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第2話
十階のフロアは八階よりも狭かった。
「斉藤の野郎っ…いつかぜったいぎゃふんと言わせてやる…!」
ダンボールとパソコンを載せた台車を怒りのままにガラガラと押しながら、俺は一設の扉を開いた。社員証が認証され、自動ドアが開く。
中に入るとすぐまた扉が二つあった。ウチの評価業務はすべて受注業務なので、機密性が高く、同じ一設でもチームごとに部屋わけがされていた。
俺は二係だと聞いていたので、そちらの扉をゴンゴンと叩いた。返事はない。俺の社員証でロックが開くのか疑問だったが、やってみるとあっさり開いた。
「……失礼しまーす」
おそるおそる中を覗く。一設にくるのは、というか十階に来るの自体俺は初めてだった。
「すみません…て…誰もいないのか?」
そこは無人だった。机が六個並べられ、コンピュータがその上に所狭しと置かれているだけだ。パソコンの電源はついていて、画面を見ればなにやらシミュレーションを流していることは解る。だが人はいない。
まだ昼までは一時間ある。皆いっせいに休憩でも取っているのか、会議でもやっているのか。自分の席もわからない俺は、台車と共に取り残されているしかない。
「なんなんだよ」
とりあえず、入り口近くにおいてあるパイプ椅子に腰掛けて、辺りの観察を始めた。部屋の造りは前いた二設と同じだ。ただ、ちょっと狭くはなっているが。
ふと隣のロッカーに目をやると、そこにマグネット式の名簿がぶら下がっていた。
山科、本宮、浅見、宝島と書かれており、在室、テスタ、会議、帰宅、休憩、と表のようになっている。そして全てのマグネットが、テスタの位置に置かれていた。
「テスタ…ってテスター室のことか」
俺は使う機会がなかったが、評価は専門の機械を必要とし、その機械一つで一部屋を独占している。その部屋のことをテスター室と呼んだ。どうやら二係の皆様はテスター室に行っているようだ。
なるほどと俺が納得したとき、扉が急に開いた。
「わっ!」
すぐ傍に座っていたので、驚いた。思わず弾かれたように立ち上がると、入ってきた人物と目が合った。
「あ…」
今度は別の意味で驚いて、俺は言葉が出なかった。
―――綺麗、だ。
入ってきた人物は男で、白いYシャツにジーンズという簡素な服装だったが、とても華やかに見えた。切れ長の瞳に見つめられ、どきんと心臓が跳ねる。
視線は俺よりも数センチだけ上にあり、手足がすっと長く見えた。指も長く、鬱陶しそうに伸びた前髪を払った。絹糸のような黒髪がはらりと舞う。
「誰だ?」
薄い唇から言葉が漏れた。予想に反したテノールで、俺は投げかけられた意味を理解するよりその甘い響きに酔っていた。どくどくと頭にまで血が巡り、体の奥が締め付けられるような錯覚を感じた。
「おーい?」
もう一度かけられた声で我に返った。
「あ、俺…っと、私、本日付で一設配属になりました…」
慌てて自己紹介をしようとしたら、言葉の途中で男はああ、と声を上げた。
「えーと、漆原はるか、だろ?」
どうだ、当たりだろうと言わんばかりの得意顔で、男は俺の顔を覗き込んできた。
名前を言い当てられたことよりも、顔が接近したことで心臓が跳ねた。近くで見ると余計に解る。顔のパーツは全てバランスよく配置され、整っている。決して女性的ではなく、ちゃんとした男性に見えるのだが、本当に綺麗なのだ。
「あ、えと、漆原、はるよし、です」
俺はしどろもどろになりながら、名乗った。
俺の名前は晴佳と書く。たまに『はるか』と女の子のような名前と勘違いされるが、正しくは『はるよし』だ。
男はぱしぱしと目を瞬せた。ああ、まつげも長いんだな。
「あ、ハルヨシ?まぁどっちでもいいじゃん。よろしく、ハルちゃん。俺は…」
「本宮 さぁーん!テスター空きましたよぉー!」
急に若い声が割り込んできた。しかし姿は見えない。部屋の外からのようだ。
声に反応した男――本宮さん、か――は、にんと嬉しそうに笑って、俺に向き直った。
「おお、やっと空いたか。おい、来いよ。みんなあっちにいるから」
そう言ったが早いか、俺の腕をとり今入ってきたばかりの扉を出る。
「ちょっ、あっ、うっ、えっ、あっ」
うっ、腕!綺麗な指が俺の腕に触れている!
