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匂い袋の香り #1

僕の勤務先は先生、いや、達彦さん宅から歩いて20分程のコンビニ。いつも始業30分前には到着し、細々とした仕事を片付ける。バックルームに入ると、夜勤明けの同僚、吉田が朝食にざる蕎麦を啜っていた。 「おつ!」 「おはよ。どう?昨日は忙しかった?」 「客足はまぁまぁ。だけど、お前を失った夜勤はキツいよ。」 「ごめん。」 「まぁ、いいって。それより、まだあの偏屈王の家にいるの?」 「偏屈王って…」 「だって、あのオヤジ、変だろ?いつもワケの分からないことばかり言ってくるし、威張ってるし。」 「世間知らずの子供なんだよ。慣れれば可愛いもんさ。」 「子供ねぇ…今日日、小学生だって電子レンジぐらい使えるぜ?あの歳で使えないんだろ?致命的だな。」 「一昨日、やっと覚えたよ。今朝、再確認しようとしたら、バカにするなと怒られた。」 「うぇ〜面倒くせぇ!お母さんはスゲー優しそうな良い人だったのになぁ。」 「そうだね。でもまぁ、高級住宅地のあれだけのお屋敷に、無料で住まわせてもらってるんだから、ワガママ言ったらバチが当たるよ。」 「まっ、そりゃそうだ。」 同僚は訝しげに僕を見て、残りのざる蕎麦をズルズルと啜った。 達彦さんはお母さんを2ヶ月前に亡くした。お母さんは毎日の様に僕の働くコンビニに来て、杏仁豆腐を買った。決まって2つ。亡くなる前日もやっぱり2つ買っていた。お母さんが店を出ようとした時、にわか雨が降り出した。お母さんは帰るに帰れず、店内に留まることを余儀なくされた。その間、店内は閑散としていて、僕とお母さんはいつもの様に少しだけ世間話をした。雨が止み、お母さんが帰ろうとした時、僕は再び声を掛けた。 『僕、もう上がりなんです。良かったら、お荷物ご自宅までお持ちします。』 普段こんなことはしないし、言わない。どうしてこの時、自分がこういう行動を取ったのか、未だに謎だった。お母さんは最初、恐縮してその申し出を断った。しかし、外の様子を見て不安になったのか、 『申し訳ございません。よろしくお願い致します。』 と頭を下げた。 お母さんの家は、なだらかに続く坂道の高台にあった。お年寄りにはかなりキツい道のりだろうと、容易に想像出来た。ここをほぼ毎日、しかも着物で店まで往復してくれているのかと考えると、本当に頭が下がる思いだった。 道すがら色々な話をした。お母さんは随分前にご主人を亡くされていて、今は息子さんと二人暮し。ご主人がご存命の頃は、僕でもその地名を知っている都心の1等地で三人で暮らしていた。その後、ご主人が亡くなり、ご主人の友人だった不動産屋の紹介でこの地に越して来たそうだ。 『あなたが女の子だったら良かったのに。』 他愛もない会話の途中で、お母さんは僕にそう言った。 『どうしてです?』 尋ねると、お母さんはちょっと困った様な顔をした。 『女の子ならどうにか説得してお嫁さんになってもらうんだけどね。うふふ、冗談よ。でもね、あなたの様な優しい人が、あの子の側にずっといてくれたら、あの子も変われるんじゃないかしらと思って。分かってるの。仮にそうだったとしても無理だってことは。私が言うのも変だけど、今までだって、あの子に好感を持ってくれたお嬢さん沢山はいたのよ。ありがたいほどにね。でも結局、皆去ってしまうの。あの子を理解するのも、あの子が他人を受け入れるのも困難なのね。私、そんなつもり全然ないのだけれど、間違ってしまったみたいなの、子育て。でもね…時々夢見てしまうの。あの子の側に誰かがいてくれることを…』 何も返せなかった。返せないまま家に到着してしまった。 『どうもありがとう。また明日お店でね。』 お母さんは玄関先でそう言って頭を下げ、小さく手を振った。お母さんの匂い袋の香りがフワリと風に乗り、僕の鼻孔をくすぐった。 お母さんの言う『明日』は来なかった。 あの時、小さく手を振る可愛らしいこの人が、翌日亡くなるなんて思ってもみなかった。 それぐらい、お母さんの死は突然だった。

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