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第1章 6-夜明けへ 前編

[視点:仙崎千尋] 『ここからは歩いていこう。走ってたら変に怪しまれるから』  松澤はそう言って俺と二人手を繋いで並ぶようにして一緒に遊歩道を歩いた。  さっきの問いには答えられていない。 「松澤……」 「これからひとまず俺の家に行こう」 「……いいのか? 殺人者を匿うって、お前まで……!」 「『殺人者』じゃない。俺は『仙崎千尋』を匿うんだ」 「……? なにが違うんだ?」  俺の素の返しに松澤はフッと吹き出すように微笑んだ。  そして握っている手をそっと少しだけ掲げる。 「……手の震え、収まってきたな」 「あ……あぁ。松澤のお陰。ありがと」  今出せる精一杯の笑みで返す。ひきつっていただろうか。 「まだ怖いか?」 「怖いって言うよりも今は……心の中がごちゃまぜになってて何も考えられないかな……むしろ何も考えないようにしてるのかも」 「そうか」 「だから今は、松澤のことと、歩くことだけ考えるようにしてる」 「俺のこと?」 「うん。俺に伝えたいこと、あったって言ってたから」 「そうだったな」 「言ってくれねぇの?」 「ん……大したことでもないから俺の家についてからで」 「そんなに焦らすなよー」 「焦らしているつもりはないけど」  ――――カチャッ  俺の鞄の中からそんな音が聞こえた。 「? 大丈夫か? お前の鞄から音聞こえたけど」 「あ、あぁ平気! ヘッドホンだって!」  俺はすぐさま足元に目を向けたが、隣から刺さる目線がなんとなく痛かった。  *** 「わぁ……すっげぇ……」  辿りついたのは高級マンションのような一室。しかも割と高い階層。思ったほど広くはなかったが、所々に高級感がにじみ出ていた。家具は灰色や格式の高そうな茶色とか、落ち着いた色で統一されている。 「お前こんなすごいところに住んでたの?」 「すごくないよ。それに親の金だし」  目につくのは一際大きな本棚だった。  それは高さ2メートル以上はあって、綺麗に壁に収まっている。そして本がびっしりだ。 「本もすげぇ……これ留学するとき持ってくの?」 「いや、部屋そのものはもう買ってるし、誰も使わないからこのまま放置していくつもりだったけど」 「……!」  こいつ今簡単に『部屋そのものは買ってる』って言った……!  だけど、本棚以外は……  生活感が、まるでなかった。  ソファやテレビはあるけど本当に使っているのか分からないほどに。  もしかしたら松澤にある空虚な何かに関係しているのかもしれない。  すると、突然。 「……ッ!」 「? どうした、仙崎」 「ごめっ……風呂場、借りていい?」  尻からコポッと音を立てて垂れてくる気配があった。  それを察したらしい松澤は速やかに俺を浴室へ誘導し、 「服、脱いで」 「え……」  突然の言葉に狼狽える。お前の目の前で、服脱ぐの? 「洗濯しとく。乾燥機あるからたぶん早めに乾く」 「いいよ、そんな……!」  というか、俺の体見られることとか、こんな……汚い俺の服を松澤の家の洗濯機に入れていいのか……?  いや、ダメだろ……! 「いいから」 「……っじゃあ……俺の体は、見ないで……」 「! ……じゃあこれ」  なぜか少し顔が赤くなっている松澤が大きなバスタオルをくれた。 「サンキュな……」  そうして俺は諦めと申し訳ない気持ちでいっぱいのまま服を脱いでそそくさと脱衣所にある洗濯機に入れ、逃げるように浴室へ入り込んだ。  すると。 「あ」  と松澤が言ったので俺は背に冷や汗が伝うのを感じながら顔だけ浴室から覗かせた。  まさか精液ついてた……?  が、嫌な予想は外れ。 「制服って、普通に洗濯していいんだっけ?」  真顔で何気なくそう聞かれた。 「えっと……クリーニングって言いたいとこだけど……とりあえずファブリーズ的な何かかけて干してくれれば……」  俺も洗濯のことはよくわかんねぇし……。  ってか、松澤でも分からないことあるんだ……。  そのことに、なんだか今の現状から日常に戻ったように胸が救われる気がした。  