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第3話

 すぐにやってきた中ジョッキを掲げて杯を交わし、俺は宝島と会話を弾ませた。  本宮さんは入社五年目の二十七歳、独身。ふたご座のB型。来年には係長になるのではないかと噂されている実力者らしい。趣味はドライブと映画鑑賞。ジブリが好きらしい。アニメが好きとは可愛い一面もあるのだな、なんて思ったりして。  あれよあれよとジョッキは空になり、店員が二杯目を持ってきた。注文していた料理もぼちぼちテーブルに並んでいく。 「そう言えば、本宮さんの下の名前って何?」  俺としたことが、大事な所を聞き逃していた。 「ああ、理人(りひと)さんですよ。理科の理に、人間の人で理人さん」 「へぇ、理人さんかぁ…」  理人さん、理人さん。つくねを咀嚼しながら、俺は心の中で何度もその名を繰り返した。綺麗な名前だ。あの人にぴったりの。 「なんかハルさん、本宮さんのことばっかり聞いてきますね」  別にやましいことなどないはずなのに、俺はぎくりと体を強張らせた。素直に本宮さんにすごく興味があるからだと言えばいいのに、とっさに言い訳を繕ってしまった。 「え?あ、いやほら、同じチームの人のことはよく知っとかないとな~って」 「えー、それなら俺のことも聞いてくださいよ」  そして結局、俺は宝島のステータスまで知ることとなった。それが浅見係長にまで及ぼうとした時に、待ち望んでいた声が割って入ってきた。 「おっ、やってるな」  本宮さんが靴を脱いで座敷に上がってくる。 「本宮さん、お疲れ様です!お先始めさせてもらってます!」  立ち上がって頭を下げたいところだが、座敷なのでそうもいかなかった。大人しく座ったまま、俺はぺこりと頭を下げた。 「本宮さん、お疲れ様です。駆けつけ三杯ですか?」  宝島が悪戯っ子のように笑いながら、本宮にジョッキを掲げて見せた。先輩に対してそんなこと言えるくらいだから本当に仲がいいのだろうし、本宮さんが垣根を感じさせない人なんだと思う。 「あのな、俺は営業職でも新人でも学生でもないの。無茶な飲み方するか馬鹿」  笑いながら軽く宝島の頭をはたき、本宮さんは宝島の隣に座った。  くそ、羨ましいぞ、宝島!俺だって本宮さんに叩かれたいし隣に座ってもらいたい。 「早かったですね」  ビールを注文する本宮さんに、宝島がそう語りかける。確かに、まだ一時間も経っていない。  すると本宮さんはお通しを突っつきながら、 「ん、ああ。ダッシュで終わらせてきた。せっかくのハルちゃんの歓迎会だから」  な?と俺の方に向けて微笑みを見せた。 「―――――っ!!」  きゅぅぅぅぅぅんっと音が鳴った。  鳴ったのはもちろん俺の心臓だ。倒れなかっただけ、俺は偉いと思う。鼻血もなんとか堪えた。あまりの嬉しさに声も出ず、ただただ今のセリフを頭の中でリフレインさせた。  俺のため、俺のために一生懸命仕事をこなし、俺に会いに来てくれた…! 「浅見さん来れないから、どうせここ俺持ちだろ?なら最初からがっつり食っとかないと割にあわないしな」 「ゴチになりまーす!」  と続いた会話は俺の耳には届いていなかった。 「ま、改めて、よろしくな。期待してるぜハルちゃん」 「はい!」  俺は感極まって泣いてしまいそうなのを堪え、ジョッキを打ち鳴らした。  もう舞い上がって舞い上がって舞い上がりまくってしまい――  ―――失敗した。 「大丈夫っすか?ハルさぁん」 「らめ…だいじょぶ…ない…」  俺は宝島にしがみついて、ふらふらと夜道を歩いた。夜十時を回り、俺と似たような奴もちらほら見受けられる。  調子に乗ってしまった俺はぐいぐいと勧められるまま酒を飲みまくり、あっという間に潰れてしまった。正直、話した内容もほぼ思いだせない。