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最終章-千尋 前編
[視点:松澤裕一 ]
「両名ともに意識無し! 自発呼吸あり!」
救急隊員の声が頭の中を流れていく。
コンクリートの上をじわりじわりと広がっていく赤い血。
それを見て手が震えだし、冷や汗が背を伝う。
……何をどうしていいのか、わからなくなった。
*
病室にはふたつのベッドが並べてあって、零二ともう一人の少年がそれぞれのベッドで眠っていた。
聞こえるのはピッ……ピッ……と規則的な医療器具の電子音のみで、俺はただただ零二の腕に繋がれた点滴の雫が落ちる様を茫然と眺めている。
……もうあれから数時間は経った。少し自分も疲れてきたようだ。俺は眼鏡をはずし、クリアに見える世界を手放した。
俺たちはどこで間違えたんだろう。
いくら寮制の学校に行っていても零二と話すことは可能だったんじゃないだろうか。
それに、母さんを看取ったのも零二一人だったと聞く。父さんも俺も、その時点で間違えていたんじゃないだろうか。だから零二は人生の選択を間違えてしまった。
……いや。
もしかしたら零二は間違っていない……?
もう一方の少年の方をぼんやりと見る。
零二はこの子を助けるために動いていた。父さんからは、この子は殺人を確かに犯したが悪い子ではないはずだと聞く。
正直父さんとこの少年の接点は分からないが、仮にその殺人が本人の快楽的意思ではなくそうするしかない状況に追い込まれていたとするならば。
零二はもしかしたら自分でこの道を正しいと決めて切り開いたのかもしれない。たとえそれが、世間的に間違っていたとしても。
……まぁ、結局これも自分を庇護する見解でしかないが。
「俺も父さんも零二も悪くない」と言いたいだけの机上の空論と言ってもいい。
すると。
「ん……」
目線の先の人物が動いた。
俺はすぐさま少年の方に駆け寄ると、わずかに目を開いたその少年は自分がどういう状況になってるかわかっていないまま、俺を見上げて柔らかく笑う。
「零二……? よかった、無事だったんだ……」
……俺と零二を見間違えてる?
「ほんとによかった……俺、嫌な夢見てさ……」
「いや、俺は……」
『俺は零二の兄だ』と言おうとしたとき、少年は安心したような穏やかな表情で再び眠りに落ちる。
だめだ、伝えたいことがあったのに。
俺はその場に立ち尽くし、この事実に目を覆いたくなった。
*
[視点:筆者]
「すみませんっ……! すみませんでした!」
……その数時間後、千尋は床に頭をつけた土下座の姿勢で泣きじゃくりながら頭を下げていた。だから伝えたくなかったのだ、と零二の兄である裕一は思う。
「もういい。もういいから頭をあげてくれないか」
その姿は見ていてあまりに痛々しく心を締め付けられ、裕一も千尋の傍らでその背中を撫でながら言い聞かせるが、千尋は首を横に振るばかりだった。
「俺の、俺のせいで零二は……二度と自由に歩けなくなった! なのに俺はかすり傷だけなんて……こんなのいくら謝ったって許されるはずがない……」
千尋は絶望した表情でガタガタと震えている。その嘆きは裕一に向けてと言うよりは、自分に言い聞かせているようだった。裕一はその様子を見つめて、そっとその手を引く。
「少し落ち着くといい。一旦廊下に出よう」
引かれる手と共に立ち上がる千尋はにじむ視界で一度零二を見るが、目覚める気配がまるでなかった。
*
しばらく裕一と意気消沈した千尋が廊下の長椅子に座っていると突然裕一が足音に反応し、立ち上がって一礼した。
千尋がゆっくりとその方を見ると、裕一に似て高そうなスーツを着こなし威厳のある風格の人物が足早に歩いてくる。そしてその傍らの人物を見て千尋は目を見開き、すぐに立ち上がった。
「東條さん……?」
その力ない呟きを聞き取ったのか、東條は軽く一礼する。それで千尋はこのもう一人の人物が何者なのか気づく。
「あの、零二さんのお父さん……ですか?」
その言葉に深くうなずいた零二の父……聡一 は早急に裕一から零二の容態を聞いた。そうして無言のまま病室に入っていく。千尋は一度立ち上がったものの、脚が震えて長いこと立てずに椅子に座った。
もう何が怖いのか本人もわけがわからないようで、浅い呼吸を繰り返し見開いたままの目は落ち着きがなくなっている。
裕一はその背中に手を置き、「落ち着きなさい」と声をかけるが千尋は両腕を自分を抱きしめるようにして回し、首を横に振った。
「……無理、です」
その姿を見て裕一は千尋の頭に手を置いて数度ぽんぽんと優しくなでる。
「俺たちが怖いか?」
「わかりません……今は何も」
それもそうかと裕一は思うが、他になんと声をかけていいかわからない。
特に意識もせず軽くため息をつくと、それだけで隣の存在はビクッと震えあがった。
……相当、精神がやられているのだろう。
すると零二の状態を見てきた聡一が神妙な面持ちで東條を連れて戻ってきた。
「とりあえず今は目を覚ますのを待つだけだろう。裕一、代わりに病室で様子を見ていてくれ」
「はい、わかりました」
そうして聡一の視線が千尋を捉えた時、千尋は椅子から崩れ落ちるように床に手をつき、何度も「申し訳ありません」と震える口調で土下座をする。
すると聡一はその姿を見て裕一と同様に痛々しいものを見るように表情を歪めた。そして千尋の目の前に軽く膝をつき、千尋の体を起こして抱きしめる。
