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第1話

「………はぁ?」  そのときの俺はまず何から驚けばいいのか判らず、ただただ気の抜けた声をあげて目の前の亜美(あみ)を見つめるしかなかった。 「今までぇ、楽しかったねっ」  彼女の甘ったるい声はアルコールが原因ではなく、元からだ。  ………少なくとも俺の前ではいつもこの声だ。この声も、ようやく好きになりかけていたというのに。  いやそんなことよりも、事実確認が先だ。 「あ、亜美ちゃん、ごめん。ちょっと意味が分かんなかった。もっかい言ってくれる?」  俺は動揺を抑えるよう努めながら、亜美に向けてゆっくりと言った。  レストラン内でこんなに震えた声を出しているのはおそらく俺くらいだろう。水をこぼした新人ウェイターだって、プロポーズをもくろんでいそうな窓際席のカップルの男だって、こんなに緊張はしていまい。 「だからぁ、漆原(うるしばら)さんとは、今日でさよならなの」 「それは…別れるってこと?」 「うん」  どうやら俺が自失した内容のうちひとつは、勘違いじゃなかったらしい。  普段と変わらぬ笑顔のまま、亜美は頷いて見せた。 「なんで、急に?」  できるだけにこやかに聞いたつもりだが、きっと顔はひきつっていることだろう。  部署こそ違うがオフィスでは隣のフロアにいる亜美から猛烈なアプローチを受け、付き合いだしたのが一ヶ月前。  もともと亜美には興味はなかったが、彼女も気になる女性もいなかったから何となくで付き合い始めた。  亜美は客観的に見て可愛いと言われる部類だ。ちょっと童顔の目はぱっちりと大きく、伸ばされた髪は肩口でくるるんと縦巻きカールを描いている。背は小さいが胸はでかい。  中身も見た目を裏切らず、甘えたがりでワガママだ。  俺の好みは大人っぽいしっかりした綺麗系で、亜美はその理想からは外れていたのだが、最近、可愛い系もいいんじゃなかな、と思い始めていた。なのに。 「だってぇ。亜美、遠距離なんて無理だもん」  亜美がぐりっと持ち上げられた睫をばしばしと瞬かせながら、上目遣いに俺を見る。  これだ。これが俺を自失させた内容その二だ。 「遠距離って…」  俺は恐る恐る聞き返した。 「漆原さん、明日から一設配置でしょ?そしたら亜美と離ればなれになっちゃう」  聞き間違いではなかった。一設配置という言葉。  第一メモリ設計事業本部、略して一設。  俺が今勤務しているホリーシステムズは、半導体製品の企画・開発を行っている会社だ。その中でも主にLSIの開発を行う部署、それが第一メモリ設計事業本部と第二メモリ設計事業本部だ。  そして俺は、その第二メモリ設計事業本部こと二設に所属している。一設とは名前こそ似ているがやっていることも違えばオフィスのフロアも違う。 「明日から一設?俺が?」  まさに寝耳に水とはこのことだ。  そんな話俺は聞いていない。しかも、明日からだって? 「辞令出てたでしょお?先月総務にも届けきてたもん」  総務に届けが出ているなら、間違いではない可能性の方が断然に高い。いや、ほぼ百パー間違いない。  でも、それでもやはり、俺はそんな話は全く知らない! 「それに、斉藤(さいとう)くんに付き合ってほしいって言われちゃったしぃ。二股とか、最低でしょ?タイミング的にも、ちょうどいいかなって!ね」  斉藤とは、あの新入社員の斉藤か。聞けば彼女はニコニコしたまま頷いた。  斉藤は確かに格好いい。背は高く、綺麗な顔立ちをしていて、今時のイケメンと言った感じだ。仕事ぶりはまだ入社して四ヶ月だし、一緒のチームになったことがないのでわからないが、悪い噂は聞かない。ひよっこと言えど、告白されれば落ちてもおかしくないかもしれない。  だが俺だって、自分で言うのもなんだが、見目は悪くない。むしろいい方だ。斉藤にも劣ってはいない!…はずだ。 「離れても、友達でいようね」  まったく悪びれた様子もなく、亜美は小首を傾げて見せた。俺に対してまったく悪いと思っていないのだろうな。そのゴーイングマイウェイっぷりも彼女の魅力の一つなのかもしれないが、俺にとっては憎々しい。  一設は確かにフロアが違うが、八階から十階へ移るだけでビルは変わらない。自宅を引っ越す必要も全くなく、余裕で毎日会える。全然遠距離なんかじゃない。  なんだかんだ、俺は振られたってわけだ。斉藤に負けて。