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第1話
真夏のコンビニエンスストアでアルバイトをしていると、いろいろな人物に出会う。
季節問わずともサラリーマンやOL、学生、ファミリー、おじいちゃんおばあちゃんくらいは見かけるけれど、何しろイベントが多い季節だ。夏祭りの見物客やその進行に携わるスタッフ、帰省中の地元民などの、いわゆる一見客のような顔ぶれも多くやって来る。
「おにーさん。この花火、いっしょにやろうよ」
奥村侑斗は最初、目の前にいるこの男は当然ながら後者だろうと思っていた。
――初めて見たの、先々週の花火大会のときだったな……。
預かったお金を丁寧にレジスター上に乗せながら、侑斗はぼんやりと記憶をめぐらせる。
「絆創膏ってどこにありますか?」
男と初めて言葉を交わしたのも、そんな夏にありがちな質問がきっかけだった。
肌の露出機会が増える夏、人間は怪我をしやすくなる。絆創膏はもちろん、湿布や日焼け止めや冷却シート、冷感グッズの置き場なども店員ならばそらで言えるようにしておくのが当たり前だ。
「絆創膏でしたら後ろの棚に置いてありますが、靴擦れ用でしたらレジにもご用意がございますよ」
特に花火大会の日には、浴衣に合わせた履き慣れない下駄で靴ずれを起こす人が多く、絆創膏がよく出る。そのため、このコンビニでは花火大会の日はレジに靴擦れ用の絆創膏のストックを置いたり、店頭にベンチを設けたりするなどの工夫をしていた。
今目の前にいる男が着ているのは洋服だし靴擦れするような靴でもないのだけれど、侑斗の経験上、こういう場合はベンチに靴擦れした浴衣姿の彼女を待たせていることがほとんどだ。
そう判断して、マニュアル通りの対応をしかけた、のだが。
「いや、靴擦れじゃなくて、火傷しちゃって」
「は?」
そう言って男は頼んでもいないのに火傷の痕を見せてきた。
ここに油がはねました、と右手で指し示されたのは左手の甲。ちょうど親指の付け根辺りにサインペンで点を打ったくらいの小ささの赤い斑点ができている。
「これ、ちゃんと冷やしました?」
「どうだろう? ちゃんと、ではないかも」
「……でしょうね」
火傷をしたから絆創膏と言っているくらいだ、正しい応急処置の仕方を知っているとは到底思えない。男の言動がまるで保険医に傷口を見せる学生のようで、侑斗はため息をついた。
――ここ、保健室じゃないんだけど。
とはいえ、侑斗も侑斗で接客態度が崩れている自覚はある。
「レジの中入っちゃって構わないので、そこの水道で十五分くらい傷口冷やしててください。そのあと薬塗りますから」
ホットスナックを揚げる際の油はねなんてしょっちゅうだ。レジ裏に軟膏の常備もあるし火傷の処置も慣れている。幸い、男の他に客はいない。
コンビニ店員の仕事の範疇を超えている気がするのを脇によけて、男が患部を楽に冷やせるよう丸椅子を持ってこようと侑斗はバックヤードへ向かった。
以来、男は毎日コンビニにやって来るようになった。侑斗の『靴擦れした浴衣姿の彼女と花火大会デート中の一見客』という予想に反し、他の常連客とあいさつを交わすほどの常連客になりつつある。
「ねえ。おにーさん、聞いてる?」
不意に視界が翳りはっとすると、男が目の前で左手を振っていた。
侑斗の軽い応急処置をしたのが功を奏して傷が消えたのか、薬品のにおいはもうしない。
「聞いてますよ」
「そう?」
ならいいけど。そう言いながら侑斗の顔の前で手を振るのをやめた男は、言葉とは裏腹にいささか訝しげな表情を浮かべている。どうやら侑斗の「聞いていた」という返答に納得がいかないらしい。
もともと侑斗は喜怒哀楽が表出しにくい性質だ。――と、よく評されるが、侑斗自身は存分に表しているつもりなので、ちょっといただけないと思っている。今だって、本当に聞いていたから正直に言っただけだ。
「申し訳ないですけど、休憩時間でも勤務中に花火をするってのはちょっと」
むっとして返すと、男は眉を上げて驚いた表情をしたのちに肩をすくめた。
大方、侑斗がちゃんと男の話を聞いていたことに驚き、自分の失言に気づいてばつが悪くなった、といったところだろうか。もしくは厭味たらしく丁寧な回答をしてアピールしてきたことに呆れたのかもしれない。どちらにせよ、侑斗とは正反対のわかりやすい反応である。
「この間、お祭りのたこ焼きは食べてくれたのに?」
「あれは食べたんじゃなくて、口に押し込まれて仕方なく。です」