「……君のそんな姿は見たくないな」
「え……?」
「君のお父さんを知っているんだ」
その言葉の瞬間、義父の顔が浮かんだ千尋は聡一から離れようともがく。
「あんなのは父じゃないです、赤の他人だ!」
「たぶん君が思っている人とは違う。……君は本当に、敬介さんに顔がよく似てるな」
「え、敬介……?」
聡一はゆっくりとうなずいた。そして腕の中でおとなしくなった千尋を再び抱きしめる。
「あんなに優しい人の子どもなんだ、人を殺すのもそうするしかなかったんだろう。そして今回も……何か思うところがあって行動したんじゃないかな」
その優しい言葉に心がほぐれていきそうになったのか、千尋の瞳からあたたかい涙がまた流れる。しかし首を横に小さく振った。
「でも、そのせいで零二さんの脚は……」
その言葉に聡一は深いため息をつく。悩ましげ、と表現してもいいかもしれない。
「……たしかに。一応あれでも私の大切な息子だ。その両脚が上手く動かせなくなったと聞いて、君に微塵も怒りを覚えなかったとは言わない」
「……っ」
千尋は息を詰め、苦し気に瞳を閉じてうつむいた。……罰を受ける者の顔をしている。
「しかし、な……。おそらくここまでずっと逃げてきたのは零二の意志だろう。君はすぐにでも自首しそうな人間だろうからな。そして今回の件が起こった。ならば零二の責任も少しはあるんだろう。そう思うと、君にすべてを押し付けて恨むことはとてもできない」
「違う……、違うんです……」
「『逃げてきたのは零二が自分のためにしてくれたことだ』と言いたいんじゃないか?」
「!」
図星なのが目で見てわかる千尋の様子に、聡一は苦笑した。
「……私の勘はよく当たる。なに、あいつも命までは取られなかったんだ。それだけでもよかった方だ」
そんなに優しく許さないでほしい。でも、許してほしい。
千尋の頭の中ではそんな相反した二つの気持ちがごちゃ混ぜになって、やがて黒になる。
そうだ、この人たちは……
俺たちの第二の殺人を、知らない。
そのとき。
「千尋! 千尋、どこにいる!」
「零二、……よせ! 暴れるな!」
病室の中から零二の叫ぶ声と何か物がガシャンと倒れる音がした。
千尋と聡一は目を見合わせ、すぐさま病室に入る。
するとそこではベッドで暴れる零二と、それを押さえつけている裕一の姿があった。
「父さん、零二が……!」
その様子を見て聡一は声を張り上げる。
「落ち着きなさい」
その声に零二の動きは止まり、父の傍らにいる泣きはらした目をした千尋にすぐさま視線がいった。
「父さん……、千尋……」
千尋が動いている。生きている。そこにいる。
その事実だけで零二は心の底からほっとしたようだ。聡一はその様子を見て千尋の背中に手をあてて、零二の傍に行くようにそっと背を押す。
「あの、零二……」
何を一番に言ったらいいんだろう。そんな疑問が千尋の脳内に浮かんでいたかもしれない。
だが間髪を入れずに零二が千尋の手首を掴み、思いっきり引き寄せて抱きしめた。
「っ!?」
零二は千尋の体を抱きしめる力を一段と強くする。その人間らしい感情を感じさせる零二の姿に兄と父は目を見張った。そして知る。千尋がどれだけ零二の心の支えになっていたのかを。
「良かった……。怪我はしてないか?」
悪夢に苛まれ、精神を病んでいた状態から正気に戻った様子の零二の言葉に、千尋は喜びよりも心の傷をえぐられたかのような苦痛の表情を浮かべる。
「俺はいいんだよ……。それより自分の心配しろよ……」
一時的に収まっていた涙が再び千尋の頬を濡らした。その言葉と表情に、零二も苦渋の表情をする。
「……もう一緒に逃げられないよな」
「っそういう問題じゃねぇだろ!」
千尋の叫びが病室に響いた。その時。
「その必要はもう無い」
病室の入り口からこちらに向かってくる声がした。
そこには……久々に見た、本田の姿がある。
その姿を見た瞬間千尋はヒッと喉を鳴らした。しかし、千尋と零二を守るように裕一がその前に立ちふさがる。
「兄さん……」
零二の呟きに、裕一は一度こちらを見やった。
「俺たちが守ってみせる。安心しろ」
その力強い言葉と姿に、いつの日かの飯塚と甲斐田の姿を千尋は思い出していた。もう出会えない、最高の親友たち。
一方、近づいてくる本田に聡一は動じることなく言い放った。
「お引き取りください」
しかし本田も引かない。
「俺はその子らを捕まえにここに来たんじゃありませんよ」
その言葉に聡一がまた口を開こうとしたとき。
「構いません」
零二の凛とした声が響く。その言葉に本田以外の誰もが目を見開いた。
「すみません、兄さん、父さん。一度病室から出てもらってもいいですか」
「しかし……」
「大丈夫です、お願いします」
裕一は本田と零二の顔を交互に見たが、零二のしっかり自我を保っている瞳を見てうなずく。
「分かった。何かあれば呼んでくれ。……父さん、一度廊下に出ましょう」
「……そうだな」
聡一は本田の横を通るまで険しい表情を崩さなかった。
やがてパタンと扉が閉まり、数秒ほど重い沈黙が流れる。
千尋は恐れからなのか、零二のベッドの反対側へと移動した。
本田の目には動かなくなった零二の両脚が映る。
そして掠れた低い声で一言発した。
「……これで満足か、松澤零二」
「……」
「人殺しと一緒に逃げ回った挙句、この有り様だ。それでも自分の判断の間違いを認めないのか」
「少なくとも俺は後悔していません。むしろ……今までぼんやりしていた頭を一発殴られたようなショックだったので、目が覚めました」
