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第2話 重い赤

「まだ時間が必要ですか?」  掃除を終え、礼拝堂の入り口を施錠して奥にある簡素な自室に男と共に籠もれば、急かすでもない穏やかな声が降ってくる。 「そう、ですね。できればこのワインを飲み干すまで待っていただければ」 「良いですよ。いくらでも待ちます。無理強いをしたいわけではないのですから」 解っていますよ、とは答えずに私は殊更ゆっくりとグラスを傾けた。焦らすつもりではなく、ただこの男との出逢いとそれからの日々、そして男の忍耐強さに思いを馳せていたにすぎない。 初めて出会ったのも礼拝堂の掃除中だった。 嵌め殺しのステンドグラスを通した西陽に照らされ、細かな塵がキラキラと舞い、箒が床を吐く音だけが響く空間で突如声をかけられたのだった。 見慣れぬ長身の男の登場に、小さな町には珍しく観光客でも来たのかと私は呑気に構えていた。 確かにこの教会は小さいけれど観光スポットの一つだし、あちらこちらにあしらわれたステンドグラスや骨董の調度品が美しくまた歴史的観点から見ても大変な価値があると言われている。見て回るのにそんなに時間はかからないし、ご要望とあらばお茶の一杯でも……などと思っていたのに、言いにくそうに発せられた、あの……に続く言葉にぽかんと口を開けた。 「貴方が好きです。ごめんなさい」 あまりに突飛な言葉に、私の耳はついにおかしくなったのかと戸惑うと同時に、目の前の男はとんでもない闇を抱えているのだと勝手に心配し、自室に連れ込んでワインを差し出し、とくと話を聞いた。 その結果私の耳はおかしくなってはいなかったし、男の抱える闇は世に言う恋の病であった。相手が何故私なのかは解らないままだったが。 この部屋に男を招くのはその日以来――今夜、私はこの男に抱かれるのだ。 「ふふっ、そんなキョロキョロと。珍しい物でもありますか?」 「……貴方のお部屋ですし……興味はあります」 「二回目ですものね、お招きしたのは……でも、相変わらず何も大した物なんてないでしょう?」 初めて部屋に入れたあの日、気の迷いなのではないか? 本当は他に悩みがあるのではないかと根掘り葉掘り質問をし、私は男性であるという基本中の基本も言葉にした。  それでも男は謝りながら同じセリフを繰り返し、縋るように伸ばされた手は震えていたのだった。 「本当に毎日、来ましたね」 からかう私に男は不満気に眉を寄せた。 「嘘はつきません」 「まぁ、その結果、見事に私は貴方に絆されたわけです」 「そんな言い方……!」 「本当ですよ?」 初めて会ったあの日。 落ち着いて、大丈夫、しっかりして、と無意味な慰めを繰り返す私の服を震える手で掴んだ男は溢れんばかりに涙を溜めた目で真っ直ぐに私を見つめ、信じてもらえるまで毎日来ます、と覚悟のこもった声ではっきりと宣言した。 そして宣言どおりに来たのだ。 雨の日も風の日も。西陽が射し込む時間帯に、するりと礼拝堂に入り込み、掃除する私に微笑みかけて、神に祈るでもなく意味のない会話を交わし、いずこかへと去って行く。 私の事が好きなのだと瞳は雄弁に語るくせに、初めて会ったあの日以来、男の声でその言葉が私に届けられる事はなかった。 私のほんのちょっとした体調不良をあっさりと見抜いたのに、額に触れて熱を探る事もしない男は絵に描いたような誠実さをみせ、そのくせ私に指を突き付けて休養を取るように命じる態度はなんとも尊大だった事を思い出して、吹き出した私を男は現実に引き戻した。 「私を見てください」 「貴方の事を思い出していたんですよ? 本当に貴方は私の事をよく――」 「それでも! 今、目の前にいる私を見てください。貴方の、貴方の心が変わってしまうのが怖いのです」 グッと私の方を掴む手が震えていた。こんな時にもこの男は誠実なのだなと思う反面、一体何を震える程恐れているのかがひどく気になった。 「貴方が恐れているのは、私の心変わりだけじゃない。でしょう?」 「それは……一度、たった一度でも貴方を穢してしまったら、壊れてしまうのではないかと思うと怖くて」 「私はそんなにヤワじゃないですよ」 震える手を慰めるように頬を擦り付けると、男はハッと短く息を吸い、形の良い唇を私のそれに重ねた。 初めての接吻(くちづけ)は重い赤ワインの味がした。

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