楽しいはずの日曜デートは、俺を失意のどん底に突き落としてくれた。  言いたいことはたくさんある。  とりあえず、ここの食事代は割り勘でいいかな。  翌朝、いつも以上にマンデーブルーを感じながら出社した俺は、すぐに課長と部長に会議室に呼び出され、異動を告げられた。 「聞いてませんよ…」 「そりゃあ、言ってなかったからね。忙しくって言いそびれちゃって。悪かったね」  全く悪いと思ってないくせに。この狸。  俺はにこやかな恵比寿顔の部長をねめつけたものの、非難の言葉はぐっと飲み込んだ。これでも社会人三年目だ。  しかし、今の仕事を離れるのは辛い。正直、亜美に振られたことよりも、本当に異動の辞令がおりたことの方が何十倍もショックだった。  俺は二設でメモリの設計、レイアウト、検証と一貫して行っていた。新しいメモリを一から生み出していくこの仕事を、俺は結構気に入っていた。  一設は違う。行っているのは主にメモリの評価だ。設計自体もするにはするが、受注した他社製品の検証が主でそちらに重きは置いていない。しかも、取り扱うメモリも二設はDRAM、一設はSRAMと違う種類なのだ。  いきなりまったく畑違いのところに放り込まれて、何ができるというのだ。それに、評価の仕事は時間との戦い、膨大な資料との格闘で、かなりキツイと聞いたことがある。 「あの、S社向けのレイアウトは今週いっぱい使う予定で、まだ終わっていないんですが」  現在受け持っている仕事の引継ぎも何もしていないことを訴えると、今度は課長がにこやかな顔を見せた。人好きのするさわやかな笑顔だが、今の俺にはどす黒く見える。 「うん。君の代わりに一人S社向けのチームに加えることにしたから。とりあえず資料だけ全部渡して、解らないことがあったら質問にやるから教えてやってくれ。手が空いたときにでも頼むよ」  つまり、新しい一設の業務をやりつつ並行して引継ぎを行えということか。何度も言うが俺はSRAMのことはまったくわからない。新しくそれに取り掛かりつつ引継ぎなんぞ行えるか。  どんどんと抗議の言葉がせりあがってくる。我慢できずに言ってやろうと口を開きかけた時、俺はふと思った。  いや待て、一設で使い物にならなければ、二設にもどれるかもしれないぞ。そうだ、行くだけ行って、俺の有能ぶりは二設でしか役立たないと分かれば。  それはなんだか男として悔しい気がしないこともないが、その作戦で行こう。  俺はぐっと心を決め、部長と課長を仰いだ。 「わかりました。今日付けで一設に移ります。それで、私の代わりにS社向けのチームに入る方はどなたでしょうか」  俺が納得したのを喜ぶように、課長は大きくうなずいた。 「うん、斉藤くんだよ」  あんまりだ。 「あーあ。お前異動しちゃったらまたレベル下がったって言われそうだなぁ」  二年間愛用した机の上のものをダンボールに詰め込んでいる俺の隣で、吉田がパソコンのディスプレイから目を離さないまま呟いた。  カタカタと淀みなくタイピングを続けるこの男は、俺の同期だった。黒縁眼鏡がトレードマークのT大出身のインテリだ。しかし天は二物を与えず、入社時から吉田の頭は薄かった。 「総務の子たち、聞こえる声で噂すっからなぁ」  やはり俺のほうは見ず、吐息のように呟く。  レベルが下がるというのは、男のレベルが、ということだ。思い切り理系なこの会社は九割が男性だが、残念なことに垢抜けない男が多い。女の子の方が多い部署なんて、総務課くらいのものだ。  そしてその総務課の女子が、『一設にはかっこいい人が多いのに、二設ってレベル低いよねー。あーあ、総務課も一設と同じ十階だったらよかったのにぃ』と噂しているのを耳にしたのは一回や二回ではない。  それを耳にする二設の男どもが、いい気分のはずはない。吉田も例に漏れず、不快な思いをしているようだ。  俺のことをレベルが高い男だと言ってくれる吉田に自尊心が僅かに擽られるが、そんな言葉では今の俺の心は癒せない。 「ならお前、代わりに一設に行ってくれよ」  今度は引き出しの中のものをダンボールに詰め込みながら、俺はフンと鼻を鳴らした。  その言葉に、吉田はやっと顔をこちらに向けてきた。 「やだよ、評価なんて」 「俺だってやだよ!」 「何事も経験だろ。いいじゃないか、キャリアアップのチャンスだ」 「何なんだよ、お前。俺に行って欲しいのか。話し相手もいなくなるぞ。寂しくないのか!」 「どっちでもいいよ。どうせすぐ上にいるんだろ。