「ふん……」
零二と本田のやりとりに千尋は未だ、何も言えずにいた。
本田は話を続ける。
「数週間前……河川敷でホームレスの男が死んでいた。あれはお前らか?」
「!」
その言葉に千尋がビクッと体を震わせた。
「図星か。動きや顔に出過ぎなんだよ、仙崎千尋」
零二は千尋をかばうように言葉を紡ぐ。
「もしそれが俺たちだったとして、あなたは俺たちを捕まえに来たんですか?」
「違ぇよ。さっきも言ったろ、俺はお前らを捕まえにここに来たんじゃないって」
今まであんなにギラギラとした目で自分たちを追っていたはずの本田の言葉が信じられなかった。
しかし、その姿が以前より弱々しく見えることに違和感を覚える。
本田は自らに嘲笑を浮かべながら話し始めた。
「……お前らを追い始めてから色んなものを失ったよ。仲間からの信頼もなくなって、単独行動が過ぎて職も失った。女房にも逃げられたし、体もダメにした」
最後の一言が気になって千尋はおずおずと口を開く。
「体もダメにした、って……?」
本田は千尋を見つめ返すが、やはり以前の恨みがましい視線ではない。
「癌だよ。もう俺は長くない」
その言葉に二人は目を見開く。零二は癌で亡くなった母を脳裏に浮かばせていた。
「……では、刑事として俺たちを逮捕できなくなったあなたがここに来たのはなぜですか」
「言いたいことがあって来た。――仙崎千尋、お前にな」
予想外の応答に千尋は自分に指をさし、目を見開く。
「俺、ですか……?」
どんな恨み言を言われるかと、その体を強張らせているようだった。
そして千尋の様子を数秒見つめていた本田は苦し気に目をつぶる。
「……悪かった」
「え……?」
千尋は一度、自分の耳を疑った。
「松澤零二に言われて、お前の事件までの日常を調べ直したよ。学校での活発で自由奔放だが人を決して責めない優しい人柄、そしてそれまで隠してきた義父と……曽我からの日常的な性的暴行。父親の死も、母親の状態も」
「……!」
本田の言葉に、千尋は涙がこみあげてきて言葉を詰まらせる。
「……それらを総合的に見て、日頃から曽我に恨みはあっただろうが、かと言って殺すことを計画するような人間じゃない事がわかった。そして事件の前に複数の教師によって行われた凄惨な強姦・輪姦がトラウマになるほどのものであったこと、そしてそれが事件に繋がるほど強いものであったこと。それらから衝動的に殺人を犯してもおかしくはなかった、とな」
千尋は目元をぬぐいながら何度か小さくうなずいた。
零二はその姿を見て、今までの千尋の過ごしてきただろう幸せそうな日常の裏側の、果てしない苦痛を思った。
それはどんなに苦しかったことだろう。男だという尊厳を踏みにじられて同性に犯されてきたこと、そしてそれをひた隠しにして学校では笑っていたこと。それを続けていくうちに生まれた空虚な心。友人に囲まれて幸せに過ごせば過ごすほど、後で地獄に突き落とされたように辛い本当の日常が待っていたこと。
想像の域でしかないが、それを考えただけでも心が痛んだ。自分だったら、死を選んでいたかもしれない。いや、千尋だってそう思っていたかも。俺と同じく『消えたい』と言っていたんだ。きっとそうだ。
「だからもう一度言う。俺の勝手な執着心で追って、悪かった。だが、悪いが刑事としてこの行動は間違っていないと信じているから頭は下げない。もう刑事じゃないが、これだけは我を通させてもらう」
そう言って踵 を返して部屋を出て行こうとする本田を千尋が引き留めた。
「待ってください! その体で……どこに行くんですか?」
すると本田は振り向かないまま答える。
「……お前らを追いかけて、色んな街に行った。その中で見つけた気に入った街で最期を楽しむとするよ。そう思うと、この旅も悪くなかった」
そうしてたった一度だけ、微笑んだ。
***
[視点:松澤零二]
あれから数ヶ月経った。
俺は千尋と一緒に、海と街を見渡せるアパートの三階の一室に定住している。センリとトシマさんからもらった『逃げ場所』だ。
あの日、これから車椅子生活を送ることになる俺の人生に責任を持つと千尋は父に言った。
父と兄はどうしても何かしたいと言ってくれたが、千尋は言葉を選びながら丁重に断っていた姿を俺は忘れない。
俺の脚はというと、数ヶ月の間のリハビリで膝から上はほぼ問題なく動くようになった。しかし膝から下は未だに、かなりゆっくりでないと動かせずにいる。
これでは千尋と買い物に行くことも、警察にホームレスの男の一件について問われた時に傍で守ることもできない。最初はそれがひどく心配で、もどかしかった。
しかし千尋は生活が安定し始めた頃から週に数冊図書館から本を借りて来てくれて、それを読んでいると不思議と心は休まり自然とあの一連の悪夢は見なくなった。心が穏やかになったのは自分でも実感している。
「零二ー、俺仕事行ってくる!」
バタバタと別の部屋から出てきた千尋は鞄を肩にかけながら玄関に向かおうとする。
俺はハッとして声をかけた。視界に入るところに財布が置き忘れたままだ。
「千尋、財布忘れてる」
「あっホントだ! サンキュ!」
そうして家を出る千尋を玄関先で見送ろうとしたとき、千尋が振り返って俺の頬にキスをした。
不意打ちに俺が少し驚くと、千尋はニッと笑う。
「いってきますのチュー。じゃあな!」
「あぁ、いってらっしゃい」
……こういうのって、俺からするもんじゃないのか……?
