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彼の話

専門学校時代の仲間で集まると、決まっていつも「この中で誰がいちばん先に独立するか?」って話になった。大学へ進学してから美容の仕事に興味を持ったから、誰よりも年齢は上だった。けど、そんなことはまったく気にならなかった。 三十八歳でやっと独立に踏み切れた自分は最終走者だったけど、いろんなことを決断したり、吹っ切ったりするためにはそれだけの時間が必要だったんだなーと今になって思う。 学生時代に住みついていた街に戻ってきて、自分ひとりだけで回せるぐらいの小さな店を構えて、開店初日にやってきたお客さんは、「あと数日後に入社式で……」とかすかに緊張した面持ち。 その前の日。翌日に迫った開店に向けて孤軍奮闘していた時にふらりとドアを開けて入ってきたその彼は、恥ずかしそうにうつむいて、「じゃあ明日、朝いちばんに来ます。……開店初日の、いちばん最初に、俺の髪を切ってください」と言った。 柔らかい髪質の彼には、どんな髪型でどれぐらいの長さが似合うのかな。 ぽつりぽつりとそんな話をしながら、えりあしにかかる髪をカットしていた時、「こんなの初めてです」と彼が言った。鏡の中からまっすぐにこちらを見つめる瞳は、前日にカフェと間違えてやってきた時の恥ずかしそうな顔とも、ついさっき開店と同時にドアを開けて入ってきた時の表情とも違っていた。 あまり話をするのが得意じゃないから、髪を切ってもらいながら会話をする雰囲気になじめなくて、美容室にはなかなか足が向かなくて。でも自分に似合う髪型なんてよくわからないし、そもそもそんなの誰に聞けばいい? ずっとそう思っていた、と彼は話してくれた。 『五年以内には独立したいよな』 『将来どんな店を持ちたいか? そんなの都会の有名店に負けないぐらいの集客を上げられる店だよ』 と語る仲間を前に、 『一日にひとりしかお客さんがいなかったとしても、ゆっくりと時間をかけて話をしながら、その人が自分を思いきり好きになれるような髪型や、帰り道に遠回りして誰かに見せたくなるような髪型を作ってあげられたらいい』 そんなふうに息巻いていた頃があった。 だから、「あなたに出会えてよかったです」と身じろぎもせずに言う鏡の中の彼に頷きながら、じんわりと胸が温かくなってくるのを感じていた。 ここは生まれ育った地元じゃない。だから、昔からの顔なじみはいない。けど、将来を思い描いて熱くなったり、うまくいかないことに絶望したり、そんな十代から二十代初めのじりじりした気持ちを丸ごと受け止めてくれたようなこの街が妙に忘れられなくて、就職を機に離れてからも、独立するならこの街がいいと決めていた。その街に、彼がいた。 *************************** 『くるくると絡まったぶどうのつるを伝って、あの子のうわさが耳に入ったんだ』 学生の頃に付き合っていた彼女は古い洋楽が好きで、そう歌う曲を何度も聴いていた。数年後、その歌の通りになるなんて、一ミリも思いもしなかった。 『オレ、見ちゃったんだ。てっきりお前と一緒なんだと思って声をかけたら、全然違う人で。就職したヘアサロンの上司だって紹介されたけど、……』 平気なフリをしてたけど、それがフリじゃなくなるまで待つのに、自分は年を取り過ぎたのかなァなんて思ってた。けど、「その曲は知らなかったけど、最初に看板に書いてある『ぶどうのつる』って店名を見た時、古いおまじないとか魔法の言葉みたいに思えて素敵だなって。違う名前だったら、あの日ドアを開けたりしなかったかも」と彼が打ち明けてくれた時、間違ってなかったんだって思えた。 ぱちんとまつ毛が瞬く音が聞こえた気がした。 向かい側に座った彼に、指先でトントンと鼻の頭をつつかれる。 「何か、考えごとしてる?」 まだコーヒーの湯気が立つマグカップをテーブルにことんと音をさせて置き、彼がテーブルに肘をつく。こういう時「何でもないよ」と言うと、「俺みたいなガキにはわからないこと?」とか言ったりするところが可愛くもあるのだけど。 「きみに出会えてよかったなァっていろいろ思い出してたんだよ」 「フフ。俺もさっき、店で待ってる間に思い出してた」 唇の端っこを思いきりギューッと持ち上げて笑ったかと思うと、何か思い立ったように台所に向かい、「コーヒーがまだ少し残ってるから、さっき買ったアイスクリームにかけてアレにしようよ」 アフォガードね。 「あ、でもおれは少しだけでいいよ、アイスは」 小さなガラスの器を取り出しながら、ちらっとだけこっちを見て 「なんで? もうトシだから? お腹が冷えちゃうとか」 からかうように笑いながら言う彼につられてこっちまで笑い出してしまった。 「きみみたいにお子様じゃないからだよ」 ハイハイと軽くあしらわれるのも、二人だけの時のくだけた話し方も、ごく普通のこの部屋の空気になってきている気がする。 けど、僕らは別々の人間で、体は二つにわかれている。だから、いつもさよならをしなきゃいけない。 この先、何回「さよなら」って別れの言葉を言えばいいんだろう。 また逢えることがわかっていても、「さよなら」を言う時はやっぱり寂しい。 そんなことを正面切って話したらきっと、「もうほんとにトシなんだから」って笑われるに違いない。 けど、どんなに寒い季節でも、さっきみたいにぎゅっとつないだ手をコートのポケットに突っ込んで歩けたら、それだけで世界はきっと暖かくなる。……きみに笑われたとしても、そんな時間がずっと続けばいいのになぁって、ぼくは思ってるよ。 end

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