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第1章 1-裏側
[視点:仙崎千尋]
「……俺、おれっ……どうしたらいいかわかんねぇ……!」
暗い道をふたつの足音が駆けていく。
心臓が、おかしくなりそうなくらい脈打っていた。
走っているからという理由だけじゃない。恐ろしい状況に追い詰められているから、だ。
脳の芯が凍っていた。背筋を通り抜ける風もやけに冷たく感じる。
なのに体全身の表面の皮膚だけが狂うほど、火照る感覚に捕らわれていた。
俺はもう、前を走っているこいつに縋るしかないのかもしれない。
こんな……血に塗 れた俺の手を引いてくれる、こいつを。
繋いだ手の温度差が怖かった。
気が狂いそうなほど熱く感じる俺の手に比べて、こいつの手は信じられないほど冷たい。
まるで心が随分遠くにあるような気がして怖くなる。今この手を離されれば俺はもう何も見えなくなるだろう。
『この手を離さないで』
そう願うように強く手を握れば、自分の手になにか突っ張る感覚がした。
……あぁ、乾いている。
さっきまでぬるぬるとしていたはずの赤黒い液体が乾いてカサカサになっていた。
まるで手にこびりついている、錆 のように。
その錆に時間の経過を感じた。
俺を凍りつかせたあの恐ろしい瞬間が、もう遠い出来事なのだ。
「なぁ、どこまで行くんだよ、どこに行くのさ……!」
泣きそうな声でそう問いかけるけど、前を行く男は振り向きもせずに無言で走り続ける。
「無視すんなよ! なぁっ……」
すると突然男は振り返りながら足を止め、俺はその胸に飛び込むような形でぶつかった。
「っ!」
「……じゃあ」
冷たくて静かな声がすぅっと俺の心に入ってくる。
俺は入りこむ冷たさに息を止めた。……止めてしまった。
そして静寂に耐えかねるように男の顔を見あげると。
「……お前は、どこに行きたい?」
端正な顔が静かに俺を見つめていた。
……あれ、なんだろう、これ。
その深く透 る声や妙に惹きつけられる静かな瞳のせいなのか、荒れ狂っていた心が一気に静まり変にざわついた。
未だに上がっている呼吸をよそに、生ぬるい風がゆったり頬をなでていく。
雨上がりの夜の、ねっとりとした空気が肌にまとわりついた。気持ち悪い鬱陶しさだ。
いつの間にか周囲にあった樹の落葉が髪を撫でて、ゆらゆらと堕ちていく。
俺は体裁など気にする余裕もなく、その男にすがりつきながら震える声で言った。
「……どこでもいい。どこでもいいから、誰も知らない場所に行きたい。帰りたくない……」
すると、優しくそいつの腕が俺を包む。
そして俺のその言葉を聞いてどこか深みのある表情で、静かに微笑した。その瞳からは何の感情も読み取れず、ただただ俺の心をざわつかせている。
……この時の俺は気づきもしなかった。
――――目の前のこの男を自分が、俺の手が、破滅に導かせていることなんて。
***
[視点:筆者]
……松澤零二はいつも窓側の席に座って本を読んでいる。
成績優秀、女子からの人気も密かに高い黒髪の男。
ただ、無口なだけでなく人が近づきづらい雰囲気を常に醸し出しているせいで、誰も話しかけることができずにいた。
勇気を振り絞って話しかける者は男女問わず居たものの、一言二言を交わしては会話が途切れ、やがて空気の重さに耐えかねて皆脱落していったのだった。
プライベートをどういう風に過ごしているのかも謎に包まれ、その静かな性格は彼のあらゆる情報をひた隠しにしている。
……分かっていることと言えば、某大手企業の代表取締役の息子らしいということと、その家の事情とやらで一人暮らしをしているということくらい。この辺りで親元を離れて学校に通う者はめったに居なかったため、余計に周りから目立っていた。
「きっと金持ちの典型的なタイプで、孤独なヤツなんだろ」……と、そう思いながら茫然とその姿を遠くの席から見つめてたのは壁際の席に座る仙崎千尋という男子。
こちらは松澤零二とはほぼ対極と思われる性格と容姿である。
本人としてはもうからかわれることに慣れてしまったそのちょっと低めな身長と、周囲から愛されやすい明るい性格。女子から見ても可愛い顔。
髪は金髪に染められていて(※頭髪検査で引っかかるのは毎度のこと)、ちょっとオシャレなベルト(※服装検査でもひっかかるのは毎度のこと)やヘッドホンは必須アイテム。
今日の彼は白いパーカーの上に学ランを羽織っていた。これもそのうち、服装検査で引っかかるのだろう。
そんなパーカーのフードを後ろの席の飯塚という男子が引っ張った。
「おいヒロ」
「ぐぁっ! ……なんっだよ飯塚! 首しまるっつの!」
ぐるっと後ろを振り返って反論する千尋に、飯塚はニヤッとした笑みを向ける。
「なーに松澤の方じっと見てんだよ。気でもあんのか? ん?」
「ばか、違ぇって。 ほら……なんでこの前八重塚のことフッたかなーって思ってさ」
「あー、あれな……」
千尋は平然とそう返したが、本当のところは違った。
あの松澤零二という男から感じる自分と同じ「何か」の正体をその面影から探していたのだ。
結局、漠然としかわからなかったけれど。
松澤零二は確かに周囲から一目置かれる存在だ。
しかし本人の心は、この教室の中には無い気がしてならない。
前から千尋は思っていた。
