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最終章-千尋 後編

 ***  その後、零二はしばらく病院で過ごすようになった。  しかし彼は、もう以前の彼ではない。ほとんど生き人形のように変わり果ててしまった。  最後に食べ物を口にしたのはトシマとセンリが自宅から持ってきてくれた千尋の料理の余りもの。  言葉もほとんど話さなくなり、本も読まずただ窓の外を眺めて一日が終わるようになった。  時に数度センリやトシマ、そして零二の兄と父が見舞いに来たがいずれも声が届いていないのかほぼ無反応で、彼は闇より深い『無』に心を巣食われてしまったように感じる。  そんな状態で半年以上経ったある日、めずらしい人間が見舞いに来た。 「あのー、松澤零二くん?」  聞きなれない声が届いたのか零二は無言で窓の外からその人物へと目を向ける。  そこに立っていたのは千尋と同じ職場の先輩、山崎だった。なにやら大きめの荷物を持っている。  零二の状態を見ても彼は眉を微塵も動かすことなく、いつもの調子で話を進めた。 「ほー。やっぱり写真で見るより生で見たほうがイケメンだな。ちょっと不健康そうだけど」 「……あなたは?」  長らく人と会話していなかったからか、その口からはかすれた声が発せられる。 「あぁごめん。俺は山崎律也。高橋……じゃねーや、仙崎と同じ職場で働いてた。仙崎からは事情をほとんど聞いてるし、ちょっと頼まれてたことがあってさ」 「千尋に……頼まれてたこと?」  零二の瞳が揺れた。微かに、光が灯ったようだった。  山崎は自分の鞄から一枚の紙切れを取り出して零二に差し出す。  そこには千尋の字で『俺のスマホのパスワードは、零二の誕生日を逆にしたやつだよ』と書かれていた。  零二は傍らに置かれていた千尋の携帯に手を伸ばすが、充電が切れていてすぐに見ることができない。それを察したのか山崎は、 「お前、脚不自由なんだろ? 充電器入ってんのどこ。探してやるよ」  そう言いながら手に持っていた大きな荷物を置いた。 『赤の他人』というちょうどいい距離感が、零二の心を開かせたのかもしれない。何より、千尋が事情を話した相手だ。信頼できる人間かもしれないし何か自分の知らない千尋に繋がるものがある気がしてならなかった。  零二のわずかな沈黙に、「あー、突然来たし、俺のこと信用できないか」と山崎が言うため、零二は首を横に振った。 「……千尋があなたを信用したのなら、俺もあなたを信用します」 「さすが彼氏。仙崎のこと好きなんだな。……で、どこ探しゃあいい?」  零二は自分では届かない、入院患者専用の棚を指さす。 「その下の段に入ってる鞄の中だと思います」 「ん、これか」  山崎は言われた通りの棚から鞄を引き出して、床に置いてがさがさと中を探し始めた。 「お前のこと、結構探したんだぞ。仙崎から聞いてた住所に行っても、あってるはずなのに何回インターホン押しても出ねぇしさ。そしたら今日たまたま大家と会って、お前が病院にいるって聞いたんだ」 「いつから、探してたんですか」  ……その言葉に、山崎は手を止めてめずらしく苦渋の表情をする。 「あいつが、死んでから」 「……! どうやって、そのこと知ったんですか」 「……本人から聞いてたんだよ。『この日に俺は死のうと思ってます』って。――止めなかった俺を殴ってもいいし、恨んでもいいよ」  零二は信じられない気持ちでいっぱいだった。山崎を殴りたい衝動に駆られたが、ベッドの布団を握りしめてその衝動に耐える。 「どうして、止めなかったんですか」 「その話をしてるときのあいつさ、すげー嬉しそうだったんだ。もちろん、悲しそうな表情も少しはしてたけど。でも俺はあの表情が忘れられなくて、それがこいつの望みなら尊重しようって思った」 「……嬉しそう?」 「そ。なんつーか……夢を語るように話してた。お、充電器あったぞ」  山崎が手渡した充電器を千尋の携帯に繋げながら、零二は沈んだ表情をした。 「……どうして……」 「さぁな。あ、そうそう。次の頼み事があった。……これ、あいつがお前に託したプレゼント」  山崎は先ほど床に置いた大きな荷物を零二に見せる。