普段なら自分の限界をちゃんと見極めてこんな醜態を晒したりなどしないのに、情けなくってしょうがない。 「ホント、ハルちゃん面白いよなぁ。浅見さんとかすげー喜びそう。お酒弱いなら無理しちゃダメだろ」  朗らかに笑う本宮さんに、俺は恥ずかしくて堪らなくなって俯いた。本宮さんの中で俺はもう、しっかり面白キャラとして定着してしまったらしい。そんなことないのに。周りの俺のイメージは仕事ができる爽やかイケメンくんのはずなのに。  それにしても、本宮さんも宝島も俺以上に飲んだはずなのに、ザルだったとは。これからこの二人と飲むときは気をつけようと心に誓った。 「駅まで行くの辛いよな。タクシー止めて来るから、輝、みといてやれよ」  店から出て数メートル。まっすぐに行けば大通りがあり駅に続くのだが、確かにそこまで歩くのも辛い。 「す、すみません…」  俺は自販機の隣の植え込みに腰を下ろし、本宮さんの言葉に甘えた。宝島も優しい手つきで俺の背中を撫でてくれる。 「ごめんな…輝君」 「気にしないでくださいよ。あ、肩貸しましょうか?どうぞ」  宝島は俺の隣に座り、ぽんぽんと肩を叩く。俺は素直にその肩に頭を預けた。宝島は体重がかかって重いだろうが、おかげでだいぶ楽だ。  俺はそっと目を閉じた。そのときだった。 「漆原さんじゃないですか」  聞きたくもない声に俺は目を開けた。声がした方にそろりと目を向ければ、そこにはあのぎゃふんと言わせたい奴ナンバーワン、斉藤が立っている。今帰りなのか、スーツ姿の奴は一人だ。 「あ、斉藤!」  俺が何も言いたくなくて黙り込んでいると、宝島が声を上げた。そうか。同期だから知り合いなのか。 「宝島か。何やってるんだ?」 「いや、今日から俺とハルさん同じチームになって、歓迎会だったんだ」 「ハルさん…?ああ、漆原さんのことか。それで、なんで仲良く肩並べてるんだ。べったりくっついて」  みっともない、そう言わんばかりの揶揄するような声。俺の情けない姿を嘲笑っているのだ。宝島には悪いが、俺はそのまま彼の肩に頭をのせていた。起き上がるのは辛いのだ。 「ハルさん、酔っちゃったんだよ」 「え、漆原さん潰れたんですか?」  はっと笑う声が聞こえた。畜生、悔しい。でも言い返す気力もない。どうでもいいからさっさと帰ればいいのに。そればっかりを思いながら、俺は斉藤の姿が見えないように宝島の肩にぐいぐいと顔を埋めた。 「ハルさん?大丈夫ですか?気持ち悪くなりました?」  すまん、宝島。 「……後輩に迷惑かけるのはどうかと思いますよ」  刺々しい斉藤の声。俺はもう一度心の中で謝罪した。すまん、宝島。  そのとき、たたたっと駆け寄ってくる足音が聞こえた。人通りはすごく多いのだが、俺にはそれが本宮さんのものだと分かった。ちらっと顔を上げると、あたり。本宮さんが駆け寄ってきた。 「おい、タクシーつかまえたぞ。ちょっとだけ歩けるか」  俺のために、走ってタクシーを拾ってきてくれるなんて、なんて優しいのだろう。  俺はこくこくと頷いて、立ち上がろうとした。しかし、足がふらつき体が傾いだ。 「っわ…!」 「あっ!ハルさん!」  宝島の焦った声が聞こえた。地面にぶつかる。本宮さんの前でさらに間抜けな姿を晒してしまう。そう思っても重力にはさからえない。  しかし、俺の体は地面に近寄るより先にぼすんと暖かな体温に包まれた。 「!!!!」 「大丈夫か?」  間近に本宮さんの心配そうな顔が迫る。  ただでさえ酒で赤くあった顔が、より一層熱くなった。  本宮さんに、抱きとめられている…!!  結構しっかりしていて、暖かい。俺の脳内は真っ白に染まった。ただ本能が、手を口元に当てる。鼻血が出そうだからだ。  しかし、俺の頭はあっという間に思考を取り戻した。なぜなら、本宮さんから引きはがされたからだ。それも、斉藤の手によって。 「あーあ、駄目でしょう漆原さん」  俺の腕を引いた斉藤は、まるで俺の保護者であるかのような口ぶりだ。 