そんな疑問が浮かんだが、まぁいい。千尋の笑顔はあの学校に居た頃のキラキラとしたものに戻っていて、眩しく輝いていた。
広めな玄関から俺は車椅子を動かして廊下を進む。右側にはトイレと脱衣所、その先に浴室があり、反対に左側には一室、千尋の仕事服などが置かれた部屋がある。ここに俺が入ることはほとんどなく、ほぼ千尋の自室だ。
リビングに入るとすぐ右側には広めのキッチンがあり、目の前の窓際にはキングサイズのベッドが置かれている。これは、どうしても何かしたいと言っていた父と兄から『せめてこれくらいは』と贈られた物だった。
俺たち二人はいつもここで寝ている。千尋はこの生活になってから寝るときは一段と甘えてすり寄ってきた。人懐っこい犬のようだ。
その様子を思い出しては、自然と微笑んでしまう。いや、どうだろう。鏡で見てないから分からないが、もしかしたら俺は今ニヤけているかもしれない。らしくないな。
この脚が上手く動かせなくなってから千尋が世話をしてくれるし、前よりもっと俺ができる範囲のことで甘えてきてくれるから、あながちあの事故が最悪だったとは言い切れない。
だが……。
俺は窓から街を見下ろし、薄くため息をついた。
今日も千尋は夜遅くに帰ってくるのだろうか。バイトを二つ掛け持ちしているらしく、いつも帰ってくるのは夜が更けてからだ。深夜に帰ってくることもある。
……無理をさせてなければいいんだが。
***
[視点:筆者]
「お疲れっしたー」
千尋は自動車整備工場から少し汚くなった恰好で出てきた。隣を三十代ほどの先輩が歩く。空はもう日が暮れていて、夜の紺色が空の一端を染め始めていた。
「高橋ってさー」
「はい?」
「たしか他のバイトも掛け持ちしてんだっけ」
「あー、はい。まぁ」
「大変じゃねーの? 毎日そんなに働いてさ。金に困ってんのか?」
「んー、きっと自分一人の毎日の生活だけなら足りてますよ。ただ、まぁその……一緒に住んでる大切にしてるヤツがいて」
「なんだ彼女か。ってことは結婚資金ってとこか? 言っとくけど俺はお前を気に入ってても結婚式のスピーチとか面倒なもんはやらねーからな」
千尋は『結婚』という言葉に噴き出した。
「ちょっ、何言ってんすか、山崎さん! 結婚とか話の展開早すぎ!」
「なんだ、違ぇの? じゃあ婚約指輪ってとこか?」
「……まぁ違うけど、そんな感じです」
嬉しそうに頬を染めてうつむく千尋を見た山崎という先輩はフッと笑う。
「本当に大事なヤツなんだな」
工場からなだらかな坂を下りた二人は別々の方を向く。
「それじゃ、ここで。高橋もバイト頑張れよー」
「はい、お疲れっした!」
……つれない目で、話す声も単調。いつも無関心そうな顔をしているけど、優しい先輩。
『高橋』という偽名を使っている千尋はしばらく歩いてからため息をついた。
心を許している人でも本当の名前を名乗れないのは辛い。本当の名前が『自分』を表すのであれば、偽名を使えば使うほど、自分ではなくなっていく気がした。
千尋は財布から免許証を取り出す。
自分の写真が貼られているが、名前は『高橋』。なんだか辛すぎて笑ってしまった。
……もう捨てるべきなのかもしれない。日頃から性的暴行を受けていた自分。学校で笑っていた自分。教師に犯されることに恐怖して殺してしまった自分。そのすべてを。
*
「君ねー、こっちは本当に困ってんだよ!」
「すいません! 本当にすみませんでした!」
客の目に触れない暗い路地で千尋は必死に働き先の店の店長に頭を下げていた。
「こんなにミスして、お客さんも待たせて……最近ずっとクレームが止まないんだよ!」
「すみません、今度は気をつけますから……!」
その言葉に店長はさらに怒声をあげる。
「もう何度もその言葉は聞いたよ! なのに全然成長しないのはなんでだ? 簡単な計算もできなけりゃ要領もよくないし体力もない。そりゃあ履歴書通り、色んな店から追い出されても仕方ないよなぁ! わかってるのか!」
「すみません、でもせめてクビだけは……!」
「はぁ!? 君なに言ってるかわかってんの? ここまで他の従業員や店に迷惑かけてまだ居座る気か!」
「足を引っ張ってるのはわかってます! でもこれ以上クビにされたら行くところがなくて……。掃除や雑務とかなんでもします、なのでクビだけはやめてくれませんか!」
その言葉を聞いた店長はニヤリと笑った。
「なんでも、ねぇ……」
その言葉を聞いた瞬間、千尋は「しまった」という顔をする。
冷や汗が頬を伝っていった。
「そういやこの前さぁ……見ちゃったんだよね」
「な、何をですか……?」
「ホモ向けの風俗店から君が出てきたところ。君もしかしてホモなの?」
「っ!」
千尋は体が固まったようになり、動けなくなった。
「僕は普段そういう人間じゃないんだけどねぇ……。君を見てたらちょっと興味が湧いたんだ。――今日の閉店時間まで待っていなさい、クビになりたくなければな。やることは分かるね?」
「は、はい……」
消え入りそうな千尋の声。そうして店に戻っていく店長がいなくなってから震える手で携帯を取り出す。
『あーもしもし、光くん? どうしたの』
「……すみません、今日ちょっと体調悪くて出られそうになくて……」
『えぇ!? 君ほんと体調の自己管理くらいしっかりやってよね。一応ウチのナンバーワンなんだから。いつも無茶しすぎるからこうなるんだよ、ほんと大丈夫?』
「はい、本当にすみません……」
『わかったよ、その代わり次出てきたときは忙しいと思うから覚悟しておいでよ』
「はい……」
千尋は電話を切り、力なく地面にうずくまった。
*
[視点:松澤零二]
突然、めずらしく自分の携帯の着信音が鳴った。千尋だ。
「もしもし? どうした?」
『零二、ごめん! 家に帰るの、朝になるかも』
「朝?」
……バイト先で何かあったのか? でも朝までかかるなんて何かおかしい気がする。
「千尋、それって……」
『あ! 言っとくけど浮気とか不倫じゃないからな!? 店のトラブルだよ』
「本当に?」
『……っあ、零二何か欲しいものある? 帰りに店開いてれば買って帰るよ。あぁあと夜ご飯は悪いんだけどカップ麺とかにして。あ、お湯注ぐとき気を付けるんだぞ! 車椅子だと目の位置とか勝手が違うからな』
……明らかにはぐらかされてる。今の無言の間で確信した。
「欲しいものはない。仮にあるとしたら……千尋、お前が欲しい。できるだけ早く帰ってきてくれ」
『……っ』
千尋の声を詰まらせる音がした。確実に良くないことが起きている。いったい何があった? どんな言葉を千尋にかければいい?
