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第5章 4-罪と罰

  [視点:松澤零二]  暗いどこかの廊下を男が走る。俺は男を無心で、顔の表情をひとつも変えずに追っていく。  やがて男は廊下の先にあるひとつの部屋に入った。迷わず俺もその部屋に入る。  なんだかひとつ、違和感があった。……いや、右手に感じる重量感のせいだろうか。  部屋の奥で行き場のない男の姿がある。  ……大丈夫だ、かわされてもまだ手はある。  そう思うと、心の隅で「やめろ!」と叫ぶ意志とは裏腹に口角を上げる自分がいた。まるで戦略ゲームでもしているかのような思考。自分はサイコパスにでもなってしまったんだろうか。  男はこちらを振り返り、恐怖の表情で腰が抜けた。それを見逃さず俺は一瞬で間合いを詰め、重量のある灰皿を男の頭部へと思いっきり叩きつける。  大丈夫だ。これで千尋を助けられる。  ……そう思ったのに。  床にひれ伏した男の顔が突然ついた部屋のオレンジの明かりに照らされると、あの男ではなく血を流す父の顔があった。 「え……?」  どうして父さんがここに?  ハッとして辺りを見回すと、そこは父の書斎だった。  あの時感じた違和感は手に持っている灰皿じゃない。部屋に入ったときに嗅いだ古い書物の独特なにおいだ。 「……零二」  突然背後から声がした。 「母さん……?」  そこには悲し気な顔をする母の姿がある。そしてその隣に兄が並んだ。眼鏡の位置を直す仕草が懐かしかった。 「……零二。お前は何をしたかわかってるのか」 「俺は……千尋を守ろうと……」 『千尋を守ろうとしただけです』と言おうとしたその時、凛とした声が響く。 「俺はそんなこと望んでない」  ……千尋だった。思わず声を無くす。すると自分の足元から笑い声がする。  いつの間にかそこには父ではなく、おびただしい血で顔を染めてニヤリと笑うあのホームレスの男がいた。 「残念だったなぁ。お前がしたことは全部無駄だったんだよ」  俺は男の形相に体が勝手に震え、その場に座り込んだ。 「あぁ、『無駄』なんて言葉じゃ済まされないか。むしろ周りの人間を不幸にしたんだ。わかるよな?」  その両目は男が最期に俺を見た目と同じで、口だけが愉快に笑っている。ひどく奇怪で、気味が悪い。 「大丈夫、俺は許すよ」  そっと後ろから抱きしめられる。頬にあたる髪の柔らかさ、それにこの匂い、俺だけが知るこの体温。千尋だ。安心して息を吐く。しかし。 「大丈夫。俺が零二を守るから」  なんだか嫌な予感がして振り返ると、そこには警察に連行される千尋の姿があった。 「千尋!」  思わず叫ぶと千尋はこちらを振り向き、手錠のついた手を振る。その手は血で染められていた。  千尋が歩く先には十三段の階段がある。  ……やめろ。そんな、なぜ。  千尋も俺も未成年だ、しかも一方的に俺たちが悪いんじゃない。悪いのは周りの大人だ。証拠だってある。  なのにどうして、こんなことに。  千尋が階段を上り始める。  俺が急いで立ち上がろうとすると、体が縛り付けられて阻まれた。  なんだと思い視線を自分の体に向ければゾッとした。  ……手だ。無数の血にまみれた手が俺の体を掴んでいる。恐ろしくて背後を見る気にならなかった。いや、そんなことよりも千尋が。 「行くな、千尋!」  叫んでも、千尋は階段をゆっくり上り続ける。 「やめろ!」  もう声さえ届かなかった。  そして……。  * 「零二っ!」  千尋に揺すぶられて目が覚める。俺は目を見開き、尋常じゃない汗を流しながら荒い呼吸を繰り返した。頭が『今』についていけない。  さっきのは夢? これが、現実?  今は何時だ? ここはどこだ?  あぁ、確か俺たちはあれから隣町まで歩いたんだ。そして以前のように公園で寝泊まりして、きっとまだ夜は明けてない。  そう、さっきのは夢。夢だけど……罪を犯したことに変わりはない。  俺はそこまで記憶が戻ってくると大きくため息をついて、片手を目元にあてた。  ……罪を犯すと、人はこんなにも変わるのか。  自分の現実に恐れる(さま)があまりに惨めで嘲笑さえ浮かぶ。しかも夢にまで恐怖心を煽られるんだから相当だ。  千尋が俺の家に泊まった日の夜、恐ろしい悪夢を見て叫んだ姿を思い出した。  そうなるのも無理はないとあの時は思っていたが、あの時の自分はそれがどんなに恐ろしいことだったのか本当の意味で分かってなかったのだと自分を心の中で叱咤する。 「零二」  千尋の声がして、心地いい冷たいタオルで首元を拭いてもらう。その手つきが、ひどく優しかった。 「大丈夫か? ……ずっとうなされてた。