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最終章-千尋 中編

 ***  藍沢とのひと時が終わり、店もこれ以上千尋を店に置いておいたら他の客に見つかると考えたのか、その日は早めに帰された。  帰路を、ポケットに両手を突っ込んでうつむきながら辿っていく。  藍沢さんは良い人だ。店に来る人間にしては本当に稀な人で、友達として……または兄貴分として慕っている。零二とは違った意味で好きだ。  自然と千尋は笑みを浮かべる。  こうして今、自分の味方になってくれている人が増えて嬉しい。 「なにか、嬉しいことでもありましたか」  急に声をかけられて顔をあげると、千尋は目を見開いた。 「東條さん……!」  丁度そこは自宅近くの公園で、なんとなくスーツをしっかり着ている東條がその場にいるのは似合わなかった。そもそも、こんなところに居て仕事の方は大丈夫なのだろうか。  千尋は東條に歩み寄った。 「お久しぶりです、東條さん。今日は何か用事あったんですか?」 「はい、零二様はどうしているかと思ってお見舞いに。そして君にも用がありまして」  東條の言葉に千尋は首をかしげる。まったく身に覚えがない。  頭で思っていることがそのまま顔に出ていたのか、東條は千尋の表情を見てクスリと笑った。 「大丈夫です、おそらく悪い知らせではありません」  そうして高級そうな黒い鞄から三つの封筒を取り出して千尋に渡す。 「……これは?」  その手紙の封筒には名前が書かれておらず、誰からの手紙か分からなかった。すると東條から意外な名前を聞く。 「実は零二様が事故に遭われたその日、『事態が落ち着いたら渡してくれ』と本田という刑事だった男からこの手紙を預かっていたんです。渡すのが遅くなってしまって申し訳ありません」 「本田が……?」  封筒を開けて中の手紙を見た瞬間、千尋は思わず「え……?」と声が出た。  その三通の手紙は、飯塚と甲斐田、そして養護教諭の白石からのものだった。千尋は何度も名前を確認して、ようやく落ち着いたのか二、三歩後ろにある公園のベンチに力なく座る。 「隣、座ってもいいですか?」  東條の言葉に千尋はただうなずくことしかできなかった。  すぐに飯塚の手紙から順に目を通していく。懐かしい文字だった。 『おいヒロ、大丈夫か?  突然本田ってやつが俺らの所に来て、色々ヒロについて聞いてくるもんだからちょっとビビった。あいつ元刑事なんだってな? 余計にビビるわ。  で、色々聞いたよ。お前、今松澤と逃げてるんだって? 驚いたよ。だってお前ら仲良かったところ一度も見てねぇもん。でも松澤のお陰で警察はお前のこと追えなくなったって聞いた。  なぁヒロ。俺、質問したいことばかりだ。本田ってやつに色々聞いたとは言ったけど、実際、お前のことほんの少ししか聞けてない。  もし今度時間あるなら連絡してほしい。俺たちみんな、お前のこと待ってるから。それじゃあな』   飯塚の文面を見ていると、まるで真剣な声音で飯塚が話しかけてくれている気がした。懐かしい飯塚の声。また聞きたくなった。  次に甲斐田からの手紙を見る。 『あのさ、俺手紙とかそーいうのマジ苦手なんだけど』  文章の出だしからこれで、千尋は思わず吹き出してしまった。あぁ、これが甲斐田だ。なんも変わってない。なんでだろう、飯塚からの手紙で涙腺に来ていたからか、少し泣けた。 『んー、なんかこの本田っておっさん好きじゃねぇわ。でもヒロに届けてくれるってゆーから書いてんだけどさ。そういやアレ見た? あのネットに大量に流しといた顔写真。コサージュだっけ? コサック? よく知らねーけど俺たち頑張ったんだぜ。  ……まぁほとんど飯塚がやってたけど。あぁ、飯塚と言えば。あいつ、ヒロのためにべんごしになるんだってさ。だから俺は、お前のいばしょになるようにレストランでも開くかなーとか思って。なかなかいいだろ?  だからいつでもこっちに帰ってこいよ。  あーやっぱ文章ながながと書くのだりぃわ。話した方が早いんだし、早くれんらくくれな』  千尋は涙をぬぐいながら笑う。 「もうちょっと漢字使えよ、バカ」  ……あれ、でもどうやって書くっけ。  