掴まれた部分から一気に熱があがりにあがって、俺は歩くことはおろか思考もショートしてしまい、じわりと涙が滲んできた。しかし、滲んだものは涙だけではなかったらしい。
動かない俺を訝しんで振り返った本宮さんが、澄んだ瞳を丸く開いた。
「おいおい!鼻血でてるぞ!」
テスター室に入るや否や、俺は大爆笑で迎えられた。
そりゃそうだ。半泣きで真っ赤になりながら鼻血を垂れ流す成人男性なんて、笑い者以外なりようがない。
室内にいたのは全部で三人、そこに本宮さんと俺が入りテスター室は満員となった。
「ぶあっははぁっ!こりゃまたおもしれーのが来たな!」
「漆原です。よろしく、お願い、します」
一番笑っているこのおっさんは山科 課長というらしい。ちゃきちゃき江戸っ子みたいなノリで、ばしばしと俺の背中を叩いてくる。結構痛い。
「大丈夫ですか?最近暑いですから…はい、どうぞ」
そう言って唯一笑わないでティッシュを差し出してくれたのは、先ほど本宮さんを呼んだ声の主だった。
ティッシュを箱ごと受け取って、急いで鼻を押さえた。恥ずかしい。
「自分は宝島輝 です。よろしくお願いします!」
ティッシュの青年は人好きのする笑顔で名乗った。まだ一年目という彼は、なるほどフレッシュさであふれていた。あの斉藤と同期とは思えない。頭をぽふぽふと叩いてあげたくなるような初々しさがある。
「うふしばらはるよひでふ。こひらこそよろひふ…」
ちゃんと挨拶したかったのに、ティッシュのせいで、いや、俺が鼻血なんぞ出したせいでだいなしだった。さすがのフレッシュ宝島くんも苦笑していて、その背後からはさらなる笑いが起こった。
「あーおかしい。仕事できる人回してほしいって頼んだんだけどな」
山科課長に近いノリで笑うのは、ぱっと見ガテン系の仕事でもしているんじゃないかと思ってしまうナイスミドルだった。一設のレベルを上げている男の一人だろう。
「どーも、係長の浅見 です」
係長。つまりこの人が俺の直属の上司となるわけだ。
「よろひふおねがいしまふ」
また爆笑が起こってしまった。ちくしょう。
そして、俺は最後の1人――本宮さんに目を向けた。すると本宮さんも隠すことなくずぅっと笑っていた。恥ずかしい。でも笑顔も見とれてしまいそうなくらい素敵だった。
「俺は本宮。山科さんと浅見さんは兼任の仕事があるから、ここでのチームリーダーは俺。分かんないことあったらいっぱい聞けよ」
ならまず趣味とか聞いてもいいですか!
と言いたいのをぐっとこらえ、俺は大人しく頷くにとどまった。
「はひっ!」
ダメダメなところを見せ付けて二設に戻ってやろうと思っていたが、予定変更だ。本宮さんに格好悪いところなんて見せたくない。
俺は一設に骨を埋める覚悟を決めた。
とりあえずその日は荷物の片付けと、チーム内の打ち合わせで終業時間を迎えた。まったくの畑違いだが、基礎の基礎は同じだった。やっていけないことはなさそうだ、というより、ばしばしと仕事をこなしていいところを見せたい。本宮さんに。
そう、俺はこの半日ですっかり本宮さんに夢中になってしまっていた。打ち合わせ中も、ついつい本宮さんに目が行ってしまう。濁りのない声が流れるたび、じっと聞き入って記憶に焼きつけようと躍起になった。
ラッキーなことに、俺の席は本宮さんの隣だ。来たばかりで分からないことが多いだろうから、すぐ質問ができるようにそう配置してくれたらしい。なんとありがたいことか!ちなみに前は宝島で、本宮さんの正面は浅見係長だ。
どうして今まで同じ会社にいて、こんな素敵な人の存在を知らなかったのだろう。本宮さんに会うまでの二年間がなんだか無駄に思えてしまった。
まだ残業などできるレベルではない俺は、ハルちゃん上がっていいぞ、という浅見係長の言葉を受けて帰り支度を始めた。
今日のところは大人しく帰って、本宮さんのことを思い出しながらまったり酒でも飲もう。そう決めた時だった。本宮さんが俺に向かって尋ねてきた。
「あー、ハルちゃん」
「は、はい!」
このハルちゃん呼びは、今日でもうすっかり定着してしまった。本宮さんに呼ばれるのは嬉しいのだが、課長や係長、さらには宝島までそう呼ぶようになってしまったのは少しいただけない。まあ、宝島はハルさんだが。
「今日この後空いてる?」
「えっ…!」
まさか、そんな、まさか、そんな。まさか!そんな!
俺の頭は一瞬のうちにあらゆる想像を膨らませた。予定を聞いてくる、ということは、空いていたら、もしかして、一緒に、食事、とか…二人でバーで飲むのもいい、いやいや、大衆居酒屋でもいい、いろんな話をして、いろいろ聞いて…。一気に血が頭まで昇って、真っ赤な顔で俺は懸命に頷いた。
「はいっ!あ、空いてますガラ空きです暇で暇でどうしようもないくらいに!」
「はははっ、どんだけ暇なんだよ。顔に似合わず寂しい男だなぁ」
本宮さんがたいそう可笑しそうに笑う。笑われたって構わない。誘っていただけるのなら!