怖かったよな」  俺のことだというのに、まるで自分のことのように悲しい顔をしてうつむく千尋を見て、反射的にその唇を奪っていた。しかし、汗がひどい自分の状態を思い出してすぐ離す。 「……悪い」 「ん……あぁ、いや。別にいいって。とりあえず汗拭いてさ、上の服だけでも着替えよ?」 「あぁ」  俺はうなずいて着替えるが、あの悪夢の余韻が引いてくれない。ふと、傍らのケータイに目がいって手を伸ばす。  そしてすぐさま検索をかけた。そのワードは、『夢診断 死刑』  自分の手のひらが汗で湿っているのを感じる。答えは息をつく暇もなく出た。そこに出た回答は。 『気がかりと心配』 『罪悪感』 『清算と好転』  最後のワードでほっと溜息をつくと同時に我に返り、こんなものに頼ってしまうほど脆くなった自分にほとほと呆れた。  弱い。今の自分は、あまりにも。  ***  ……晴天の空の下、草原の真ん中に大きなベッドがあった。  俺と千尋はそこに寝ころんでいて、千尋が俺に抱き着いて笑う。 「零二、好き。俺しあわせだよ」  そうして唇をかわす。幸せだ。もう離したくない。  ***  暗い路地を怒りに震えた千尋が歩いていく。  俺の言葉は届きやしない。  そして振り返った千尋は言う。 「なんであんなことしたんだよ。余計追われることになっただろ!」  ……目の前が真っ暗になった。  *** 「れーいじ」  甘い声で呼ばれる。そこは何もない真っ白な空間だった。  千尋は白いワイシャツとデニムを履いている。  そして俺を抱きしめた。 「こういうの口で言うの照れるけど……愛してる。すっげぇ好き」 『俺もだ』と、返そうとしたその瞬間体が離れる。  千尋は綺麗に笑った。 「だから、さよなら」  そう言って、突然現れた黒い扉の向こうへ向かう。  *  ハッとして飛び起きる。すると傍で俺の様子を見ていたらしい千尋がギョッとした。 「大丈夫か……? 俺、飲み物でも買って……」  だめだ、そっちには黒い扉が。 「行くな!」  離れていきそうになるその手を力強く握って引き留めてから、ぷつりと糸が切れたように我に返る。  また夢……、か。  その事実と、俺は強くあれない自分に落胆して掴んでいた手をそっと離した。  そして顔を見られたくなくて目元を手で覆いながら掠れた声で言う。 「……千尋」 「ん……?」 「少しだけ、傍にいてくれ」  そうして千尋を抱きしめた。その体温がこんなにも心強く感じるなんて、過去の俺は思いもしなかっただろう。  千尋が曽我を殺して俺の家で悪夢を見たときも、俺の体温をこう感じたのだろうか。  * [視点:仙崎千尋]  抱きしめてくる零二は、まるで俺にすがっているようだった。  俺は汗ばんだその頭を優しくなでる。  そこに最初に生まれたのは甘美な幸福感だった。  今まで零二ばかりに助けられていたけれど、今度は俺が手を差し伸べられる。  こうしてすがる零二の支えにだってなれる。もう一方的な関係ではない。ようやく本当の意味で対等な関係になれる。  けれど。  零二が苦しんでいる姿を見ているうちに、こんなに零二を追い込ませて弱らせてしまったのは自分だという事実にいつも胸が貫かれる。 『本当の意味で対等な関係』?  ……違う。  俺が零二を『対等』へ引きずりおろしたんだ。  *** [視点:松澤零二]  千尋とトシマさんがどこかのカフェで楽しそうに話してる。  俺が近くへ行こうとすると、それに気づいた千尋は顔を赤らめた。 「やめとけ」  いつの間にか横にいたセンリが俺の腕を引く。 「なんでだ?」  そう聞くとセンリはわざとらしく盛大にため息をついた。 「あの仙崎の顔見てわかんないの? あんたの話に決まってんじゃん。……惚気だよ」  どんな話をしているのだろう。わざと近づいて、照れてる顔が見たかった。  * [視点:仙崎千尋]  久々にホテルで眠れることになった。  昨日いた町から隣町のここに移動する最中は、見えない警察の影に怯えながら歩いたせいでもうくたくただ。  今日の零二は穏やかな寝顔をしてる。良い夢でも見てるのかな。  いつもごめんな、零二。ゆっくり休んでね。  *** [視点:松澤零二]  千尋と一緒に街角のベンチに座っているとき、誰かが置いていった新聞を拾う。  そこにとある記事を見つけた途端、脳の芯がキンと凍った。 『教師を殺害した少年、逮捕』  ハッとして隣を見れば、あの笑顔はどこにもいない。  俺だけが、一人だった。  * [視点:仙崎千尋]  零二が何かをつぶやきながらこの数分間ずっとうなされていた。 「零二、零二……!」  いくら揺さぶっても起きてくれない。  悪夢の中から、救い出せない。  いつの間にかどうにもできない自分が許せなくて泣いていた。  ……零二、ごめん。  俺が手を放せなかったばかりに。  