千尋は近くに落ちてた木の棒を拾い、泣きそうになるのをごまかして地面に『弁語士』と書いてみる。それを眺めていた東條は「『護』という字が間違ってますね」と言って、千尋が持っている木の棒を預かり、地面に『弁護士』と書いて見せた。 「え、こんな難しい文字だったっけ!? しかも東條さんめっちゃ字上手い! 俺、東條さんみたいな家庭教師ほしかったなー」  驚く表情とその言葉にクスッと東條は笑う。 「……昔アルバイトで家庭教師をしていた頃を思い出すな」 「え、やってたんですか!? いいなー」 「まぁ私のことはこれくらいにして、もう一通読んでみてはどうですか」 「あ、はい」  東條から催促されたものの、白石からの手紙を開くことを少しためらってる千尋がいた。  唯一、事件の前に自分のことを心配して声をかけてくれた人。でもその優しさをいつものふざけたノリでかわしてしまった。そのことを千尋はたまに思い出すたび、後悔してはうつむいた。  深呼吸をして、手紙を開いてみる。 『仙崎くんへ  今、本田さんという方から仙崎くんへ手紙を届けてくれると聞いてこれを書いています。  正直、曽我先生が亡くなった事件が世間に知れたとき、同時に仙崎くんが逃亡を図ったと聞いて大きなショックを受けました。  未だに私は、あの事件を仙崎くんが起こしたことだなんて信じられません。  でも、最後に仙崎くんが保健室に来てくれたときに何か相談しようとしてくれましたよね?  もしかしてそれがこの事件につながることだったのであれば、私は悔やんでなりません。もしかしたら私は、この事件が起こる前にあなたの力になれたかもしれない。  事件当初は私もひどく取り乱してしまって色んな事を考えましたが、こうして冷静になれた今、やっぱり仙崎くんに聞きたいことがあります。  今は仙崎くんがどこにいるか分からないけれど、ちゃんと食事をとっていますか?  あたたかいベッドで眠ることはできていますか?  寂しい思いをして泣いてはいませんか?  あとは……松澤くんと一緒に逃げていると聞きました。私はあまり松澤くんのことを知らないけれど、あの優しい笑顔を松澤くんに見せていますか?  色々と聞きたいことはありますが、この辺にしておきますね。  もしよければ、下に電話番号とメールアドレスを書いているので連絡してください。  警察の方と繋がってるわけではないから、安心してね。  それでは、いつまでも連絡を待っています。  白石 美和 』  もし、この手紙を公園で寝泊まりしていた時に読んでいたら弱気になってボロボロと泣いていたかもしれないと千尋は思う。あの時は美味しいものも食べられず、あたたかいベッドで眠ることもできなかった。寂しくはなかったけれど、笑顔も枯れていた。  ……大丈夫、今はなんとか生活できてるよ。  そう心の中でつぶやいた。  手元にある三通の手紙にはそれぞれ本田が指示したのか電話番号とメアドが記してある。おそらく千尋が今まで使っていた携帯を捨てていることを見込んでのことだろう。  そう思うと、本田に感謝したくなった。 「どうでしたか?」  東條は千尋の顔を覗き込んだ。千尋は鼻をすすってから息を飲み込み、笑って返した。 「この手紙、読めてよかったです。東條さん、ありがとうございました」  その笑顔を見た東條はひとつうなずき立ち上がる。 「これで用件は以上です。そろそろ私は仕事に戻ります」 「あ、はい! 気を付けて帰ってください!」  千尋は東條を見送り、三通の手紙を大事そうに鞄にしまった。  ***  風俗店で千尋を指名する客の中には、当たり前だが藍沢のように良い人間ではない男もいる。  その日、千尋は給料だけをもらいに風俗店に向かっていた。今日は工場も休みだ。  そうして風俗店の前に着き、入ろうとした直前に腕を掴まれた。 「!」  ものすごい力で掴んで引っ張るせいで千尋は後ろへ数歩下がり、店の中に逃げ込むことができなくなる。  その人物の顔を見て、千尋はゾッとした。  男は見覚えのある強面で、かつて風俗店で千尋を指名して乱暴に扱い、千尋が店に助けを求めて出入り禁止になった客だった。 「やっと見つけたぞ。