すると、電話口から千尋が泣きそうな声で言った。
『零二、お願いだから俺が帰るときは寝ててね』
「千尋?」
――プツッ
電話は一方的に切られた。俺は行き場のない怒りを覚えて自分の膝のあたりに拳を振り落とす。
一瞬トシマさんとセンリの顔が浮かんだ。でもこんな時間にすぐ駆け付けられるわけがないし、第一迷惑がかかるだろう。以前この家にベッドを運ぶ時に二人に連絡したら、俺の脚を見て言葉を失っていたのを思い出す。あんな二人の顔はもう見たくない。……苦い思い出だ。自分でなんとかするしかない。
なのに、なんで肝心な時にこの脚は動かない。
今すぐにでも千尋のもとに駆け付けて抱きしめたいのに。
あぁ、腹立たしい。
……なんだか千尋が自分の手の届かないところに行ってしまう気がした。
***
[視点:筆者]
「うわ……なにこの体、すごいね」
……深夜。
千尋はバイト先の店長の家へ連れて来られ、服をすべて脱いだ状態でベッドに座らされていた。
男は触れるか触れないかの程度で肌を撫でるため、千尋の体は嫌でも敏感になってしまう。
途端、少し太ももに触れられただけで千尋はビクッと大きく反応してしまった。
男はニヤリと笑う。
「悪くない」
そこからは、ひたすら辛い時間が流れた。
増えていくキスの跡、噛み跡。体中をまさぐられる最愛でない手の感触。
正常位で激しく突き上げられるとき、今まで虚勢を張っていた心が砕けた。涙が顔を伝ってシーツを濡らす。
千尋は涙ながらに呟いた。
「零二……」
「は?」
男は明らかに不服そうな顔をする。
「大丈夫……零二のために抱かれてるなら怖くない。怖くない……」
それはまるで自分に言い聞かせている小さなおまじないのようだった。しかし。
――パンッ!
「っ!」
千尋の頬がぶたれる。男は目に見えて怒った様子だった。
「誰だか知らないけどさ、君ほんと自分の立場わかってる? クビにされたくないんだよねぇ? じゃあとことん奉仕しなよ。ほら!」
――パンッ!
再び、今度は反対の頬に手のひらが飛んだ。千尋の心を恐怖が埋め尽くす。
「ごめんなさいっ……もうしませんからっ」
「もっと謝れ! 懇願しろ! ははははは!」
「お願いだから顔は! 顔は叩かないで……っ」
その願いを聞き入れてもらえないまま喜々として再び律動が再開される。そして首筋に吸い付かれ、わかりやすい場所に鬱血の跡を残された。千尋はハッとするが今さら抗えないし、暴力を与えられるのも怖くて言えない。
どうしよう。このままじゃ零二に嘘つけない。隠し通せない。
こんな体で、浮気したとか裏切られたと思われたらどうしよう。
それに店にも顔、出せなくなる。
……あぁ、また叩かれた。
なんで俺、幸せなまま生きていけないんだろう。
瞼の裏に零二が見えた。優しい微笑みを見せている。いや、これは俺の願望だ。
きっとこの身体を見たらショックを受けたような顔をする。
嫌悪感で溢れた顔をされたらどうしよう。
そうしたら俺は、俺が、生きていけない。
規則的に揺れる視界の中、千尋は男に気づかれないように小さく呟いた。
「もう少しで……帰るから、ね……?」
お願いだから。
俺を、嫌わないで……――
***
[視点:松澤零二]
早朝の四時を過ぎたあたりで鍵を開ける音がして、俺は目が覚めた。帰りを待っている間に車椅子に座ったまま寝てしまったらしい。
「千尋……?」
――ドサッ
嫌な予感がして玄関の方を見ると、千尋が玄関に倒れこんでいた。
「千尋!?」
すると千尋は乱れた髪のまま頭 を振る。
「……ねが……来な……で……」
消え入りそうな声を残し、体をなんとか引きずって自分の部屋に入ってしまった。
俺は急いで近くまで車椅子を動かし、ドアを開けようとするが鍵がかかっている。
「千尋、何があった! 千尋!」
出来ることはそう叫んでドアを叩くのみ。途中で車椅子に座っているのもままならないと感じて、車椅子から崩れ落ちるように降りて脚をひきずりながらドアによりかかり、再びドアを開けようと何度もドアノブを動かし名前を呼んだ。
すると、扉の向こうで千尋が泣いてるような嗚咽が聞こえる。
千尋……泣いてるのか?