本当にごめん。ごめんなさい。  零二に罪を負わせたことで俺もまた新たな罪を犯したことに気づくのが遅かった。  でも、どうして?  どうして俺だったんですか。どうして俺たちだったんですか。  神様は、ひどい。  *** [視点:松澤零二]  千尋が木の板のようなものに鎖で縛りつけられていた。  そこはどこかの埠頭。見たこともない場所で、俺たちは野次馬に囲まれている。  その中で泣いてる数人を見つけた。最初は誰だか分からなかったが、傍に本田が立っていることで気づく。……おそらく曽我の家族だ。  すると突然その中の老婆が走りだし、身動きのできない千尋を海に突き落とした。  俺は目を疑い、後を追うように海に飛び込む。  千尋に少しでも酸素を与えなければと思ったとき、千尋が海の中で微笑んでこう言った。 「大丈夫だよ」  ……なぜだろう。海の中で呼吸ができる。それによくこの状況を見つめ返せば、視界もクリアに見えていることに気づいた。  それならば、もういい。  俺は千尋の体を抱きしめ、一度口づける。  このまま一緒に、堕ちていこう。  ***  懐かしい、池畑さんの家の中。  池畑さんはいつものように小上がりの席でテレビを見ている。  そこに声をかけようとした、そのとき。  自分の横をあのホームレスの男が血だらけのまま、あの灰皿を持ってゆっくり池畑さんの後ろ姿に近づいていく。  ……やめろ。  叫ぼうとしたが声が出ない。そして自分の足は……あの気味の悪い笑顔をした曽我が掴みかかっていた。  だめだ、このままじゃ、池畑さんが。  やめろやめろやめろやめろ!  *** 「松澤零二、君を逮捕する」  恐れていた事態になった。  千尋は捕まった俺に気づかず、逃げる足を止めない。  つい手を伸ばしかけて、やめた。  ……これでいい。これでよかったんだ。  *** 「松澤零二、君を逮捕する」  ……あぁ、やっぱりか。  千尋は捕まった俺に気づかず、逃げる足を止めない。  やはり手を伸ばしかけて、その手をおろす。  ……これで終わりか。捕まりたくなんてなかった。ずっと千尋の傍にいたかった。  そのとき。 「松澤、乗れ!」  いきなり見覚えのある車がパトカーに突っ込み、中から腕が伸びてきた。  センリだ。それに千尋も乗っている。  ……奇跡だ。  俺はいつの間にか微笑んでいた。  ***  突然暗闇の中に放り込まれた。  冷たい床が頬にあたり、両手がうまく動かせないあたり、手錠で拘束されているのだろう。  反射的に理解した。ここは独房だ。  外から声がする。 「一緒に逃げてたあの金髪、この前捕まったろ。死んだってよ」 「なんで」 「なんだったかなー、希望が見いだせなくなったとかじゃねーの?」  ……舌を噛み切って死のうと決めた。  ***  図書室に入ると、虚ろな目でヘッドホンから流れる音楽を聴きながら外を見る千尋がいた。  あの時は話しかけられなかったけど、今なら出来るだろうか。 「仙崎」  次の瞬間、恐怖で顔が引きつった。  こちらに目を向けた千尋の顔に、大きく文字が貼り付いている。  その瞬間、図書室の本がすさまじい勢いで宙を舞い、活字がそこら中に貼り付き始める。  大好きだった本でさえ、活字の波となって俺を飲み込んだ。  やがて静寂が戻ると辺りは真っ暗な文字の海。  気づけば俺の体にも文字が貼り付いていた。  千尋も大量の文字が貼り付いた手で俺に両手を差し出す。  救いの手ではないとすぐに気づいた。  その両手はそっと、俺の首にかけられる。  ***  千尋と冷たい風が吹く海沿いの砂浜を、ひたすらスーツケースを引きずって歩く。  ……もう、何が現実で何が夢なのか分からない。  ***  しばらく歩くと、久々に大きなビルが並ぶ通りに入った。  いつの間にこんなに遠くまで歩いたのだろう。もうすでに歩いていた間の記憶は無い。  その時。 「……零二!」  もう聞くことはないと思っていた声がした。  虚ろな目でその方を見ると、立派なビルの玄関からスーツをピシッと着こなしてこちらに駆けてくる兄の姿。  あぁ、これも夢なのかな。  でもどこかリアリティのある夢だった。  俺はすっかり掠れ切った声でつぶやく。 「兄さん……」  その時だったか。  その呟きを聞き取ったのか、千尋が一目散に走りだし、車道を渡ろうと飛び出した。  瞬時に嫌な予感がする。……車だ。車がすぐそこに来ている。  俺は千尋の名を叫びながら、車道に飛び出した。  * [視点:    ]  白い視界の中で映えるのは、流れ出す最悪の赤。  ――……神様、あなたは残酷だ。  第五章 -終-

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