この前はよくも出入り禁止にしてくれたな」 「な……! それはあんたが俺を無理やりしようとしたからだろ!」 「うるせぇ! こうなったら、店じゃないところで勝手にするまでだ」  そんなやりとりをしている最中、気の抜けた声が入り込む。 「あのー」 「あぁ!?」 「……え? 山崎さん!?」  千尋は二度見をしてしまう。そこには整備工場の先輩の山崎律也(りつや)が居た。 「なんだテメェ! 殴られてぇのか」 「いや、殴られたくはないっすね。とりあえず、通報していいすか?」  山崎は親指と小指を立てて電話をかけるポーズをする。  えー……? と千尋は気の抜けた顔をした。せめて、せめて通報してから話しかけてほしかった……!  すると案の定、千尋の目の前で山崎が一発殴られる。千尋は隙をついて男から離れて山崎に駆け寄った。が、山崎はすぐに立ち上がる。 「山崎さん! もう、なんで相手の神経を逆なでするようなこと言ってんすか! 大丈夫ですか!?」 「えー、なにこれすげぇ痛いんだけど」 「当たり前でしょ!」  その時、店から数名のスタッフが出てきて喚く男を取り押さえた。突然のことで硬直する千尋と山崎。すると店からオーナーが出てきた。 「光くん……と、そこの方、大丈夫ですか」 「あぁ、まぁ……」 「あの男はこちらで通報しておくから安心してくれ。はい、光くん、今月の給料ね」 「あ、えっと、どうも……」 「藍沢さんに感謝しなさい。彼が教えてくれたんだ」 「え?」  千尋がオーナーが指さした方を向くと、その方向から藍沢が歩いてくる。 「よぉ、光くん。災難だったな。……そこの山崎さんって人は、彼氏?」  その視線は物珍しそうに山崎の方に向けられた。  千尋は両手を必死に振って焦りながら否定する。 「ち、違うって!」 「その通り。俺、部外者なんで」  そのいつもの単調な声音が面白かったのか、藍沢は山崎を見つめた。 「そこ、痛くないですか? 殴られたときも表情ひとつ変えてなかったけど」 「痛いっすよ。それなりに」 「またまたー、そんなつれない目して。……あ、時間とらせてごめんね。俺もたまたま立ち寄っただけなんだ。それじゃあまた」  千尋はそれこそ珍しそうに藍沢の後ろ姿を見る。藍沢が自分以外の誰かに興味を持った顔をするのを初めて見た。  同じく藍沢の後ろ姿を見ていた山崎はポツリと言う。 「俺、妙なヤツに好かれた?」 「あ、いや、藍沢さんは不思議な人だけど良い人なんで大丈夫です!」 「藍沢、ねぇ……」  そうしてしばらくの沈黙。千尋は気まずそうな顔をする。  山崎には前のバイト先については話していたが、夜の、しかもゲイ向け風俗店で働いてることは言ってなかったからだ。というか、零二に対しても同様だが言えるはずがない。 「あの……さっきは助けてくれてありがとうございました。その……引きましたよね」  まともに山崎の目を見ることができず下を向いていると。 「なぁ」 「はい?」  山崎は興味深げに店の前のボーイが写ってるパネルを指さした。 「こーいうのってやっぱ写真加工してんの? 顔良くしたりとか」 「へ? あ、いやぁ……たぶん少しくらいは……?」 「ほー。お前この店のナンバーワンなのか。すげーじゃん。でも写真と実物、そんなに変わんねーな。お前は加工無しでも可愛いからか」  いやいやいやいや。と千尋は山崎のペースに乗っかれないでいる。 「あの……山崎さんは、こういう趣味がお有りで……?」 「いや? 無いけど」 「ですよねー」 「でも、こういう趣味があるから何? って感じ。別に人に迷惑かけてないし、いいんじゃね?」  平然と言う山崎の言葉に千尋の心は動かされた。そして同時に安堵する。 「よかった……。山崎さんに嫌われたらどうしようって、さっきからずっと考えてたんです。でもどうしてここに……?」 「俺の家近くなの。で、ここの通り通った方が買い物行きやすいんだよね。そうだ、どっかカフェでも行かね?」  千尋は腕時計を見る。今日はオフだからなるべく零二と過ごそうと思っていたが、助けてもらった手前、少しだけ同席することにした。  * 「あぁー痛んでるとこに沁みるわー」  山崎はカフェで頼んだフラペチーノを殴られた頬にあてて息をつく。 