接客業をする者が休憩中でもないのにお客様の目の前で物を食べていいわけがない。いくら身内の経営する店でゆるいからといって。ましてやレジで接客中に。
わざわざそんな常識を説いて断ったのは、初対面時に少し男を構いすぎたのを反省したからだった。
男が毎日この店に来てくれる理由が罪ほろぼし的な理由であることはわかっているし、礼のために侑斗にあれこれちょっかいをかけているのも理解している。
しかし、罪ほろぼしも礼も、毎日コンビニに来て律儀に商品を買って行くだけで十分どころかおつりが出るほどだ。だから線引きをしようとした。
ところが男は「そのお客様の僕が食べてって言ってるんだからいいじゃん」だの「お客様の要望に応えてなんぼでしょ」だのと謎の持論で反論し、さらなる反論のため侑斗が口を開いたのを見計らい、たこ焼きをねじ込んだのである。
「でもおいしかったでしょ?」
「それは、まあ」
「あはは、ものすごく『悔しいです!』ってかおしてる」
――だって、あんなのずるいし。
夕飯時が過ぎてからやっと休憩に入れる侑斗にとって、男が来店した時間はちょうど空腹時だった。
しかも男はおいしいのを食べさせたいと意気込んで焼き立てを持って来てくれたようで、火傷はしないちょうどいい温かさで食べることができたのだ。
ふわふわのジャンボたこ焼きはきっと冷めてもおいしいのだろうけど、そんな良好な状況下でおいしく感じないはずがない。ただ、それらすべてが男の計算通りだと思うと素直に喜ぶのは悔しい。
「そんなにおいしかったんだ?」
きれいな笑顔で窺うように上目で見つめられ、侑斗はぐっと詰まった。態度こそ浮薄ではあるけれど、男は黙っていれば美人、というやつなのだ。
日焼けしてもわからないほどの白い肌、中世的な顔立ちとそれを飾るさらさらと流れる髪、すらりとした体躯。男を美人と称するのも変だが、他に言い様がない。
侑斗の周りには類を見ないという物珍しさも手伝って、つい見惚れてしまう。
「だって僕が愛情こめて焼いたからねー」
「あ、……。てっきり売ってるだけなのかと思ってました」
「へえ。どうして?」
「どうして、って、」
性質が悪いのは、男がそのことに気づいていることだ。
最初、男は本当に礼代わりに侑斗に会いに来ていた。今も本質は変わっていない。けれどいつからか、男の言動にはからかいの空気が滲むようになっていて。
なぜだかはわからない。
ただ、見惚れていることだけじゃない、すべてを見透かすような視線は、いつも侑斗を落ち着かなくさせる。
「――顔。朱くなってる」
「っ、」
つい、と細長い指先が侑斗の頬を撫でる。
白い指が冷ややかに感じたのは、自分の頬が朱く染まり熱を帯びているからなのだろうか。視線を逸らすことも指先を躱すこともできず、息を止めた侑斗はふるりと身を震わせた。
「ほんと、そういうとこ――」
自分を向いた、突き刺すような視線がふっと和ぐ。
――そういうとこ、が、何なんだろう。
そもそも、『そういうとこ』ってどういうところなんだろう。気になって、何かを言いかけた少し掠れた男の声に必死に耳を傾けたけれど、侑斗が言葉の続きを聞くことはできなかった。
緊張した空気を裂くように、ペロペロンという軽快なメロディが鳴る。
同時に、自動ドアの開く音がした。――来客だ。レジの中はさして広い場所でもないけれど、男と距離を置くべくできる限り飛び退き、侑斗は取り澄ました表情を作る。
「いらっしゃいませ、こんばんは」
「あら。侑ちゃん、こんばんは」
声が若干裏返ってしまったものの、常連のおばさんは気づいた様子もない。
「こんばんは」
「あらあら、どうもー」
そればかりか、店員でもないただの他客である男にあいさつされたのを疑問視することもなく律儀に男にあいさつし返している。おまけに、
「侑ちゃんと仲良いのねえ」
だなんていう、的外れで頭の痛くなるような発言も加えて。
「別に仲が良いってわけじゃ……」
「そうなの? この間おいしそうなたこ焼き食べさせてもらって喜んでたのに?」
「見……!?」
見てたんですかと聞きたかったはずなのに、驚きのあまり声が出ない。
そんな侑斗を見かねて――否、侑斗の声が出ないのをこれ幸いと、男は取って代わっておばさんに話を振った。
「僕たち仲良く見えます?」
「見えるわよー」
おばさんの返答に納得がいかなかったのか、男は侑斗に見せたのと同様の不服そうな表情を浮かべる。せっかく答えてもらったのに失礼な話だ。
しかしおばさんはそんな男の考えを読み取ったのか、ふふ、と笑いながらどうしてそう思うのかを教えてくれた。