そうして俺はシャワーを浴びるために蛇口を捻ろうとしたとき。 「……!」  手に血がついているのを忘れていてゾッとした。  急速に、あの殴ったときのことや、輪姦のことまで思い起こされる。  洗い流さなきゃ。  アライナガサナキャ。  俺はゴシゴシと焦るように手で擦れば、片手の血は簡単に落ちた。  次は精液を掻きださなくちゃ。  身体のあらゆるところから『曽我』という存在を排除したかった。  指を後ろの窄まりに入れようとすると。 「……アァッ!」  急ぐあまりにゆっくりほぐすことを忘れ、激痛が走った。思わず背が反り返る。  そのままジクジクと痛むままゆっくりと円を描くように指を沿わせて行くとやがて指が2本3本と簡単に入るようになった。  そんな呆気ない体になってしまっていることに嫌悪感が湧いて泣きそうになり、切なげな喘ぎ声を押し殺しながら徐々に精液を出していく。 「あっ……あぁ……ん……」  松澤の家の浴室で、なんてことしてんだろ。普段の俺ならその状況に欲情してとっくに勃ってる。でも今は日常とかけ離れた状況に置かれているからか、ぼんやりと白昼夢のようになっているだけだ。……うん、これが幸せな夢ならよかったのに。  そして今度は体を洗おうと、松澤の家のボディソープを借りることにした。急ぐようにして体を洗う。  だけど、悪夢の余韻は俺に痕を残して簡単には消えてくれなかった。 「消えない……消えない……っ!」  泡を洗い流した後に背中に残っていた鞭の痕が消えなくて、それが俺の罪を連想させて怖くなった。 「消えろ、消えろ、消えろ……っ!」  泣きながら背中を掻きむしる。せめてこの引っ掻いた痕で罪を埋めたかった。  その時。 「……仙崎!」  浴室のドアの向こうから声が聞こえた。俺はハッとする。 「……開けるぞ」 「……いや……やめて……」  俺の泣きながらの懇願も聞かず、ドアが開け放たれて。 「……!」  大きなバスタオルで俺の体を包むように松澤が俺を抱きしめた。 「……もういい」 「まつざわ……」  声が震えた。いや、それ以前に体が震えたままだった。  そんな俺を落ち着かせるように松澤は俺を優しく抱きしめてくれていた。  俺も震える手で松澤の背に手を回す。 「うっ……く……うぅ……」  涙がこぼれてとまらない。  抱きしめてくれる手が思ったよりも逞しくて、優しかった。その手のぬくもりがくれる優しさは俺に、あの恐ろしい事実を見ないようにと目を覆ってくれているようで。  松澤は俺の体を見ても何も聞いてはこなかった。あえて聞かないようにしてくれてるんだと思う。  でも、言わなきゃ。 「俺……こんな身体でさ……イヤになっちゃうよな……男に開発されまくって、弄ばれて……」  言葉の最後のあたりは涙でかすれた。 「……」 「俺……もう」 『楽になりたい』  そう言おうとしたが松澤が遮るように。 「このままだと風邪ひくから、一旦あがろう」  そう言って俺の体を抱えあげた。 「えっ、ちょっ!?」 「嫌?」 「嫌……じゃないけどなんでお姫様だっこ!? はずかしいんだけど! ってか落ちそう! 怖い怖い!」  泣き声が薄れていつもの調子の声に戻りつつあることに安心したように笑った松澤は「……じゃあこのままで」と俺を恥ずかしい目に遭わせたままリビングへ向かった。 「疲れた? 一旦寝る?」  耳元でそう囁かれてドキッとした。 「い、いや……疲れてはいるけど、どっちでも……」  そうだ、俺……松澤に何も話せてない。 「それよりも俺、お前に話さなきゃ」 「……そうか」  そうして松澤は優しく俺を大きなソファにおろし、改めてバスタオルで体を包んでくれた。 「あの、ソファ濡れる……」 「いいよ、気にしないから」  そう言って松澤はリビングから見えるキッチンで何か用意して持ってきてくれた。 「これで良ければ、飲んで」  俺に差し出されたのはココアで、松澤はコーヒーだった。 「あ、ありがと……! 俺、甘いの好きだから嬉しい」 「前に教室で言ってただろ、『甘いの食べたい』って。だからこっちの方が好きかと思って」 「……!」  そういえば前に甲斐田と飯塚にどこか食べに行くって話になったときに言ってたっけ。