「巻き込んですみませんでした……。追加で何か、奢りますよ」  すると山崎は力なく手を振った。 「いや、俺自分から巻き込まれにいっただけだから気ぃ遣うなよ。ここも俺の奢り」 「あ、えっと……ありがとうございます」  どこかぎこちないというか、よそよそしい千尋を見た山崎は少し強めに千尋の背を叩く。  千尋はビックリして飛び上がった。 「なーに他人行儀になってんの。さっきの店バレたことでもショックなのかー?」 「そりゃあ、あんなとこで働いてること知られたらこっちもキョドりますよ……必死で隠してたのに……」  なんとなく、千尋はショボンと肩を落としているように見える。しかし山崎はカフェの窓の外を見ながら、千尋の姿を気にせず言及した。 「『あんなとこ』とか言うもんじゃないぞ。それも立派な仕事だろうし、そこで働いてる他の人間に失礼だ。マイノリティだろうと胸張ってろ。俺に説教させるんじゃありません」 「山崎さん……優しいんですね」  千尋は山崎の言葉に勇気づけられたのか少し微笑む。山崎は照れ臭そうに視線を背けた。 「別に。俺は優しくねーよ。……あ。ってことはさ、前に話してた『一緒に住んでる大切にしてるヤツ』って、男?」 「うっ……まぁそうですけど声を小さく……!」 「ここ周りに人居ないし、多少なら大丈夫だろ。で、どんなヤツ?」 「……イケメン」 「雑だな。写真とかは?」 「ありますけど……」 「さっき助けたのは誰だっけー?」 「山崎さん、ずるい……」  千尋は薄くため息をついて携帯を取り出す。そして写真を山崎に見せると、そこには窓辺で本を読む零二の姿があった。 「おー。ほんとだ、イケメン。……こいつ、車椅子か」 「……はい」  千尋はひとつ、心の内で決めていることがある。  そして、それを成就した日とその後のために過去を託す人が必要だと考えていた。  ……正直、過去の重圧に耐えられなくて誰かに聞いてほしいというのが本音かもしれない。 「……千尋」 「ん?」 「俺の本当の名前は、仙崎千尋です。この人は、松澤零二。少し長い話になると思いますが、聞いてくれませんか?」  千尋は零二に『ごめん、帰りが遅くなりそう』とメッセージを送った。  *  その日の帰り道。  夜の帳をくぐり抜けながら交番の横を通りかかったとき、警察の人間の会話が耳に入った。 「あの河川敷でホームレスが死んでた事件あっただろ?」 「あー、ありましたね」 「その犯人、もしかしたら近くにいるかもってさ」 「本当ですか! 俺たちの出番もあるのかな」 「どうだろうな……下働きだけさせられて上の奴らに手柄持ってかれそう」  その横を平然と通りながら、……千尋の顔からスッと表情が消えた。  ――もうそろそろ……か。  ***  数日後、千尋は工場も風俗店も休みを取った。  なぜなら今日は大切な日……零二の誕生日だったからだ。  今日は幸運なことに一日中晴れている。気持ちも明るくなった。  料理をしよう。大好きな人を起こさないように取り掛かる。  昔は全くやらなかった料理を零二に教えてもらってするようになった。  零二は栄養バランスを考えて、千尋は指示された通りにとりかかる。そんな二人三脚の作業は思いのほか楽しくて。  ……でも、今日は特別。  零二の好きなものばかりを作る。きっと零二は「栄養バランスが偏ってる」とか言うんだろう。でもそれはそれで、本人が寝ている今、なんだかイケナイことをしているようで楽しくもある。 「ん……」  すると零二が寝返りを打ち、目覚める気配がした。  千尋は今やってる作業を中断して、ベッドに乗りかかる。零二は寝起きもかっこいい。よく『美人は三日で飽きる』みたいな言葉を聞くけれど、千尋にそんな格言は論外だ。 「……千尋?」  かすれた声が聞こえて千尋がすぐにその体に覆いかぶさり、頬にキスを落とす。 「おはよ、零二。誕生日おめでとう」 「誕生日……? あぁ、今日だったか」 「プレゼント何がほしい?」 「ん……千尋がいいかな」  零二は昔と随分変わって軽口や冗談を言うようになった。クールな感じは今もあるけれど、人間味が出て別の男らしさがにじみ出ている。  千尋は零二の言葉の途端にふきだし、零二もつられて笑った。 