壁一枚向こうの、最愛の人間が泣いていても寄り添うことができない。
そんな自分に絶望するしかなかった。
俺はドアにもたれかかり、空虚な目で朝を迎えた。
*
……どれくらい経ったか分からない。
いつの間にか寝ていたらしく、ぐら……っと自分の体が傾いたことで目が覚めた。
最初はどういう状況か頭がついていけなかったが、ドアの前でもたれかかっていたのを思い出してようやくピンとくる。千尋がドアを開けたから自分の体が傾いたのだ。
そうだ、千尋は。
ハッとしてドアのすぐ傍に座り込んでいた千尋を振り返ると、ぺたんと床に弱々しく座ってうつむいていた。髪はぐしゃぐしゃになっていて目は泣き腫らし、なぜか両頬が赤く見える。そして……首筋に、鬱血の跡。
……まさか。
俺は抜け殻のようになってしまった千尋をすぐに抱きしめ、ゆっくりと千尋の腰のあたりから服をめくりあげた。
やはり、あちこちに鬱血の跡がある。
俺はできるだけ優しく聞こえるよう「脱がすぞ」と言うと、千尋は最初ギュッと自分の服を掴んで抵抗したがすぐにその手の力は無くなり、脱力したように頭を俺の肩にあてて体を委ねた。
そしてすべて脱がして朝日のもとに照らされた千尋の裸を見て絶句する。
「……!」
あまりに多い、まるで執着を体現したかのように鬱血の跡が体中に点在している。中には噛みついた跡も見られた。ぶたれたのか、頬と尻が赤くなっている。どんな抱かれ方をしたのか想像すらしたくなかった。
「うぅっ……く……」
千尋はそれまで人形のように生気の無い顔をしていたが、朝日の光を浴びて感情を取り戻したかのように泣き出した。
「零二……ごめっ……俺、早く帰れなかった……。それにこんな体……」
俺はボロボロになった千尋の体を掻き抱く。本音を言えば千尋をこんな目に遭わせたヤツを殺す勢いで殴りたかったし、千尋をもう二度と外の世界に出したくはなかった。
「早く帰れなかったのはもういい。それよりも、誰にやられた?」
「……」
押し黙る千尋にもどかしい気持ちが膨れ上がっていく。俺は千尋の両肩を掴んで、まっすぐにその瞳を見つめた。少しでも、俺の心が伝わるように。
「教えてくれ」
すると、千尋は迷っている素振りを見せたが数秒後ぽつりとつぶやいた。
「……バイト先の、店長」
その言葉を聞いた瞬間、すぐに俺は千尋が玄関に倒れこんだときに廊下に落ちた携帯を拾ってその店長に電話をかけようとする。許さない、絶対に。
しかし、その素早さに驚いた千尋はすぐに俺の手を掴んで携帯を奪い返し、頭を横に振った。
「待って、零二! 悪いのは俺なんだ、頭悪くて計算できないし、みんなの足を引っ張ってばかりだったから……!」
「千尋、よく考えろ。いくら仕事の出来が悪いからって、そいつをレイプする店長がどこにいる? 頭おかしいだろ!」
「それは、そうだけど……」
千尋は何か言いたそうにしたが、キュッと口を結ぶ。
「千尋。そのバイト、もう辞めろ」
「駄目だ、ここもクビになったらまた職場を探さなくちゃならない!」
「……それを理由に抱かれたのか。それなら働かなくていい、他に方法を考えよう」
「そんなことできない! 辞めたら今の暮らしができなくなる!」
「じゃあ聞くけど」
俺は冷たく言葉を言い放った。
「お前はこれからも、仕事でミスをするたび抱かれるのか?」
「――っ!」
千尋はその言葉に目を見開き、そのままうつむく。さすがに、意地の悪い質問だっただろうか。
そして千尋はそのバイト先を辞めることを決めたのか、携帯の電話帳から『バイト先 店長』と書かれた項目を選んだ。少し手が震えている。怖いのだろう。
俺はその手を上から握りしめた。
「お前から直接辞めることを言うのは怖いだろ? 俺が代わりに電話する。その間にシャワーでも浴びてくるといい」
千尋はその言葉に気持ちが揺らいだのか、一度俺に携帯を差し出そうとしたが、ハッとしてその手を引っ込める。
「やっぱり、いい。俺から電話で話す。怖いけど……お前の人生に今度は俺が責任とるって決めたんだ。自分でケリつけるよ」
「……!」
千尋はどんどん俺の手を離れて自立していく。それが怖くて、不安で、たまに気が狂いそうになる。
「千尋」
俺はそう言って千尋を壁に追い込んで口づける。出来るならばこの家に閉じ込めて、俺だけを見ていてほしい。
「ん……」
千尋は壁と俺に挟まれる形で逃げられない状態の中キスを受けているが、嫌そうな顔はしていなかった。むしろ、俺を求めているような仕草と表情。
「続きは、俺がシャワー入ってからにしよ……?」
「……あぁ」
そう言って俺が体を離すと千尋は携帯を少し触ってから脱衣所に入っていった。
*
[視点:筆者]
シャワーを浴びながら千尋は茫然と断片的な記憶を手繰りよせて、どれが間違いでどれが正しかったのか、ひとつひとつ考えていた。
スマホは、あれでよかったはず。
店長にヤられたことを零二に言ったのは、正しい……?
