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俺の話
しなやかな指に適度に力を込めて、
いつものようにゆっくりと、丁寧に俺の髪を洗いながら、彼が訊く。
「どこか気になるところは、ある?」
俺の顔を覗き込むようなその目を視線の真ん中にとらえてから、
「ないよ。……すごく気持ちよかった」
その後も、視線はずっと彼を追っている。
これが俺じゃなくて他のお客さんだったら、
「どこか、かゆいところや気になるところはありますか?」
と、彼は聞くんだろう。
薄いガーゼで顔を覆って、お互いの顔は見えないまま、交わされる言葉だけが宙に浮くんだ。
初めてここで彼に髪を切ってもらった時、シャンプーする時に、水しぶきを避けるため顔に薄いガーゼをかけてくれた。それを、「次からは要りません」と俺は言った。
だって、彼がどんな顔をして俺の髪を洗ってくれているのか、その表情を見ていたかったから。
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洗いたての髪のしずくをタオルで拭い、
後ろに倒していたチェアをゆっくりと元の位置に戻す。
背中がまっすぐになる、そのほんの少し手前でリクライニングを止めるのが、いつもの彼のやり方。
その位置で、ふわふわしたタオルで俺の頭を包み、大ざっぱに髪の水分を吸い取ると、彼の手が俺の頬に伸びて少しだけ顎を上に向け、唇を重ねてくれる。
ここは、通りからも、誰からも見えない彼の美容室の一角。
世界中で二人きりしか知らない場所で、時間にすればわずか十秒にも満たないキスを俺たちは交わす。
いつもなら、その後に彼は俺の左手を取り、髪を乾かすための次の場所へエスコートしてくれる。誰もいない時は。
ただ、今日は俺が彼の手を制して、シャンプーをしたその場所で髪を乾かしてくれるよう、頼んだ。世界中の誰も知らないこの店の一角で、「そのまま続けて」と……。
シャンプーしている時とは逆に、俺は目を閉じて髪を乾かすために彼の指が俺の髪に触れるのを待った。
**************
「ねぇ。今日、仕事は何時まで?」
「……え?」
そりゃ、いきなりそんなことを聞かれたらびっくりするよね。
大きく見開いた瞳に、クエスチョンマークが並んでいるのが目に浮かぶ。
今日のBGMはジャズ。なめらかで艶かしい、女性のような男声。
包容力たっぷりにリードするピアノに、全身をゆだねるように。
低く目を伏せるベースには、誘いをかけるように。意味深な色香をふりまく中性的な歌声。
この声を聴きながら、彼の白いシャツのボタンを上から一つずつ外して、露わになった広い胸に唇に滑らせたい。そんなことを考えていた。
彼がドライヤーを片づけるのを待って、リクライニングから体を起こして言った。
「今夜、家に行っちゃダメ? 明日はお店、休みでしょ?」
何故そうしたいのか、特にここで言う理由なんてない。
それは彼もわかっている。
だから、驚いてはいるけど、「どうして?」とは聞かない。
「そんな怖い顔して、何を言うのかと思ったら」
彼は小さく笑った。
確かに、俺の表情は少し強張っていたのかもしれない。
自分ではごく自然に、いつも通りに話していたつもりだったんだけど。
「いいよ。久しぶりだね。……じゃあ、今日はもうそろそろ閉店にしようか」
そしてもう一度、俺の唇にやさしく触れて、
「少しだけ、待ってて」
そう言い残し、「PRIVATE」と書かれた扉の向こうへ消えていった。
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大して伸びてもいない髪を、毎月必ずここへ切りに来る。目的はヘアカットでもシャンプーでもない。この店のオーナー兼店主、そして俺のヘアスタイリストであり恋人である彼に逢うため。
去年の三月だった。
入社式を数日後に控えたある日、一人暮らしの引っ越し荷物が片付かないのに嫌気がさして気分転換に新居の周りを散策していた時、この店を見つけた。
交差点で信号を待っている時に目に留まった、通りに面した一角にある小さなお店。
ちょっぴりくすんだ緑色をした小さな窓枠が二つ並び、その横には扉。
扉には、窓枠と同じ色の取っ手がついている。
モスグリーン、っていうんだっけ。
扉にかかった小さな看板には『ぶどうのつる』とだけ書かれていた。
いかにも、住宅街に新しくできたおしゃれなカフェ、という外観だったけれど、中に入ってみたら美容室だった。
加湿された暖かな店内に広がるフレグランスの甘い匂いに、思わず目を閉じた。
その時、「いらっしゃい」と、奥から出てきたのが彼だった。
「あ…………、」と言ったまま、何を言えば良いのかわからなくなっている俺に、
「ごめんなさい。カフェ……だと思って入ってきてくれたのかな?」
と、柔らかい笑顔で彼は言った。
「あー…、はい」
「そう見えるよね、さっきもそういう方がいました」
彼の笑顔に少しだけ、申し訳なさそうな照れが混ざった。
「ここ、美容室なんです。しかも、オープンは明日でまだ準備中なんですよ」
本当にごめんなさいばっかりで、と彼は続けた。
モスグリーンの窓枠の近くに置かれた椅子に座り、小さなテーブルに頬杖をついて通りを眺めながら、そんなことを思い出していた。
あきれるぐらい、いちいち全部覚えている。懐かしい、と振り返るほどまだ時間が経っているわけではない。あの時、俺は彼に一目惚れしてしまった。
ちょっと変わったお店の名前は、学生時代に付き合っていた彼女が教えてくれたある曲の題名になっていたフレーズだとか、アイボリーの壁に一枚だけ掛けられた、彼が大好きだという絵のこと。ひとつひとつ、彼は丁寧に教えてくれた。
そして、俺の気持ちにも、応えてくれた。
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「待たせてゴメン!」
そう言いながら、彼が扉の向こうから出てきた。
「もういいの? まだ、待つよ」
「そう? 『待てない』って、顔に書いてあるよ」
彼はくすっと笑いながらそう言った。
「残りは明日の朝、片付けるから」
と、俺が座っていたテーブルのランプの灯りを消しながら、
「ぼくのほうが待てないのかな」
と小さな声で言い、俺の頭に手を乗せた。さっき彼が切ってくれたばかりの髪に。
「うちに何もないから、何か買って帰ろうか。明日の朝のパンも」
店を出ると、彼は右手で俺の左手をぎゅっと握って歩き出した。
俺のアパートと彼のマンションは、店を挟んで真逆の方角にある。
その二つのうち、彼の家に向かう道を、たわいもないことを話しながら俺たちは歩いた。
「コーヒー豆、ある?」
「今日は大丈夫。あ! この間、お客さんがコーヒー豆を持ってきてくれて、それがすごく美味しかったんだよ。ええと、なんていう豆だったっけ……」
「後で淹れてくれる?」
「もちろん」
信号が変わるのを待つ間、「まだ寒いね」と言いながら、
彼は俺の手を握ったまま自分のコートのポケットに右手を突っ込み、
「一か月半ぶり? 少し間が空いたね」
と、前を向いたまま言った。
「逢いたかったし、……たかった」
「ん? 途中が聞こえなかったよ」
と彼がこちらに顔を向けた時、あわてて
「なんでもない」
と返した。その時信号が変わって、俺たちはまた歩き出した。
さっき、髪を乾かしてもらっている時に聴こえていた、まさにその曲の通りだった。
誰も知らない世界の片隅で、俺たちは、あっという間に恋に落ち、あまりにも激しい恋に身をやつしてしまう。
幸せな時間はいつまで続くかわからないけれど、
それでも、俺たちが恋に落ちるのを止めることは誰にもできない。
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