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愛の蛮行
「腹減った…晩飯何かなあ」
少しだけ、いつもより遅く会社をあとにしたリョウが腹をさすりながら独りごちる。
爪先にメダリオンが施されたウイングチップの靴を鳴らしながら車道を歩く。今何時かな、自然な動作で腕時計をスーツの袖から覗かせる。
「…まだ仕事中かな」
文字盤の向こうに、思い浮かべるのはもちろん──
胸ポケットに収まっているスマホが震えた。取り出してみると、表示されているのは今思い浮かべていたその人の名前。
「アヤ?今ちょうど仕事終わったとこやで!」
知らず、声が弾む。
「知ってるよ」
電話の向こうのその声に、思わず眉をひそめ周囲を見回す。
「知ってるよって、なんで」
声の主から答えはない。かわりに、背後から車の音が近づいてきて、リョウの横で停まった。
「うそ、こっち来てたん?え、車で?」
確かに見覚えのある、アヤの車。ナンバーもこの辺のものではない。
「乗る?」
ロックが解錠され、ドアが開いた。
「乗らんわけないやろ…」
まだ呆然としながらもしっかりツッコミは入れ、リョウは助手席へ。両脚をピタリと閉じ、ビジネスバッグを胸の前で抱きかかえ、小さくなっている。
「どうしたの」
「その質問の前に、この状況を説明して欲しいんやけど?」
それまでリョウを見ていたアヤは前に向き直ると、荒々しくアクセルを踏みつけた。リョウの体がシートに弾む。
「うわっ!『どうしたの』はこっちのセリフやー!」
どうかしている自覚は大いにある。
二百キロ超の距離を、勢いだけで走ってきてしまった。勤め先の最寄り駅ぐらいは聞いていた。確実に会える保証もないのに、何をしているのかと可笑しくなって、つい口角が上がる。
横では相変わらずリョウがギャーギャー言っているが、構わない。いつもは聴かないような、耳を裂くロックチューンをBGMに選び、高速に乗った。
「いい加減何か言うてよ。どこ行く気なん?」
リョウの憤慨モードはおさまり、不安モードにチェンジしたようだ。いくら恋人とはいえ、やってることは拉致に等しい。さらにはほとんど言葉を発することも無く、薄笑いを浮かべながら運転しているだけなのだから、不安にもなるというものだ。
「いや、あの、別に何もないならええねんで。何か怒ってるとか、そういうんじゃないんなら」
リョウが続けるが、依然返事はかえってこない。しばらくアヤの表情を伺っていたリョウは、やがてしゅんとして正面を向き黙ってしまった。
説明、と言われても。
出来ないような、まだしたくないような。
説明、も何も。
6時間かけて車を走らせる、その衝動の源なんて、ひとつしかないだろう?分かれよ。
と、口に出さないだけ優しくなったのではないか、なんて自画自賛しながら、やや強引に車線を変更する。攻撃的なロックサウンドがそうさせるのか、もしくは今夜は全てにおいて強引になってみたい、そんな気分なのか。
割と損得で動く人間だと自分で思うが、ガソリン代も時間も無駄にかけて、それでもその価値がある見返りを、得られると思うから、今こうしている。
「…何か言うてえな」
すっかり頭を垂れてしまったリョウがボソリと呟いた。
「じゃないと俺、もう…」
BGMのおかげでアヤにはバレていないが、実はさっきから腹の虫がうるさくてかなわない。それに単調な高速のドライブが妙に心地よく、一日働いた後の疲れた体を次第に睡魔が蝕みつつあった。
だがそんなことを知らないアヤの目には、リョウが相当打ちのめされているように映った。
「リョウ」
ようやく声をかけられ、うとうととしていたところハッとして顔を上げる。
「うっ、うん?」
「朝まで攫っていい?」
その言葉はリョウの胸を刺した。不安やアヤへの不信感は瞬時に払拭され、代わりにじわじわと温かさと愛しさが胸を満たし始める。が、
「…いい、けど」
胸だけ満たされても。
「けど?」
「とにかく何か食わして、腹減って死にそ」
大袈裟に腹を撫で、泣きそうな顔をするリョウに、アヤの目がさらに細くなる。
「何が食いたいの」
「…今は下ネタ言う余裕もないで」
ジト目でアヤを睨みつける。こんなやり取りをしてる間も腹の虫は鳴り止まないのだ。
次に辿り着いたサービスエリアで簡単な食事を済ませると、ようやくリョウが落ち着いた。
「で?どこに攫ってくれるん?どっかの帰り?」
両手で包むようにホットの緑茶が入った紙コップを持って、時折啜りながら問う。
「どこにしよっか」
アヤは少し離れたところで煙草を吸い、煙を吐きながら答えにもならない答えを返した。
「まず、どないしてこの状況になったか説明してくれへん?」
無駄にハイスピードで高速を飛ばしてきたものだから、すっかり隣県まで来てしまっている。
アヤは煙草の火を消して吸い殻をスタンド灰皿へ入れると、リョウのそばへとやって来た。どんどんそばへ寄ってきて、不自然なほどの距離まで縮まった。
「説明、そんなに必要?」
眼鏡の奥からじっと見つめられる。それだけで胸が高鳴る。
「う…だって…」
「会いたかったから、それだけだけど」
その言葉を聞くや、リョウは天を仰ぐとぎゅっと目を瞑り、唇を噛んだ。
「…それはどういうリアクションなんでしょう」
アヤがさらに近づいてきて覗き込む。リョウの手はスーツの裾を握りしめていた。しばらく黙っていたが、押し殺すように、最後は吐き出すように、こう言ってのけた。
「…萌えてんねんやろ…そっちこそ言わすなよ」
再び車に乗り込んでからは、さっきまでとは打って変わって和やかで会話も弾む、楽しいドライブとなった。BGMは必要なくなった。リョウの饒舌な話し声だけで充分だからだ。
「にしてもなんでもっと早く言うてくれへんかったん?俺何か怒らして山にでも埋められるんかと思ったやん」
「理由なんて、説明しなくても分かっていただけるかと」
前を見たまま眼鏡のブリッジを指で上げるアヤ。
「分かってても、言うて欲しいこともあるし、言わなあかん時もあると思うよ」
リョウはそう言うと、眼鏡を上げる仕事を終えたアヤの左手に、右手を重ねた。
「…朝まで、と申しましたが、撤回します」
アヤがそんなことを言い出したので、リョウは眉を下げ口を尖らせた。
「えー、ここまで来て?じゃあ家まで送ってくれるー?」
「帰しません」
「や、やっぱり山に…!」
重ねられていたリョウの右手を、アヤの左手がきつく握りしめた。
「朝が来たって、帰しません」
たまには俺が突っ走ったって、いいだろ。
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