風俗で働いていることを言わなかったのは、正しかったはず。
ってか……
「んなこと、言えるわけねぇじゃん……」
千尋は泣きそうな声でそうつぶやいた。
嘘をつくのは難しかった。
嘘をつかないことは良いことだと、昔から思っていたせいだろうか。
いや、違う。学校に通ってるときだって嘘で隠し通してきたことがある。
きっと、大好きな人に……零二に嘘をつくのが怖いんだ。
零二は頭がいいし、回転が速くて俺の嘘の粗 なんて簡単に気づけてしまう。
……千尋は苦し気に息を吐き、シャワーを止めて鏡の中の自分を見つめた。
それでも俺は――嘘をつき続ける、目的がある。嘘をつかなきゃならないんだ。
風俗の仕事を始めた頃、自分から客の機嫌をとって抱かれることは吐き気がするほど嫌だった。結局、初めての客の前では泣いてしまった。
でも家に帰れば零二がいるから。たくさんたくさん甘やかしてくれるから、なんとかここまでやってこれた。
数を重ねるほどに客に抱かれることに慣れていく自分が嫌だったが、それはしょうがない。
……すべては、零二のために。
*
「零二……」
ぺたぺたと足音を立てながら裸にバスタオルを羽織って千尋が戻ってくる。
すると零二も体を洗いたいと言ってきたので、結局二人で風呂に入った。
センリとトシマからもらった『逃げ場所』の浴槽はかなり広めで、二人で入るのは余裕があった。
千尋は悪い記憶を上書きするかのように、今すぐにでもと騎乗位の姿勢で零二と体を繋げ、お湯をちゃぽんちゃぽんと音を立てながら上下に腰を振る。
零二はその表情や姿を何度見ても飽きずに見惚れていた。
お湯のせいか欲情のせいか、上気したような色気のある表情。前かがみの姿勢で胸をそらせた時の背中から腰のライン、強調された綺麗な色の胸の尖り。
「あっ……」
零二が千尋の背中のラインを指でたどって腰を撫でると、その体はビクリと反応して悩まし気な表情を見せながら倒れこんだ。
首元で千尋の熱い「はぁ……はぁ……」という息がかかり、零二の熱が高まっていく。
零二はこのままだと二人してのぼせると思い、名残り惜しいがそれほど戯れることなく千尋の熱を握った。
「ひゃっ」
千尋がぎゅっと抱き着く。その仕草が可愛かった。そうして零二はいい気分のまま千尋の熱をしごき始める。
すると千尋は必死にいやいやと首を横に振った。
「やだ、やだ。零二も一緒がいい」
そうして零二の熱を握ろうとするが、その前に千尋の手が取られて二人の熱をいっぺんに握らされた。手の上から零二が握ってくるため、千尋の手は逃げられなくなる。そうして二人の手は緩やかな速度で上下に動かされ、熱がさらに高まっていった。
「え、あ、や……」
千尋の戸惑う声。手から感じ取れる二人の熱の表面と自身に感じる快感に翻弄されてまともな言葉が出せなくなっていた。その様子を見て、ますます零二は欲情に駆られる。手の動きを一層速めると、
「んっ、んんっ……!」
千尋はカァッと顔を赤くしていやらしく悶えた。零二は耳元に顔を寄せ、「声、出して」と言うと喘ぎ声が生まれる。
そうして二人、絶頂を向かえた時は零二の読み通り、軽くのぼせたのだった。
*
「あー、もうくたくたぁ……」
そう言って二人ベッドに入ると、その一言を残して千尋はすぅ……と眠りに入ってしまう。
相当疲れて帰ってきたのだ、当たり前だろう。
そう思い、零二は千尋の頭を優しくなでた。
すると千尋はほっと安心したような、嬉しそうな寝顔を見せる。あぁ、こういうところも何もかもが可愛い。こうして底の見えない闇か、または天井の無い光に溺れていく。
ふと、千尋の携帯に目が行った。そういえば、辞めるということをバイトの店長に言ってはいないはずだ。その店長には腹が立つ。いや、『腹が立つ』なんて言葉じゃ足りない。はらわたが煮えくり返るとはこういうことを言うんだろう。が、しかし早くに辞めることを連絡しないで店は大丈夫だろうか。
ちょうど目についた千尋の胸元にある鬱血の跡を見て「やっぱり気が収まらない」とギリッと歯を噛み締めた零二は恨み言のひとつやふたつを言ってやろうと千尋の携帯をそっと取るが、先ほど自分が手にしたときにはなかったロック機能が働いていた。
「……!」
数字を、四桁。
千尋の誕生日……違う。俺の誕生日でもない。じゃあなんだ?
頭に思いつくものをかたっぱしから入れるが、どれも違う。
俺は千尋を見つめた。
人の携帯の中身を見ようとする俺が悪いのかもしれないけれど。
まるで、俺の知らない千尋の顔がまたひとつできた気がして、不安ともどかしさが戻ってくる。
***
千尋の体を見た風俗店のオーナーやスタッフは困った表情を浮かべた。
「今までより長く働いてくれるって申し出は嬉しいし歓迎するけど、この体はしばらくお客さんには出せないね……」
「でもレイプされたんだから仕方がないか……。光くん、レイプされたのは酷く辛いと思うけど、お客さんに抱かれるのはメンタル的に大丈夫かい?」
千尋はスタッフ達の優しい気遣いに心を震わせながらうなずく。
「はい、それは大丈夫だと思います。今回のことは本当にすみません……。せっかく俺の体に跡をつけないように図らってくれてたのに」
「それはほら、君は店のナンバーワンだし。それに跡のついてない体のほうが綺麗で客からの評判も良かったからね」
千尋は零二に言われた通りに前のバイト先を辞めて、「別のバイト先が見つかった」と嘘をついて以前から働いていた風俗店に長く勤務することになった。
この店はボーイを大切にしてくれる良心的な店で、千尋が「体に跡をつけたくない」という本番行為ありの店にとっての無理難題を提示しても最初は渋々ではあったが受け入れてくれた。
ちなみに風俗店で働いた後は体や髪を綺麗に洗い、わざとゲーセンなどをふらついてシャンプーの匂いを落としてから零二の待つ家に帰る日々を過ごしている。
「どうします? オーナー……」
「そうだなぁ……店にとっては痛手だけど、光くんにはしばらく体の跡が消えるまで店内の掃除とかをお願いしようかな」