いつだって飲みにいけるし」  彼女に言ってもらいたかった台詞を、同期の禿げた男に言われるなんて。 「まあ、噂話ももう慣れたし。二設にもまだ斉藤というイケメンくんがいるからな。あいつに頑張ってレベルあげしてもらう」 「ぐっ…」  その言葉に俺は泣きたくなった。今日は出社直後からばたばたしていたので、俺がその斉藤に彼女も仕事も奪われたのだと吉田は知らない。 「なんだよ、そんなに斉藤がいいのかよ!」  思わず恨み言が口をついて出てしまう。 「漆原?」 「んだよ、みんな斉藤、斉藤って!俺のどこが斉藤に負けてんだよ!言ってみろ吉田オラ!」  掴んでいたファイルを放り投げ、訝しげな吉田に詰め寄る。百パーセント八つ当たりなのだが、今日でお隣もお別れということで目を瞑っていただきたい。 「どうしたんだよ。そりゃお前もお綺麗な顔してっけど。女にもてるのはどう考えても向こうだろ。体もさぁ、腹とか割れてそうだし」 「んだとコラァ!腹割れとったら偉いんかい!ああ?」  吉田の言葉に、俺は奴の胸倉を掴んでぶんぶん揺さぶった。  そりゃあ俺の腹は割れてなんかない。頑張って前屈したら割れるが、ただし横にだ。身長だって低くはないが斉藤には負けている。顔も、男くささが足りていないのかもしれない。  人間、本当のことを言われると頭に血が上るのだ。 「やめ、やめろって!」 「斉藤はなぁ、斉藤なんか…っ」 「はい?俺がどうかしましたか?」 「!?」  急に後ろからかかった声に、俺は吉田を掴んだまま動きを止めた。聞きなれている声ではないが、誰であるかはすぐにわかった。  ゆっくりと振り返れば、微笑をたたえた斉藤が高い位置から俺を見下ろしていた。新卒のくせして既成ものではないと解るスーツを着こなし、すらっと姿勢良く立っている。 「おうおう、今日も決まってるねぇ」  吉田がぼそりと言った。  俺もスーツでくればよかったと後悔した。取引先との打ち合わせがない限り、ジーンズにTシャツというかなりラフな格好でいい会社なので、今日の俺はポロシャツにチノパンだ。吉田だって、Tシャツにジーンズ。  斉藤と並ぶと、いかにもできるエリート社員と、三流大学の冴えない学生どもだ。  悔しい。暑さを我慢してでもスーツで来るべきだったのだ、今日は。 「漆原さん、引継ぎの資料いただきたいんですが」  斉藤がそう切り出してきてやっと、俺は吉田を離して斉藤に向き合った。  きっと先ほどの吉田との会話も聞こえていたのだろうに、飄々として突っ込んでこないあたりがムカついた。結構嫌な性格だ。いや、人様の彼女を奪うくらいだから、かなり嫌な奴なのは解っていた。こいつが俺に対して何の後ろめたさも感じていないのは明らかだ。 「これ全部」  俺は椅子に座ったまま、引越し用のダンボールとは別にまとめておいた資料を顎でしゃくった。でっかいファイルが三冊、ノートが一冊、CD-ROMが八枚。  斉藤はノートを手に取り、ぱらぱらと捲った。  俺は斉藤の方を見ないまま、淡々と説明を始めた。 「こっちが設計図のA案からD案、んで、これがデザインマニュアル。S社からの提供資料に、会議録、週報。ISO用の報告書はこれ。そのノートは会議のメモと、細かい指示内容書いてある。シミュレーション用のテンプレファイル。あと回路のCDLとレイアウトのGDSは共有サーバの俺のディレクトリに入ってるからコピーして持ってけ。チームリーダーは課長だ。ほかの事は課長に聞け」  一息に言いつけて、俺はまたダンボール詰め込み作業を再開した。  斉藤はうんともすんとも言わず、まだペラペラと資料を捲っている。解ったのなら資料を持って早く立ち去って欲しい。 「漆原さん」 「…んだよ」  斉藤が持っていたノートから顔を上げた。仕方なく俺も顔を向けると、斉藤は相変わらずの微笑みのまま、ノートをすっと差し出してきた。 「何?」 「字が汚くて何が書かれているかまったく読めないので、このノートはいりません」  俺は何を言われているのかまったく理解できずに、暫くぽかんと斉藤を眺めていた。渡されたノートを無意識のうちに受け取り、斉藤が残りの資料を抱えても、まだ脳は理解を拒んでいた。 「では、解らないことがあったら一設まで伺いに行きますので、よろしくお願いします」  そう言った斉藤が自席へ戻っていく背中を、俺はアホ面で見つめていた。

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