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無邪気と屁理屈 #1
「入ってもよろしいですか?」
扉の向こうで恐らく、机に向かっているであろうその人に声を掛けた。
「ああ、どうぞ。」
程なく返事があって中に入ると、その人はやっぱり机に向かっていた。
「やはり徹夜でしたね。」
「いや、一度ベッドには入ったんだ。でも、ちょっと気になることがあってね。それに今日は特に予定もない。学校もない。君もいない。ないない尽くし。つまらないだろう?どうせだから、このまま仕事をして、君がいない昼間に寝ようって考えたんだ。我ながら良い考えだと思わないか?」
「もうお若くないのですから、ちょっとは考えてください。お体に障ります。」
「人を年寄り扱いして…君もいずれ、こうして歳をとるのだからね。」
「何だかそれらしいこと、さっきからおっしゃってますけど、全て子供の言い訳の様に聞こえるのは、気のせいでしょうか?」
「僕の生活面において、君が間違ったことを言ったことはない。だから、きっとそれは子供の言い訳のようなんだろう。誰が聞いても。しかし、そうするのも君の前だけさ。」
彼はそう言って少しだけ頬を緩めた。整った顔立ちの彼は、これだけで充分絵になるのに、人が喜ぶこどをさらりと言ってのける。
「全く…あなたって人は…」
僕も思わず頬を緩めてしまう。そして、彼の右頬にキスをした。
無邪気と屁理屈の同居。これがこの人の短所。これが災いして未だ独身。既婚歴もない。既婚歴どころか女性と付き合ったこともない。端正な顔も宝の持ち腐れ。だけど実は、この短所こそがこの人の最大の魅力。それは僕だけが知っていて、僕はこれにほぼ完敗の日々を送っている。
「僕、もう出掛けますね。朝食と一応昼食も準備してあります。温め方は先日教えた通りですが…もう一度確認します?」
「馬鹿にしているのか?もう覚えた。」
睨むように僕を見つめる。
「五十の手習いでしたけどね。おーっと時間だ!じゃあ、行ってきます。仕事は16時に終わります。その後、買い物へ行きますから…帰りは17時頃ですね。きっと。」
「17時か…長いな。」
さっきの睨みはどこへ行ったのやら、今度は迷子の子供の様な瞳を僕にぶつける。
「先生はこれからお食事を摂って、眠りに就くのでしょう?だったら、そんなに長く感じないのでは?それに…僕、明日休みなんです。今日の晩酌、付き合いますよ。」
「それは楽しみだ!ならば眠りながら気長に君の帰りを待つとしよう。それと…」
「『僕は君の先生ではない』でしたね。ごめんなさい。では、行ってきます。達彦さん。」
再度、彼の頬にキスをして部屋を出た。
彼…香月達彦、五十二歳。国文学の権威(本人は微塵も思ってないけど)。
そんな彼との生活が始まったのは、僕が彼を不審者と間違えたことからだった。
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