覚えててくれたんだ……。ってか聞いてたんだ。  やべぇ……さっきからドキドキしっぱなしなんですけど……!  松澤、いい加減気づけよ。俺、お前のこと好きなんだって……。  でも内心俺が気づいていることもあった。松澤はこうして、俺が本当は語りたくないだろう事実から目を背けさせてくれてるんだって。  だけど、俺は言うよ。俺と同じものを持ってるお前に、全部。  だって、もう最後なんだから。 『最後』  ……そうだ、松澤はもう居なくなるんだ。  もう最後なんだし、嫌われてもいいから少し甘えてみていいかな。  身体も見られた。曽我と何をしていたのかも知られてしまった。もう、少しくらい吹っ切れたっていいだろ。 「なぁ、松澤……」 「?」 「寄り添っても……いいかな。嫌だったらイヤって言って」 「構わないけど」  そう言って松澤は俺の背に片腕を回し、俺を引き寄せた。  うわぁ……これってマジで恋人みたい……!  心臓がほんの少し高鳴り始めた。  ソファの上で、俺は裸にバスタオル一枚で、松澤と寄り添ってる……なんて。夢にも思わなかった。それ以上に恐ろしい、夢であってほしいこともあるけれど。 「こんなことしてさ、俺のこと気持ち悪い?」 「全然」 「そっか。……じゃあ俺のこと、話すね」  松澤は静かにうなずく。 「まず、いま俺は義理の父親と二人で暮らしてるんだ。暮らしてるって言っても俺はできるだけ関わらないようにしてる。あいつには、中学の頃から……無理やりヤられてた。酒癖が特に悪くてさ」 「……!」 「……顔が、可愛かったんだって。それでそのとき……俺の母さんはもう家を出て行ってて、遊べる女が居ない時の代わりの性欲処理として俺を扱った。それは今でもたまに続いてたよ」  松澤は複雑そうな表情で押し黙る。それも無理はないよな。 「そして曽我は……高二の最初の家庭訪問のとき家に来て、その時にあいつが……俺の父親が曽我の目の前で俺を押し倒して、誘ったんだ。その時から曽我も……」  曽我のことを話し始めた途端にさっきの血まみれで倒れていた姿がフラッシュバックする。そうだ、そんな曽我を俺が……  身体が震えはじめ、松澤がぎゅっと俺を抱き寄せる力を強くした。俺は涙が溢れそうになるが、震える声で話を続ける。 「……この前……俺が休んだ日、あったろ? その前の日に……曽我と他のやつらに……回された。俺、ホントに怖くて……! 苦しくて、痛くて……」 「……仙崎、もういい」  松澤は制止の声をかけたが俺は畳み掛けるように話し続けた。……止まらなかった。 「その時、ビデオ撮られてたんだ。そして今日、曽我だけかと思ったら後ろに、カメラが……。それに曽我があいつらが来る前に俺とヤれて良かったって……! 俺、また回されるんだって。酷くされるんだって思ったら、怖くて、それで……!」 「もうわかった」  そう強く言われて言葉が詰まる。知らぬ間に涙はぼろぼろと流れていた。震える身体は止まらない。  松澤も押し黙ったままだ。  そうだ、俺はとんでもないことをした。許されないことをした。明日にはきっと警察が俺を捜しにくる。俺は、殺人者。 「ごめんなさい……」  消え入るように吐いた言葉は誰に向けられたものなのかはわからない。  言ったところで罪は消せないのに。償いの意味も持たない言葉だった。  松澤はしばらく何も言わなかったが、突然断固とした口調で言う。 「仙崎」 「……っ」  何を言われるかが怖くて体がビクンと跳ねた。  だけど言われた言葉は。 「……常識だとかそういうくだらない考えは無しで俺の考えを言う。――――悪いのは、曽我だ。お前じゃない」 「……!」 「それより……何か食べよう。作ってくる」 「……、……って、え?」  突然の松澤の切り替えの速さに頭が一瞬ついていけなかった。こいつ、俺が殺人者だってわかってるよな……!?  「ちょっと横になってるか? 寝室はあっちだけど」  松澤は向こうのドアを指差したが俺は少し呆然としてからすぐさま首を横に振った。 「……あ、いや、いい。ここにいる」 「そうか」  松澤のいつも通りな声音を聞いていたら、俺もなぜか怯えていることがまるで場違いな気がして、調子を松澤に合わせる。 