「じゃあそうだな……定番の、裸にリボン巻き付けて『俺がプレゼント』とか言う?」 「悪くない。マニアックなプレイでも出来そう」 「零二のえっち」 「否定はしない」  すんなりと認めるところも好き。全部が好き。千尋はたまらず零二に抱き着く。 「あー……、朝からこんな気分とかどうしてくれんの? 料理の途中なのに、すげーしたい」 「料理してくれてんだったら、それはお預け。顔洗ってくる」 「やだー、今したいー」 「だめ。後で息もつけないほど抱くから、覚悟しといて」 『息もつけないほど』  その言葉に千尋は色々と想像して余計にドキドキし始める。  洗面台に車椅子で向かおうとする零二に「ねぇ、裸エプロンはー?」と聞くと、「油はねるぞ」と素っ気ない答えが返ってきて千尋は結局お預けを食らった。  *  零二はダイニングテーブルの上を見ながら絶句した。  そこには零二の好物である豚カツや塩ラーメンなど、朝から高カロリーのものがずらりと並べられている。  千尋は「どうだ!」と言わんばかりに自慢気な顔をするが、どうにも朝だけで食べられる量ではない。……たぶん一日かけても難しい。  男の手料理と言えそうなちょっと雑なところは見受けられるが、愛情は十分に伝わった。  そして単純な千尋のことだから、今まで零二が『美味しい』と言ってくれたものをピックアップして作ったのだろう。しかし零二はほとんどの料理を美味しいと言ってきたからこの計り知れない量になったと思われる。 「よし、冷めないうちに食べよ?」  無邪気な千尋の言葉に零二は頷く他なかった。  * 「うぅ……もうギブ……」  千尋は自分の作った料理に返り討ちに遭った。零二はとうに箸を休めている。  ショボンと肩を落とした千尋は悲しそうに零二を見つめた。 「後先考えずに作った俺が悪かった……。零二、無理してない? なんかごめんな」  零二はテーブルの上を見渡すが、冷めて美味しさが半減するものはほとんど一通り食べきったと見てひとつうなずく。 「いいや。千尋が腕によりをかけてくれたのは嬉しかった。俺のことを考えて作ってくれたんだろ? ……ありがとう」  穏やかなその微笑みを見たら、千尋はイチコロだった。 「っ……れいじー!」  ガタンと音を立てて立ち上がった千尋は零二に走り寄って抱き着く。 「好きだ、ほんとに大好き。たくさん『好き』って言ってるからって言葉を安く見るなよ? 心の底から好きなんだから」 「大丈夫、わかってる。俺も好きだ」 「うん……。あ、車椅子だと自由に身動きできないよな? ベッドの上の方が動きやすいだろ、そっち行く?」 「いや、その前に歯を磨く」 「わかった、じゃあ洗面台な」  千尋は零二の車椅子を押しながら、笑顔を絶やさなかった。  こんなにかっこよくて優しい零二を独り占めしてるんだと思うと、世界で一番幸せな気がした。  *  ようやくベッドに着くと、零二をベッドに座らせる手助けをした千尋はそのまま零二の服を脱がし始める。 「……! 千尋?」  突然のことで零二が驚くと、その上半身が露になったところに千尋が抱き着き、心臓のあたりに耳を当てた。 「……あったかい。零二の体温がきもちい」 「……」  その言葉を聞いて、今度は零二が千尋の上半身の服を脱がす。「えっ、ちょっ……」と同じく驚いた千尋は脱がされた後に恥ずかしそうに身をよじった。 「び、ビックリした……」  すると今度は零二が抱きしめる。 「よく言うだろ、人間の体温は肌と肌が密着したほうが伝わりやすいって」 「……俺、あったかい?」 「うん……、心地いい」  肌と肌が触れるところでお互いの存在がひとつになる。それが心地よくて、昔は灰色に見えた心の中が今は色づいているように感じた。 「俺の体温、ずっと覚えていてね。俺も忘れないから」 「忘れることなんてないだろ。こうしてまた抱き合えばいい」 「うん……そうだな」  零二は千尋をベッドに優しく押し倒すと、健康的な肌の色が日のもとに晒される。  その素肌の隅々まで手を巡らし、時折手にひっかかる胸の突起をやんわりと捏ねると、すぐに固くなってピンと主張した。 「んっ……」 「ほんとエロい身体」  そう耳元でささやかれるだけで千尋は体の熱が集中し始める。 