「でもまぁよかった。空いてるなら飯食いに行こう」
「はっ、はい!行きます!」
天にも昇る気持ちとはこのことだ。しかし、次の言葉に俺の気持ちは地上に戻ってきた。
「じゃ、輝と先に行ってろよ。先に始めてていいから。俺、もう一本シミュ流したら行くからさ。一時間かかんないくらいかな。輝、店大丈夫か?」
「あ、はい!」
宝島が勢いよく立ちあがった。
俺と本宮さんの二人だけではなかったらしい。宝島に罪はないが、少しだけ憎い。
「ハルさん、焼き鳥好きですか?駅の裏通りにおいしいとこあって、そこ予約してるんですけど」
予約という言葉にピンと来た。どうやら、ただご飯に誘ってくれたわけではなく、俺の歓迎会のようなものらしい。そうだよな。いきなり誘ってもらえるなんてずうずうしい考えだった。それに、二人きりだと緊張しすぎてまた鼻血噴いちゃうかもしれないし。
黙り込んだ俺に、宝島が不安そうな顔を見せた。
「あ、もしかして焼き鳥苦手でした?だったら焼き肉とか…あ、イタ飯もうまいとこありますよ」
「いいや、焼き鳥好きだよ。嬉しい」
憎い気持ちはするっと消えた。むしろこんないい子なのに申し訳ないと、俺は笑顔を取り繕った。途端に宝島も笑顔になる。
「良かった!じゃあ行きましょう。案内します」
そして俺と宝島は二人、仕事が詰まっていて来れない課長及び係長、遅れる本宮さんに断りを入れてオフィスを後にした。
オフィスが入ったテナントビルから駅までは、徒歩で五分ほどだ。会社のあたりは同業他社がたくさん立ち並んでいるオフィス街のため、駅に近づいて行くほどに飲み屋の激戦区となってくる。まだ六時を少し過ぎた頃だが、店々はすでに賑わっていた。
隣を歩く宝島は、絶えず話を振ってきた。おしゃべりというよりも、相手を退屈させまいとしているのだろう。本当に気の付く青年だとしみじみ思った。
「あ、じゃあ、ハルさんS社向けのチームだったんですね。俺、入社したての頃は二設を希望してたんですよね。レイアウトがやりたくって」
「へぇ、そうなんだ?」
「いつかはレイアウトもしてみたいですけど、一設でよかったです。みんな良い人ですし、評価もやりがいあります。まだ分かんないことばっかりですけど…楽しいですよ」
にこにこと笑みを絶やさない宝島に、本当に充実しているのだとわかる。俺も改めて、一設配置になってよかったと思った。
「俺も評価はまったく分からないよ。評価に関したら輝君は先輩だから、ご指導よろしくね」
「ええっ、やだなぁ!ハルさんめちゃめちゃ仕事のできる方だって聞いてますよ。だから、畑違いでもいいから無理やり一設に引っこ抜いたんだって課長が言ってました」
「え、そうなの?」
斉藤を入れる代わりに追い出されたのではと思っていた俺は、その言葉をすんなり信じることにした。一気に気分が良くなった。
つまり斉藤は俺のお下がりをもらったにすぎないわけだ。そうだよ、女だって考えようによっちゃお下がりだ。これはいい。
「あ、あそこですよ」
高架下を抜け駅裏に出るとすぐ、宝島は細い道にある赤い提灯がぶら下がったお店を指差した。
小ぢんまりとした店だが中は意外に広く、カウンターのほかにテーブル席が五つ、さらに奥には座敷があった。まだ席は三つ埋まっている程度だ。これからどんどん込みだすのだろう。
宝島に続いて暖簾をくぐると、座敷に通された。すぐにお絞りとお通しがやってきた。
「最初はビールでいいですか?」
「あ、うん。でも、本宮さん待ってなくていいのかな?」
生中二つ、と店員に頼む宝島に、俺は慌てて尋ねた。本当は会社で本宮さんを見つめながら待っていたかったのだが、邪魔をしては悪いと出てきた。しかし、いくらなんでも先輩が働いているのに。しかもそれは本宮さんだというのに。
俺の気持ちを余所に、宝島はあっけらかんと手を振った。
「大丈夫ですよ。むしろ始めてないと気を使うなって怒られちゃいますから」
「怒られる?」
「そうです。本宮さん、人に気遣ってもらうの嫌いなんですよ。だから、遠慮せずどんどんいっときましょう!きっと本宮さんのおごりですしね!」
訳知り顔で語る宝島は、そうとう本宮さんに懐いているように見える。ちょっとだけ嫉妬心が芽生えなくもないが、今のうちに宝島から本宮さんの情報を引き出せるだけ引き出してしまおうと俺は決めた。
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