「……あのっ、俺料理とかできなくて……手伝えなくてごめん」  キッチンへと向かっていく背中に声をかけると松澤は振り返りながら微笑を返して一言。 「気にするな」 「……!」  正直、かっこよすぎ。  俺の心の中は幸せとドキドキと恐怖と後悔でさらにごちゃ混ぜになった。  今は松澤とのことだけ考えよう。  そうじゃないと、瞼の裏に焼きついた曽我の死体がすぐに浮かんでくる。俺を追うだろう警察も。  そうだ、カメラ……!  俺は松澤が料理をしているのを横目に鞄から曽我が持っていたカメラを取り出し、そっとソファの影に置いてあったごみ箱に捨てて要らないプリントを上から捨てて隠した。これで気づかれない……はず。  俺が松澤とあの教室から逃げ出すときに、持ってきておいてよかった。  もしかしたら、後から来た他の先生たちに回収されていたかも。  あぁダメだ、そのことは考えるな。  怖くなるから、「松澤」という存在に縋ろう。  そうだ、俺……松澤の家に初めて入った一人なんだ。学校のやつらで入れたのって担任くらいだろ。  それに俺、手つないでもらったし、抱きしめられたし……お姫様だっこ(は、ちょっと男としては複雑だけど)もされた。  しかも今料理まで作ってくれるみたいだ。  俺があんなにも近づきたい、仲良くなりたいと思っていた存在に、今一番近づけている。  こんなに幸せなことってあるか?  すごく不幸なことと、すごく幸せなこと。  神さまは絶妙なバランスで俺に与えてくる。  あ、でも不幸なのは俺より曽我か? いや、やめろ、そっちに話を向けるな。  とにかく。  俺は今、夢のような地獄と天国を見ている。  松澤と、まるで恋人のようだ。  溶けるほど幸せな時間。  ……それが続くのは、あとどれくらい?  * 「……できた」  そう言って松澤はキッチンの近くにあるダイニングテーブルにいくらか皿を並べた。 「松澤……」 「食べよう」  そう言って俺の傍まで来た松澤は俺の様子をかがんで見つめ。 「歩けるか?」  そう聞いてくれた。  俺はなんとか笑顔を繕って、「うん、それくらい全然平気」と言いながら立とうとした途端。  ――――ガクン。  え?  脚が震えて立てなくなっていた。一気に膝から崩れ落ち、バスタオルがはらりと落ちる。 「いやっ……」  俺の両腕は自分の体を支えるのに必死で松澤に体を晒すハメになった。  背中のいくつも引っ掻いた跡や消えない鞭の跡。女のように起った乳首。 「仙崎……」 「やだっ……見ないで、みないで……!」  涙がこぼれた。こんな醜態、これ以上晒したくなかった。  すると松澤は突発的に俺を抱き起して体を直に抱きしめる、 「……っ!?」 「…………」  どうして。  どうして抱きしめてくれるんだろう。こんな穢れた身体を。  浮かべられるのは、自分に向けての嘲笑しかなかった。 「はは……俺の体、やらしいだろ。男の相手させられまくってさ、気持ち悪いだろ……?」  そしてこのいやらしい身体は松澤に直に触れられてることで快感さえ伴ってくる。  あぁ俺、今松澤に触られてるんだ、って。これがこういう状況でなければ、どんなに嬉しかったことだろう。 「……早く離した方がいいよ。俺、たぶんバイだ。お前に触られてると……感じちゃうから」  最後は冗談めかしく言ったが、真実だった。  でも松澤は放さない。 「松澤……っ」 「お前のこと、綺麗だと思う」 「……は?」 「こんなに酷い目に遭わされ続けて、それでもみんなの前では明るく笑ってて…充分お前は強いと思うし、綺麗だと思う」 「…………」  無意識に、一筋涙が流れた。  今まで隠し続けてきた本当の俺と、みんなの前で見せていた偽りの俺のすべてを肯定してくれているように思えて。  あぁ、俺はきっとこれでよかったんだって、少しでもそう思えることが嬉しかった。 「他人を悪く言うのは良くないだろうけど、俺は……お前をこんな目に遭わせた曽我とお前の父親を許せない」 「……松澤……、バカだなぁ」  俺は松澤と顔を合わせて、泣きながら笑った。 「お前は誰も憎まなくていいんだって。