あいつは、生きてる感じがしないと。
そしてこの前ようやく「自分もあの男と同じだ」と気づいた。
教室の中で誰よりも笑顔を見せている千尋には、他の人間に知られてはならないことがあったから。
……それこそ、笑顔の裏でいつも死にたいと思うことがあったから。
*
「……んっ、んん……っ、ふ……」
夕暮れの光が射すとある小さな部屋で甘い声が啼 く。
……千尋は、薄汚い茶色のソファの上で上半身の服を脱がされかけた状態で寝そべっていた。その全身は快感に流されないようにと身を強ばらせながら震えている。
口には脱がされて腕が通ってない自分の服の袖を噛んでいて、必死に声をあげないように耐えていた。
唾液が袖に吸い取られるのと、その前に散々啼かされたせいで口の中はひどく乾いている。
下半身には少し皺が寄り始めている男の手が這いより、服をゆっくりと脱がしていく。
その手は、千尋のクラスの副担任である社会科教師のものだった。
「仙崎……、お前は本当に可愛いな」
そのメガネの奥の瞳が細められ、千尋の細い太もものなめらかな肌の質感を楽しむように両手で撫で回してからねっとりと舐めあげる。
「っ……んんっ……」
ぎゅっと目をつむる千尋の目から涙がこぼれた。体が小刻みに震えている。
そうしていると。
「ほら、もっと声を聞かせなさい」
「あッ!!」
口に含んでいた服を引き抜かれて強引に脱がされ、遠くに放り投げられた。
千尋のしなやかな裸体が眩しい夕陽の元にすべて晒される。
その姿に欲情した教師は呼吸を荒くしながらソファの上に乗りだして千尋に覆いかぶさった。
「や、やめ……ろ……」
恐れで震える声を発する千尋に満足したのか、男は恍惚の笑みを見せる。
「もうこれまで何度もこうしてきたんだからそろそろ慣れるかと思ったんだけどなぁ。 ま、いつまでも処女を犯してる気持ちになれるからいいけどね」
「んっ!」
首筋に吸い付かれて、そのまま胸元にその忌まわしい唇が降りていく。かさつくソレが千尋の敏感な部分に触れた。それだけで細い体はビクンと飛び上がる。
「やだ……、やだっつってんだろ……!」
「なぁ仙崎、今どこを弄られているか言ってみなさい」
「ッ!」
教師の指は千尋の胸の突起をつまんで軽く引っ張り、もう片方は舌で執拗に舐めあげる。
男の言いなりになりたくないと思い、答えずに声を殺している千尋を一度顔を上げて見やり。
「言いなさい」
先ほどより強い口調で言いながら指で弄っている方に爪を立てた。
「……あッ!」
千尋の羞恥に染められた表情が苦し気なものに一瞬変わり、生理的なものではない涙がつうっと目じりから流れ落ちる。しかしその嫌悪感に溢れる表情の一片では快楽にとろけきった印象も見て取れた。
「……くそ、この変態……っ」
泣きながら恨んだ視線を向けるその様子に男の嗜虐心はくすぐられる。
「ははっ……まだ威勢がいいな。 だけど一時間もすればまたいつものようにお前は淫乱に変わるんだ」
「……! だれも、そんな……」
千尋の弱々しい返答に男はさらに言葉を畳み掛けた。
「いやらしい言葉を言わせて、俺の好きなようにさせることができる。 従順な犬のようにな」
「ふざけんなっ……」
「そのうちすぐ余裕がなくなって俺を求めるようになるんだ。 今夜は目いっぱい楽しもうな」
その言葉を聞いて千尋は耳を疑う。
「……ッ今夜……?」
その反応を見て教師はあからさまに嬉しそうな顔をした。
「あぁ。……親御さんに連絡を入れたよ。『次のテストもよくしておきますから』ってな!」
「や、やめ、……んあぁッ!」
怯える千尋の太ももを掴んで左右に大きく開く。露になったソコは淫らな蜜でいやらしく光って、さらに自分を性の欲望の中へ誘おうとしているようだと男は思った。
千尋はこれから起こることが容易に想像ができて、どうしていつもこうなってしまうんだと嘆く。もう幾度となくやられていたから。
「やだ、やだぁっ……」
偽りの成績なんていらない。
テストの良い点数も、いらない。
行為を止めるように懇願する言葉さえ、相手を煽るものに変わる。
相手を殴りつけたいこの両手も抑えられ、動かせない。
それなら、どうすればいい。
千尋の頭にあるのは毎度やってくる絶望のみだった。
あぁ、消えたい。死んでしまいたい。
こんな自分なんて。こんな矛盾に塗れた自分なんて、消えてしまえばいいのに。
意識も深海に沈めばいい。
そうすればこの心はざわつかない。
何をされても動じずに、自分のままでいられるのに。
ありのままの自分を、好きになれるのに。
……どうして、どうして俺なんだ。
逃げ場所なんて、どこにもなかった。
すべてが『公認』という言葉で飾られていた。
誰も助けてくれない。
だれも。
……だれか。
誰か、助けてほしい。
たすけて。
*
夕暮れの光が射しこむ教室の中、一人窓際で本を読む男。
ふと、そのページをめくる手が止まった。
……何かが、いや誰かが、自分を呼んだ気がした。
未だその声は遠く、はっきりとはわからない。
気のせいだろうとも思う。小説の読みすぎでついに現実とフィクションの境目がつかなくなってきたのか。
でも、どうしてだろう。
あのいつも輝くような笑顔をしている存在が、頭の中をかすめていった。
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