「ほら、侑ちゃんって思ってることが顔に出にくいじゃない? 昔、お菓子をあげたら『ありがとう』って言ってくれたんだけど、本当に喜んでるのかわかりにくくてね。もちろん疑ってるわけじゃないのよ」
「……」
おばさんは『疑っているわけじゃない』と言う。それが嘘でないことはわかる。けれど、評価をされる側の侑斗としては相手が微妙そうな顔をするたび、いつもちょっとだけ傷ついていた。
きもちを疑われることと、嘘つきだと罵られること。それらは決してイコールではない。それでも、素直なきもちを信じてもらえないという時点で侑斗にとっては同じようなことだった。
同時に、自分が相手を信じたいきもちも少しだけ失われて、自分の本音を誰にぶつけたらいいのか、本音を口にしたところで理解してもらえるのかがわからなくなって――きもちを表すことが、どんどん苦手になっていった。侑斗のポーカーフェースはそうして生まれた。
「僕にはちょっとよくわからないですね」
おばさんの話に男がそう答えたすぐ後にBGMが途切れ、店内は一瞬だけしん、と静まり返る。なんだか空気が重苦しくて、気まずい。
そもそも、自分で質問したことに答えてもらっておいて何という失礼な返しだ。侑斗は言葉を詰まらせてきゅっと結んだ唇をゆっくりとほどくが、おっとりとした口調のおばさんの方が先に口を開いた。
「でしょう? だからこそ、なのよ」
どうしてか苛立っているのを露わにした男に相変わらずの笑顔を向け、おばさんは一度ばかり大きく頷く。侑斗にとっては昔話をされたに過ぎないのだが、その真意がまったくわからない。
ただ、男の方は意図をしっかりと汲み取れたようだった。先ほどの懐疑的な表情はどこへやら、首を傾げる侑斗を差し置いて人好きのする顔に表情を切り替えている。
たとえ表情豊かでもその奥にある気持ちは案外わからないものだなあと、侑斗はぼんやり考えた。
「ところで」
わざとらしい頓狂な声を上げ、男が侑斗に向き直る。
「まだお釣りをもらってないんだけど」
「――あ」
すっかり忘れていた。
――ということを、取り繕うのも忘れていた。
画面で合計金額と預かり額を照合して釣銭額を確認しようにも、レジはとっくに休止モードになっている。辛うじて発行していたレシートを見ながらわたわたと釣り銭を用意した。
「も、申し訳ございません……」
焦りと羞恥で再び顔を火照らせ釣り銭を差し出すと、釣り銭を乗せた手と添えた手の両の手ごと男に引かれる。
「花火。いっしょにしてくれるよね?」
「えっと、それは、」
しどろもどろになりながら、手を握られたまま視線を泳がせる。断ったはずですが、と強気に出られなくなってしまったのは完全に侑斗の自業自得だ。
「抜けてもいいわよ。この時間帯いつも暇じゃない」
「母さん!」
レジ横にあるバックヤードと繋がる扉からした声に勢いよく振り向くと、侑斗の母親が制服を羽織りながら出てきたところだった。
一体どこから話を聞いていたのだろうか、男が裏で手を回したのではないかと疑いたくなるほどのグッドタイミング――もちろん、侑斗にとってはバッドタイミングだ――である。
さらなる母親の登場によって外堀は完全に埋められた。頭が痛い。
「っていうかもう上がりでいいわ。あんた夏休みだってのに全然休んでないみたいだし、一度も遊びに出かけるなんて言わないし」
「遊び呆けるでもなく家の手伝いしてるんだから褒めたもんだろ」
「たしかに勤勉なのは悪くはないけど、学生らしく最後の日くらい遊んで過ごしなさい」
「最後?」
母親の不用意かつ余計なことを聞くなり、男の顔つきが変わった。
「まだ三十一日まで結構あるのに?」
正確には、親子喧嘩を微笑ましげに見守る表情のまま、目つきだけが鋭く尖ったものになった。男の詰るような視線は侑斗を一直線に向く。
「あ、えっと、その、」
獲物を前にした猛禽類を思わせる視線に本能的に恐怖を感じてじりじりと後退るも、物理的にも追い込まれている侑斗にとってその行動は悪あがきにしかならない。
四面楚歌、背水の陣。さまざまな四字熟語が脳内をよぎる。
「で、どうする?」
見渡す限りの笑み、笑み、笑み。それぞれの笑顔が意味するところは違うのだろうが、侑斗の圧力であることにはどれも変わりない。
観念して、覚悟を決めるように一度大きく息をついてから両手を小さく挙げる。
「……お言葉に甘えて今日は上がらせていただきます」
違う言葉を発したかったのが本音だけれど、残念ながら侑斗にはそれ以外に思いつかなかった。
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