「からだ、あっついよ……。全部脱ぎたい」 「うん」  ……これで最後になるだろう。千尋は決意を固めていた。  だからこそ覚えていてほしい。この身体のすべてを。  そして覚えていたい。目の前の愛しい身体や仕草、そのすべてを。 「零二……」  千尋は零二の名前を呼びながらその首に腕を回した。  * 「あっ……あ、もうダメ、無理っ……!」  激しく後ろから身を穿たれて千尋は悶えていた。もう何回イっただろう。  しかし零二は達することを許してはくれない。 「まだだ……」  そう言って熱の中心をしっかり握られる。それだけで千尋の身体は跳ねた。 「ひぅっ!」 「……可愛い」 「んんっ……そんなこと言ってないで、イかせろっ!」 「もう少し……俺がイきそうになったらな」  やがて互いの熱がはじけ飛ぶ。零二の熱を引き抜かれた千尋はその空虚感に切ない表情をした。 「さすがに、俺ももう無理かも」  膝に力が入って痛めたのか、零二は体勢を立て直してそこから先の動かない脚をさする。 「もー、『バックや正常位でもしたい』とか言うからだぞー。素直に俺に乗られてれば良かったのに」  すると零二は不満そうな顔をした。 「……千尋はすぐバテるから続かない」 「言ったな、このー!」  千尋は軽く枕を零二に投げ飛ばして、お互い笑いあう。 「風呂入ろっか。脚動かせる? 痛い?」 「少し痛むけど大丈夫だ」 「……そっか。もう少しで、よくなるからな」 「?」 「よし、俺風呂沸かしてくる」  その言葉の後、立ち上がろうとした千尋はすぐに体勢が崩れた。 「千尋、どうした」  すると恥ずかしそうに顔を真っ赤にした千尋がにらむ。 「誰だよ人が立てなくなるまでやったヤツは!」  その言葉に零二は満足そうに笑った。  * [視点:松澤零二]  風呂を入り終えて俺たちはベッドに寝転がる。昼間からこうして疲れ切って横になるのは久々な気がした。  普段千尋はバイトで忙しいから、二人で思いのまま一緒に居られる今日の時間を昼寝に使うのはもったいない気がする。  ……いや、でも千尋はいつも頑張ってるから、それこそこうやって休ませるべきなのかもしれない。 「零二、ぎゅーってしていい?」  今日の千尋はいつもの数倍甘えてきて可愛い。  俺がうなずくと、嬉しそうに抱き着いてきた。 「なぁ、俺さ……夢見てるみたいだ。本田から逃げて公園で寝泊まりしてた時なんて、こうやってちゃんとした家で、働いて生計立てて生活しながら誕生日迎えられる日が来るなんて思わなかった」 「あぁ」  正直、俺は反対の気持ちだった。  千尋は今が夢のように感じるようだが、俺はあの学校の日々と、警察から逃げ回っていた時の方が夢だったんじゃないかとたまに思う。  でもそんな時は自由に動かせない自分の脚を見る。  これが、二人で逃げてきた俺たちの罪の代償。ここが、行きついた先。そう思いなおしてあの日々を愛おしい思い出に変換した。 「俺、今本当に幸せだ。幸せすぎて、怖いくらい。……零二、愛してる」  なんだか千尋の言葉がいつもより重い気がしてその方を見ると、千尋は泣いていた。  俺はその顔を間近で見て、ぐっとさらに抱き寄せる。 「……どうした。なんだかいつもと様子が違う」 「そんなことねーって。ねぇ、好きって言って。俺のこと、好き?」 「当たり前だ。愛してる」 「うん。……ありがとう」  そうして穏やかな闇に堕ちる。  *  それはあたたかな陽光の中。 「……ん」  いつの間にか眠っていたらしく、気づけば昼下がりになっていた。 「千尋……」  隣の存在の頬に手を当てたとき、その感触に違和感を感じる。  ……冷たい。ぺったりと。  凝視すれば、その唇に血色がなかった。  俺はバッと脚の痛みも忘れて体勢を起こすと、――……ベッドの下には真っ赤な海が広がっていた。  *** [視点:筆者]  冷たい霊安室の中、あのヒマワリのような少年は幸せそうに眠っているようだった。 「こんな……こんなことって……」  トシマは失意に呑まれたようにそれだけ言って口を噤んだ。傍らのセンリは何も言わない。ただじっと、感情の失せたような冷たい目で千尋を見ている。  