その箱には『サイボーグ型ロボット』と書かれていた。 「サイボーグ型……ロボット?」  すると機械が好きなのか、少しだけ楽しそうに山崎は中のものを取り出す。 「これ、かなりすごいぞ。何百万もするやつ。これが、お前に残したかった希望なのかもな」 「希望……」  取り出されたそれは、まるで義足のようだった。零二はすぐにこれが歩行補助器具だと勘づく。  でも、何百万? 千尋の掛け持ちしていたバイトの給料で、日々生活していたはずだ。なのにそれとは別で、何百万なんて大金を普通稼げるものだろうか。  零二の中で黒いもやのような疑問が浮かぶ。しかし、山崎の説明で一旦その疑問は後回しにされた。 「ここを腰にはめて、これを両脚にそれぞれはめるんだとよ。起動時間は一時間。でもまぁ、その間なら歩くことをサポートしてくれる。お前を自由に歩かせたかったんだろう」  それが、希望。  しかし零二は先ほどの疑問を忘れられずにいた。 「あの……、あなたの職場は自動車の整備工場ですよね?」 「うん、そうだけど」 「失礼なことを聞くかもしれませんが、そこの給料って、高いですか? 例えば……男二人の生活費と、そんな大金を貯められるほど」  それに関して聞かれた時、山崎は何かを考えるように視線をそらす。 「……気になるかもしれないけど、聞かない方がいいと思う。あいつだってそう思ってんだろ」 「何が理由であっても、聞きたいです。俺には……もうあなたしか居ないんです。あなたしか、俺の知らない千尋を知る人は居ない」  その熱い視線から逃れられなかった山崎はひとつため息をついて、近くにあった椅子に座った。 「きっと聞いて後悔するぞ」 「構いません」 「お前、見かけによらず頑固だな」 「なんとでも言ってください」 「……わかったよ。――風俗店だ」 「…………風、俗?」  零二は酷くショックを受けたような顔をする。だから言いたくなかったと、山崎は苦い思いをした。でもなんだか、これも千尋から託された使命な気がしてならない。 「あいつは、整備工場と……たしかコンビニかな。詳しいことは知らんけど。それと、風俗店の仕事を掛け持ちしてたんだ。けれど、そのコンビニだったかの店長に乱暴されてから店を辞めて、風俗店で働く時間を代わりに伸ばしたんだよ」 「でも……、そんな様子はまったく……」 「苦労したんじゃねーかな、相当。いっつも、風俗店から帰る時は髪も体も綺麗にして、わざとゲーセンとか寄って石鹸の匂い落としてから帰ってたんだってさ。お前に知られたくなかったからだろうな。しかも、あいつ店のナンバーワンになったんだぞ。それだけ頑張ったってことじゃん?」 「……」  零二の中で、家に帰ってきた時の千尋の様子を思い出していた。いつも「はー、疲れたー」と言って、よく自分に抱き着いてきた。あの家で生活するようになって今までより甘えてきたのは、まさか他の男に抱かれてきたから? 「あ、勘違いするなよ。言っとくけど俺は店のパネル見ただけで仙崎とは何もねーから。あと、他の男に抱かれてたのはお前のためであってだな……」 「わかってます。千尋が考えそうなことです」  零二は歯を噛み締める。いつのことだったか、『それが零二のためになるんだったら俺、どんなことでもできる』と言っていたのを思い出していた。 「あ。そして最後にもうひとつ。これは伝言」 「千尋から?」 「うん。――……『お前が持ってる、俺の教科書を見て』って」  零二は、その言葉を聞いて即座に周りを見渡した。零二の鞄をトシマが持ってきてくれたはずなのだ。  すると山崎は先ほど取り出した入院患者用の棚の上の段を指さした。 「もしかして、あれ? なんか質のいいスクールバッグみたいな……」 「それ、取ってもらっていいですか」 「おう」  山崎に鞄を取ってもらって、零二は急いで教科書を取り出す。あの雨の日に二人で交換した、思い出の物だった。  しわしわになったページを急ぎつつ丁寧にめくっていく。  千尋の教科書に書き込まれた字が目に入るたび、あんなに動かなくなっていた心が苦しくなった。  そして最後の白紙のページに、その伝言はあった。  山崎は零二の様子を見て「また今度、見舞いに来るわ」と言い残し、適当に手を振ってふらふらとその場を後にする。  ……最後の千尋との対話を、邪魔しないように。  * 『このメッセージ見てくれてるってことは、きっと山崎さんから伝言を聞いたってことでいいかな。  でもって、その頃にはもう俺はいないんだろうな。自分でこれ書いててなんだか不思議な気分。まだ実感ないのかもしれない。  零二、一人で先にいってごめん。でもさ、いつも一日中家から出られないでいるお前のこと見てると苦しいんだ。  零二は頭も良いし、家族も理解ある人ばかりで、俺なんかより将来が明るい可能性があるって俺は思う。  俺なんかのせいで、その可能性をつぶしちゃ駄目なんだよ。もっとお前には自由になる権利があると思う。  だから、少しでも歩けるように山崎さんにプレゼント託しておいたから。  でも、自由に歩けるようになったからってお前が本当に自由になれるわけじゃない。  俺のせいで犯してしまった罪がある。それがきっと、次に邪魔になる。  だから俺が全部の罪を持って行く。大丈夫だよ、上手くいくって! 心配しなくていいからさ。  あー……でもお前のことだから、俺が居なくなっておかしくなるかもしれない。そこが俺も心配でさー。  そんな時は、俺のこと思い出して。俺の顔も、声も、身体も、体温も。きっと覚えていてくれてるだろ?  んー、なんかようやく死ぬの、怖くなってきたかも。もう零二の傍にいられないんだもんな。  ナイフで腕切るの、どれだけ痛いんだろう。俺、その時泣くかな。……泣くよな。  痛いからかな。もう最期だからかな。わかんないけど。  でもきっと、俺最後に「零二」って言うと思う。「零二、ごめんな」かな。「零二、今までありがとう」かな。これもその時になってみないとわかんないや。  俺のことだから弱気になって、意識が遠のいてく時に「まだ、死にたくないよ」って泣き言いうかもしれない。もう間に合わないのにな。バカみてぇ。  だめだ、こんな話してたら死ねなくなる。お前のこと、自由にしてやれない。  じゃあ、零二の好きなところ言います。  まず、零二は顔もかっこよければ声も良い。背も高い。けど、高すぎないから俺からもキスできるし、そんなベストな身長が最高。まぁ……今は俺の方が背高い感じになったけれど。  そうそう、身を挺して俺を守ってくれるところも好き。優しく笑ってくれるところも好き。たまに乱暴になるのも、零二だから好きだった。あー、もう存在すべてが好き。  ……零二のことが本当に好き。好きだから離れようとしてるのに、好きだから離れたくない。  もうこの目が次の朝日を見ることはないんだって思うと怖い。  俺だって、まだやりたいこといっぱいある。母さんにもう一度会いたかった。池畑さんにだって、ふたりで会いに行きたかった。もちろん、センリとトシマさんにも。  零二とあちこち歩いて回って、たくさん思い出も作りたかった。  でも、もう時間がないんだよ。警察がまた追ってくる。この前あの事件の話をしているのを聞いたんだ。  ……零二はきっと困るかもしれないけど、本音言ってもいいかな。  死にたくないよ。  怖い。変かもしれないけどさ、俺さっきから手の震えが止まらないんだ。怖くて怖くて、頭がおかしくなりそう。  口では何度でも「死にたい」って言えるけどさ、あれってきっと「生きたい」の間違いだよ。いざ死ななきゃいけなくなると、こんなに怖いんだ。  零二、離れたくないよ。ずっとそばに居たい。  幽霊になったら傍にいるって言いたいところだけど、死んだら実際どうなるかなんてわかんないじゃん。  ずっと切ったところが痛むのかもしれない、ずっと苦しい思いするのかもしれない。  零二のこと、少しずつ忘れていくかもしれない。そんなの嫌だ。  あぁ、なんか泣けてきた。長くなってごめん。もうこれで最後にするね。  さよなら、零二。ずっと愛してる』  *  その文章の最後の方に、まだ新しめな雫のしわがあった。ひとつじゃない。何個もある。  泣きながらこの文章を書く千尋の姿が浮かんだ。  零二はその時になって初めて、堰を切ったように涙を流した。  静かに流れたその雫が、千尋の涙の跡に重なる。  ***  数ヶ月経ったある日のこと。  再び山崎が零二の病室を訪ねると、そこに零二の姿は無かった。  