貴がいれば、悲しくなんてないんだ」 「そうか。君、名前は?」 「俺? 俺は楠木 智紀。兄貴は莱耶って言うんだ。格好良い名前だろ?」 「ああ。そうだな。きっと格好良いお兄さんなのだろう」 「ああ。俺の自慢の兄貴だ。ああっ、そうだ。これ、俺の夕食代なんだけど…おじさんにあげるよ。おじさんのほうが、腹減ってそうだし。出世払いでいいからさ!」  智紀と名乗った少年は、五百円玉を私の手の平に乗せると、すっと立ち上がった。 「傘もあげる。大切に使えよ、おじさん」 「ちょ…」  私が呼びとめる間もなく、智紀が路地を走り去って行った。 『智紀? こんな雨の中、何しているんだ?』  通りの向こうから、低い声が聞こえてくる。 『あ、兄貴! 今さ、路地で倒れている人がいたから。包帯をあげたんだ。怪我しているみたいだったし』 『そうか。智紀は良い子だね』 『夕食代もあげちゃった。腹減ってそうだったし』 『そうか。じゃあ、智紀の分の夕食は、お兄ちゃんのをあげるよ』 『え? いいよー。だって兄貴は、また仕事なんだろ? 俺はもう寝るだけだから、いらないよ』  そこで…もう私の耳には智紀たちの声が聞こえなくなった。  楠木 智紀……か。まだ幼いのに、夕食代すら見ず知らずの人間にあげてしまうなんて。  どれだけお人好しなのだろうか。  しかも誰かを殺すしか脳のない私に、腹が減っていそうだからって…自らの夕食を犠牲にするとは……。こんな汚い世の中にも、綺麗な心を思っている少年がいようとは、な  私は足の上にあるリュックをぎゅっと掴んだ。キーホルダーには、『楠木 智紀』と汚い字で名前が書いてあった。 「出世払いを期待されたら、ここで死人になるわけにはいかないな」  私は立ち上がると、足を引きずりながら歩き出した。  少年に、きちんとお礼をするまでは、私は死なないと心に決めた。 『誰があんたなんかとⅡ』-完ー 誰があんたなんかとⅢに続く

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