千尋はうつむきながら返事をしようとしたその時。
「オーナー! 光くんに指名が来ました!」
タイミングが良いのか悪いのか、店の受付をしているスタッフが部屋に入ってきた。
オーナーは浮かない顔をしながら首を横に振る。
「申し訳ないけど、帰ってもらうか他のボーイにしてもらうようお願いして。光くんの体、今こんな状態だから」
「そうですか……わかりました、伝えてきます」
千尋もオーナー共に浮かない顔をした。
「お客さんにも申し訳ないですよね……。オーナー、俺、復帰したら頑張って働きます。お客さんにも満足して帰ってもらえるように努力します」
「うん、無理はしない程度に頑張りなさい」
すると再び。
「オーナー!」
さっきの店番が部屋に入ってきた。さすがのオーナーもわずらわしそうな顔をする。
「なんだい、まだ何かあるのか」
「実は先ほどの客が『どうしても』と言って、光くんを出してくれたら五万円を料金に上乗せすると言っていて……」
その言葉を聞くとオーナーはゆっくりと座り心地の良さそうな椅子から腰をあげた。
「どうやら君のお客は、君にゾッコンらしい。見事に客の心を掴んでいるな」
そうして店の受付を覗きに行く。
オーナーが部屋に戻ってくるのは数分もかからなかった。
「藍沢さんだ。君にとって害のない常連客だと思うけど、どうする?」
「藍沢さん……! その指名、受けます!」
オーナーはその返答を聞いて微笑みながらうなずく。
「頑張ってきなさい」
*
藍沢ハルキという男がいた。この店で千尋を指名する常連客で、見たところ二十代後半か三十代前半。一風変わった所があるが千尋は彼を信頼している。
というのも、彼は千尋を抱いたことが一度もない。料金が高い長時間コースを指定しても、なぜかいつも楽しそうに話をするだけで帰っていく。
千尋曰く、外見は色男。女性受けしそうな顔と体型だった。千尋は未だに、この人はゲイなのか不思議に思う。
「藍沢さん!」
ロビーのソファで待つ藍沢に駆け寄って声をかけると、「よぉ」といつも通り大人の余裕が溢れんばかりの色気を醸し出しながら挨拶を返してきた。
この店のナンバーワンになった千尋には固定客が多い。今日断った客に店内で姿を見られては困ることを藍沢も察したのか、
「今日は何番の部屋? 早めに行こうか」
と言って、千尋の肩を抱き寄せて歩き始める。
*
「今日は一度断ってしまってごめんなさい。でも藍沢さん、五万円上乗せなんてビックリしたよ!」
藍沢は室内のSMプレイで使うであろう少し豪華な深い赤の椅子に脚を組んで座る。様になるなぁと改めて藍沢のルックスに感心しながら千尋は椅子の近くにあるベッドに腰かけた。
藍沢は千尋の言葉を聞いてニヤリと笑う。
「別に驚かなくてもいいだろ? 俺、金持ちだから」
そう言いながら札束をぺらぺらとめくる素振りを見せた。
「藍沢さんの良い所って素直な所だと思うけど、それで誰かに刺されても自業自得だと思う」
人の機嫌を取るような言葉を使わない千尋の言葉に、藍沢は無邪気に笑う。
「そりゃ、違いねぇな」
「もうちょっと危機感持ったらどうすか……」
「そんなことよりさ」
藍沢の手が千尋の首元にある鬱血の跡に伸びた。
「今回客を断ってる理由って、これ?」
「あぁ……はい、まぁ」
「この程度でも店に出ないのか」
「全身についちゃってて……」
「客?」
「いや、違います。お客さんじゃない人に、その……襲われちゃって」
その言葉を聞いて、藍沢の眉間のしわが寄った。
「……変なこと聞いたな。辛かったろ、すまない」
暗い表情で謝られて千尋はおどおどとする。
「藍沢さんが謝ることじゃないですよ! それよりも何か別の話しませんか? いつもみたいに、バカ話とか!」
千尋の表情を見てなのか、藍沢は安心したような顔を見せた。
「じゃあ……そうだな、俺いつも思ってたことがあってさ。……光くん、好きなやついるだろ。大切にしてるやつ」
「!」
意表を突かれた千尋は笑ってごまかそうとする。
「いやいや、その……お客さんこそが大切な人っていうか……」
すると藍沢は心の底から楽しそうに笑った。
「光くん嘘へた過ぎ! 俺には言っていいよ、今までも誰かにバラしたこととかないだろ? 俺、口は堅いから」
「それはまぁ、そうですけど」
千尋は心の中で本を読む零二の姿を思い浮かべる。
開け放たれた窓からサラサラと春の風が入り込んで零二の髪と本の紙を揺らすだろう。その横顔は端正で千尋の大好きな表情。いや、零二のどんな顔も好きだ。存在自体が好き。愛してる。
――カシャッ
「!?」
突然のシャッター音に驚いて千尋は目を丸くする。
藍沢はいつの間にか一眼レフを取り出していて、今撮った千尋の写真を確認しては満足げに眺めた。
「……いい顔してる」
その言葉に恥ずかしさでカァァァと頬を赤らめた千尋は少しむくれる。
「ちょっとー、店内撮影禁止なんですけどー」
「じゃあもう一万積もうか?」
千尋はその言葉にぎょっとした。
「……待った! そっちのが心臓に悪いですって! つーか、世の中なんでも金積めば好きにできると思ったら大間違いっすよ! もっとお金大事にしてください!」
千尋はすごく真っ当な意見を言う。それもそのはず、零二と警察から逃げていたあの逃亡の日々が教えてくれたことだ。
藍沢は圧倒されたように目をぱちくりとさせた。
「お、おう……。なんかすごく説得力あるな」
「当たり前でしょ、正論なんだから」
「でも、面白いな。金を積めばほぼなんでも出来るようなこういう店で、お金を大事にしろって言うボーイ。俺、光くんのそういう所気に入ってるんだよね」
「はいはい、そりゃどーも」
「ホントだぞ? まぁ写真は許してくれよ。今の写真を全国にばらまくようなことはしないからさ。でも光くんの好きな人かぁ……興味があるな。その大切な人のこと、大事にしろよ?」
藍沢の言葉に千尋は照れたように微笑んだ。
「はい」
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