そこでたまたま近くを通った看護師に聞いてみると、どうやらリハビリ室にいるという。  山崎は次にリハビリ室を探し歩いていると、あのロボットを脚にはめて歩行練習をしてる零二がいた。  前に見たときとは見違えたように、零二の瞳は生き生きとしているように見える。 「よぉ」 「あ、山崎さん……。お久しぶりです」 「だいぶ歩けるようになったんだな」 「はい、もう病室まで自分で歩けます」 「へぇ。すげーじゃん」  ただ、そうは言ったものの零二の生き生きとしたその目は何か他と違う気がした。  *  零二は山崎と病室に戻ってロボットの充電をしている間に、仕事中の千尋の様子などを聞いていた。 「そうですか、そんなことが……。働いてる千尋の姿、見てみたかったです」 「んー、さすがに作業中に写真撮ることできねーからなぁ。……あ、写真といえば」  山崎は思い出したように自分の鞄から一枚の写真を取り出す。 「おみやげ」  そう言って差し出されたのは、照れているような、まるで幻に見惚れているように目線を斜め下に向けてる千尋の写真だった。なんとも言葉では表しきれない、むず痒い感じがした。 「藍沢って男がいてさ。そいつ、仕事で風俗で働いてる子の写真とか撮るんだけど、その成り行きで。……これ、お前のこと思い浮かべてる時の顔なんだってさ」 「……!」 「今まで見てきた仙崎の顔の中で一番いい表情だったって藍沢が言ってた」  その写真を見つめた零二は、ひどく衝動的に千尋に会いたくなった。  千尋に会いたい、抱きしめたい。唇を交わして、声を聴きたい。  それは、胸を焼き尽くすような恋情。  零二は、この数ヶ月ずっと思ってきた願いを打ち明ける。 「山崎さん」 「んー?」 「千尋が死ぬと聞いたとき、その意見を尊重しましたよね」 「……まぁな」 「じゃあ俺の願いも、聞き入れてくれますか? 今日じゃないと、駄目なんです」  *  看護師が零二の容態を確認して「お大事に」と言って部屋を出て行った直後、零二は充電された歩行補助器具をすぐに取り付け、服も着替えて病室を抜け出した。  なんとかナース達の目をごまかし外に出ると駐車場から車が一台零二の前に止まり、零二は車にすぐ乗り込む。  運転手はもちろん山崎だ。 「……また、こんなことしないとならねーのか」 「手伝いをさせてしまってすみません。あなたにこれ以上迷惑がかからないように、途中からは俺一人で歩きますから」 「そういうことじゃなくてだな……」  山崎はあの写真を零二に見せたことを後悔する気持ちと、千尋のあの表情をなんとか零二に届けられた達成感で複雑な心境だった。  そうして車でとある場所に移動中、零二は千尋の携帯のパスワードを解除して写真を見ている。そこには零二を写したものばかりだったが、たまに二人で写っているものもあり、それを見つけてはスライドしていた指を止める。中には、千尋が初めてのレシピに挑戦するふざけた動画なんかも残っていた。  ……すべてが、愛しかった。 「そろそろ着くぞ」 「あ、はい。じゃあここらへんで車止めてもらえますか」  そこは海の近くの森の中だ。他に人や車の気配はまったくない。 「こんなところでいーのか?」  すると、零二は軽く笑った。 「こんなところだからこそ、いいんですよ」  零二は自分の携帯と千尋の携帯をメモと一緒に山崎に渡す。 「これ……できれば捨てずに置いといてくれませんか。あとは好きにして構わないので」 「いいのか?」  山崎の問いに零二はぼろぼろの教科書を胸に抱いてうなずいた。 「はい。……俺にはこれがあるので」 「わかった。それじゃあな」 「山崎さん、あと、藍沢さんという方も。本当にありがとうございました」 「……ん」  零二は自分の隣の席に置いてあったヒマワリの花束を持って車を降りる。そして森の中を進んでいった。  残された山崎は煙草をふかす。  なんとなく、零二が先ほど渡してきたメモを開いた。  それは千尋が零二に託した携帯のパスワードのヒントが書かれていたもので、『俺のスマホのパスワードは、零二の誕生日を逆にしたやつだよ』と書かれていた。  しかしその下に別の字で、『パスワードは0、3、8、0です』と丁寧に書き足されている。 