零二は車椅子にもたれかかったまま、まるで人形のように動かず千尋の顔を見つめていた。  二人の様子を見たトシマはその場にいるとだんだん心が重くなっていき、涙を隠すように、 「……零二くんのお兄さんに連絡してくる」  とその場を離れた。以前、零二と千尋の家にキングサイズのベッドを運んだ際にセンリ達も居合わせたが、そこに丁度零二の兄も来ていた。その時にトシマは裕一と連絡先を交換していたようだ。  しばらく霊安室には沈黙が落ちていたが、センリは一言、 「……悪かった」  と何かを謝ってその場を出ていく。一人になった零二はゆっくりと手を伸ばして千尋の髪に触れた。優しく頭を撫でてみる。いつもならこうすると、きっと千尋は零二の名を呼び、嬉しそうに抱き着いてくるはずなのだ。  それが、ない。零二の瞳に光が戻ることはなかった。  数時間前までは、息をしていて、身体を重ねて、唇を交わしていたはずなのに。  なぜ、なぜ、なぜ?  その疑問は千尋が病院に運ばれるまでずっと零二が口にしていたものだった。壊れた人形のように、「なんで」と繰り返して。  やがて、霊安室に裕一が急いだ足取りで入ってくる。 「千尋くん……。零二、お前……大丈夫か?」 「……」  零二はうつむくだけだ。その様子を見て裕一は零二の肩に手を置いた。 「千尋くんの義父は今、警察に逮捕されている。容疑は千尋くんへの日常的な性的暴行だ。千尋くんのお母さんも病状がひどくなる可能性も考えて、通夜や葬儀はうちですべて取り仕切ろうと思う」  一通り説明を終えて零二の顔を覗き込む裕一だが、光を失った弟の瞳を見て、自分の言葉が届いていないことを知る。  それを見てそっと零二を抱き寄せたとき、トシマが急いで戻ってきた。 「松澤さん、警察が来ました!」 「警察? ……とりあえず行ってきます」  数分後、足音荒く裕一が戻ってくる。 「零二、河川敷でのホームレス殺害とはなんだ?」  その言葉に零二は微かに口を動かす。 「それは俺がやったことです」  トシマはその言葉を聞いて何か気づいたのか目を見開いた。裕一は話を続ける。 「先ほど警察に河川敷のホームレス殺害と教師殺害は自分がやったという旨の遺書が千尋くんから届いたそうだ。同封された灰皿から検出された指紋は千尋くんのもののみ――零二、ホームレスの人を……本当に殺したのか」  どうしても零二の言葉が信じられなかった。……信じたくはなかった。  だが零二は無言でうなずく。すると霊安室の入り口からセンリが言い放った。 「松澤の言ってることは本当だよ、お兄さん。あたしには……見えていたんだ。松澤が人を灰皿で殴りつけるところが」 「どういうことだ?」 「松澤さん、これに関しては俺から補足が。信じてもらえないかもしれませんが、センリは人の未来が見えるんです」  裕一はセンリを見つめる。理解がまだ追い付いていないようだが、それを呑み込んで対処に移るしかないと判断して歩き出す。 「とりあえず今は都島さん、あなたの言葉を信じます。警察には私が対応しましょう。……君、ありがとう」  センリに礼をした裕一は数歩ほど歩いて立ち止まった。そうして、振り向くと同時に零二の頬をパンッと平手で打った。零二はぶたれたまま動かない。 「……どうして殺した」 「千尋がレイプされそうになっていたので」 「それでも、だからってお前……!」 「……」 「松澤さん」  黙り込む零二を見たトシマが声をかける。おそらく助け舟を出したのだろう。 「取り乱しました。……申し訳ありません。後はよろしくお願いします」  そうして裕一は足早に霊安室を出て行った。トシマは零二のもとに向かいしゃがんで目線を合わせる。 「……大丈夫かい」 「兄の言動に間違いはありません」 「違うよ、それだけじゃない。零二くんの心が心配なんだ」 「こころ……?」  そうして浮かべられた歪んだ笑みを見て、トシマも零二の心は壊れてしまったことを知った。 「……。心が落ち着くまで、病院に入院させてもらった方がいいかもしれない。家の掃除は俺たちがしてくるよ。大丈夫、千尋くんの物は捨てないで置いておくからね」

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