苦しく思う必要もない。だけど……、ありがと……」  そう言って自分から松澤を抱きしめた。  するとしばらくして。 「……っ仙崎……」 「……ん?」  松澤は言いにくそうな声音でぼそっと言った。 「確かに俺はそう思うが……、それでもお前の体は……男でも、そそられる」 「え?」  そして松澤はすぐに床に落ちたバスタオルを俺の体に巻いた。 「……とにかく、食べよう」  そう言ってそのまま俺の腕を肩にかけて、ダイニングテーブルへと誘導する。  そそられる?  つまり松澤が?  俺の身体で?  何回も頭の中で今の言葉を繰り返して、そしてようやく理解して。  嬉しさと興奮で、少し勃ちそうになった。  こんな絶望的な心理状態だったくせに勃つなんて、そうさせる松澤ってやっぱすごすぎ。  俺は自然と笑みがこぼれて、冗談めかしく言った。 「惚れるなよ?」 「…………」  何も答えが無い。これは……もしかして、脈あり? 「……惚れても、いーけど」  俺はぶっきらぼうに小さくそうこぼすしかできなかった。お願いだから、聞こえてて。  一瞬でも、「身体だけの関係でも構わないから俺を求めてよ」と思ってしまった自分を殴りたい。  松澤は無言で俺を運び、連れて行ったダイニングテーブルに並べられていたのは。  白米にお味噌汁にサラダに豚カツ。まさに夕食。 「すっげぇ……! 美味そう!」 「大したことない」  そう素っ気なく返す松澤だが、少し嬉しそうだった。  俺を席に座らせた松澤は反対側の席に着く。 「いただきます」  そう言って食べ始めた。さすが、礼儀いいんだなぁ。  俺も見習って、「いただきます」と言って豚カツをほおばった。  これは……! 美味い!  カツのサクサク感と中の肉のやわらかくてジューシーなのがたまらない。どうやってこんなの作れるんだよ……!?  俺は知らないうちに泣いていた。  なんだ俺、さっきから泣きっぱなし。いや、最近ずっと。 「どうした?」  心配そうに松澤が聞いてくるが、俺は涙をこぼしながら笑った。 「人が作ってくれた料理……食べたの何年ぶりかなって……。しかもおいし過ぎて……」 「……そうか」  松澤の笑みは安堵が見える温かなものだった。  *  涙がひとしきり収まったあと、俺は白米を口に入れながらふとした疑問を聞いてみた。 「ところでさ、なんで豚カツ?」  すると松澤はなんでもないことのように真顔で。 「……験担ぎ」 「げんかつぎ?」 「少しでも何かに勝てるように」 「……はははっ」  あの松澤が、験担ぎで豚カツ……! すぐにでも甲斐田や飯塚に伝えたかった。 「笑うな、本気だ」  そして少しふてくされたような、本気の顔でそれを言う……! 「……くくっ……。……ありがと、俺のために」 「……どういたしまして」  ぶっきらぼうに返されたのは笑われたからか。可愛いところあるんだな。  ちょっと幸せな気分になった。 「あ、そうだ……わがまま言っていい? 断ってくれてもいいから」 「なんだ?」  味噌汁をクッと飲み終えた松澤が聞く。 「――――……俺のこと、『千尋』って呼んで。仙崎でも、ヒロでもなく」 「……『千尋』」 「……うん。俺が幸せだった頃なんだ、ちゃんと名前で呼ばれてたのって」 「そうなのか」 「うん、母さんも、俺の本当の父さんも……優しく俺をそう呼んでくれてた。俺の父さんってさ、すっげー優しいんだ。体はそんなに強くなかったけど、それでもちゃんと自分の意志はしっかり貫きとおしてたし、あ、でもたまにとぼけたことやらかしたりするんだけど……大好きな父さんだった」 「……お前に似てるな」 「そうかー?」 「じゃあ俺のことも、『零二』でいいよ」 「……。…………え!?」 「今になっては……めったに呼ばれない名前だから」  自分なんかがそんな大切なことしていいのかって、ちょっと悩む。  でも、その反面心は嬉しかった。 「わかったよ、零二」 「……うん」  俺がそう名前を呼ぶと、少し嬉しそうに微笑みが返ってきた。  すごく幸せな、時間だった。

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