「0、3、8、0……ってことは松澤の誕生日は8月30日か……」  ふーっと煙草の煙をはきだして、数秒してからハッとした。急いで自分の携帯を確認する。 「今日じゃん。それに仙崎が『零二の誕生日に死のうと思ってて』って言ったってことは、今日は松澤の誕生日で、仙崎の……命日」  さっき零二が言っていた『今日じゃないと、駄目なんです』の意味がようやくわかった。もちろん零二がもう二度と戻って来ないことも。 「……神様ってのがいるなら、俺はこっぴどく叱られるのかなー」  そんなことを考えてぼーっとしていたら、不意に笑いがこみ上げた。 「……どうでもいい、か」  だけど、なんだろう。胸の奥にまたひとつ、傷ができた気がした。  *  零二は十分ほど森の中をぎこちなく歩き、やがて海の見える崖に出る。  この海は千尋が眠る海。  千尋の骨は、この海に散骨されたのだ。  零二は崖の淵に立ち、その身体で潮風を強く感じる。見上げれば空の青さがどこまでも続いていた。この先に千尋がいるのかもしれないと思うと、早く会いに行きたくなる。 「千尋……ここに来るまで一年もかかったよ。まだ俺のこと、待っていてくれてるか?」  その言葉はむなしく風にかき消されて消えた。言葉が返ってくることもない。 『……なぁ、もし雨に溶けて消えられるその日が来たら、海に行こう』  ふと、千尋の言葉が頭によぎった。この海に散骨されたんだ、きっとその願いは果たされたはず。 「……やっぱり、俺にはお前がいないと駄目だった。生きてる感じがしなかった。ものすごくお前に会いたいよ。――今、そっちに行く」  辛くはない。でもほんの少しだけ、悲しかった。こんな気持ちがまだ自分に残っていたことに驚く。  ……そうして、最期の時。  松澤零二はヒマワリの花束と、千尋の教科書を胸に掻き抱いて、闇に消える。  ***  風の音が一際強くゴオッと鳴った。その瞬間零二は強く目をつぶるが、次に目を開けた時、信じられない光景に目を瞬かせる。  いつの日かセンリ達に連れてきてもらったヒマワリ畑だった。しかし、何かが違う。そうだ、この丘の先が違うんだ。  前に見た時、丘の先には森が広がり、その向こうには街と海が見えた。  しかしここは丘の先も花畑が続いており、その先には広く雄大な川がある。  そこで零二はハッとした。  ……まさか。  零二はヒマワリ畑の小道を駆ける。もしかしたら、この先に……。 「千尋!」  愛しい存在はこちらに背を向け、ヒマワリ畑の中でどこまでも青い空を見つめていた。そうして、苦笑しながらこちらを振り向く。 「もー、俺があんだけ苦労したのに、こっちに来るの早すぎじゃね? ……って、わっ!」  その言葉を遮るように零二は千尋を思いっきり抱きしめた。  会いたかった。  夢の中じゃなく、ここで。 「俺、ずっと待ってる覚悟してたんだぞ? 零二が誰かと結婚しても相手に嫉妬しないようにしようとか、そこまで心の準備もしてたのにさー。俺のこと、信じてくれなかったのか?」 「違う……ただ俺が、会いたくて仕方がなかったんだ」  その声は震えている。零二は、泣いていた。千尋の首元に涙の感触が伝わる。 「ばか……。零二が泣いたら、俺まで……泣いちゃうだろ」  千尋もつられるように泣き出した。  お互い強く抱き合い、ヒマワリ畑の中で立ち尽くす。  ……幸せだった。  他に誰も居ない場所でこうして二人抱き合える。誰からも咎められない、二人だけの世界。  いつだったか感じた幸福感を今一度、感じている。  千尋は待ちきれなくなって「零二、キスしたい」と言うと、すぐに唇を奪われた。  しばらくキスを堪能して、お互い見つめあって、笑って。  ひとしきり休んだ後に千尋は零二に手を差し出した。 「それじゃ、行こっか」  零二はその手を取ってうなずき、そうして二人は歩き出す。  *  目の前には幸せな光景が広がっていた。  絶望的な状況に、あまりに不似合いだった。  誰も知らない場所で、こいつが俺に笑いかける。  俺も静かに微笑する。  ――たとえそれが、彼岸への道だったとしても。  文学少年は闇に消える -終-

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