「あれ?誰?」  本宮さんが首をかしげると、斉藤はにっこりと嘘っぽい笑顔を作った。 「あ、私、同社二設の斉藤と申します。漆原さんにはとてもお世話になっておりまして」 「俺の同期なんですよ」  宝島も付け加える。本宮さんは、そうなんだ、と頷いた。 「俺は一設の…」 「あ、知ってますよ。本宮さんでしょう。宝島からお話を聞いたことがあります」 「あ、そうなんだ?それにしても君、輝と同期には見えないなぁ」 「あはは、よく言われますよ」 「ちょっと、ひどいですよ」  なんだか三人で盛り上がっているが、とりあえず斉藤、手を放せ。  振り払おうとした腕は、ちょっとの振動にしかならなかった。それでも斉藤は気付いて、俺に目を向けた。 「そうそう、漆原さん一人で帰れそうもないですね」 「そうだ、タクシー待たせてるんだった。俺が送っていくよ」  本宮さんの申し出に、俺は気持ち悪さもふっとんだ。送って下さるのですか、そんな申し訳ないですよろしくお願いしまっす!酔い潰れてしまったのも、ラッキーだったのかもしれない。  しかし、そんな俺の幸福をぶち壊す存在があった。 「あ、なら俺が送っていきますよ。漆原さんの家分かりますし」  斉藤の言葉に俺は目を剥いた。 「は……?」  嫌だいやだ、何を言ってやがる!俺の家なんて知らないだろうが! 「あ、そうなの?だったらお願いしちゃおうかな。大通りにタクシー止めてるから」 「はい、無事に送り届けますよ」 「ハルさん、お大事に!」 「ハルちゃん、ちゃんと休めよ」 「も、も…みゃ、さん…!」  俺は小さい子供のようにぽんぽんと頭を撫でられた。それは嬉しい、もっとずっと撫でていてもらいたいのだが…いやいや、本宮さん、すんなり引き下がらないでください。俺を送ってください貴方がいいんです…! 「ほら、あんまり待たせてると行っちゃいますよ、タクシー。じゃあ、失礼します、本宮さん」 「ああ、これ、タク代」 「いいですよ、俺が払います。大事な先輩ですからね」  本宮さんが差し出した万札を払いのけた斉藤が、ぐいと俺の腕を引き腰に手を回して支えてきた。そして歩き出す。  どういった魂胆だ、こいつ!嫌だ!何よりもこいつに送られるのが嫌だ!  しかし心の声はあまりの驚きに声にならず、俺はだんだんと小さくなっていく本宮さんと宝島を見詰めながら、売られていく子牛の気分でタクシーへと押し込まれたのだった。  タクシーに乗り込むと、後から乗り込んできた斉藤がすぐに「とりあえず生田駅の方に行ってください」と言った。あいよ、と適当な返事をしたおっさんが、タクシーを発進させる。  俺はその姿を驚きをもって見つめた。俺の家は会社の最寄駅から四駅離れた生田駅、そこから徒歩三分のマンションだ。まさか本当に俺の家を知っているというのか。  俺の視線に気づいた斉藤は、何もかも見透かしたようにシニカルな笑みを浮かべた。 「ああ、最寄駅は吉田さんから聞いたことあるんで知ってますけど、家までは知りませんよ。駅に着く前に案内してください」  吉田め!なんでこんな奴に俺の個人情報を流すのだっ!  俺は吉田の禿げ頭からさらに髪をむしってやる決意をした。そして、運転手のおっさんに詳しい場所をとぎれとぎれなんとか告げた。  暫く車の揺れに体を預け、俺はぐったりと目を閉じていた。こうなれば斉藤などいないと思い込むのが一番だ。しかし、斉藤はそうさせてくれなかった。 「ハルちゃん、なぁんて呼ばれてるんですね」  どこか棘のある言い方。俺はむっとして低い声で応えた。 「う、るへぇ…文句、あんのかよ…」  ただし、呂律はうまく回らなくってかっこはつかなかった。 「いいえ、別に。なんか抜けてて貴方にはぴったりだと思いますよ」  こいつは厭味しか言えないのか!  俺はもう何を言われても無視すると決めた。なんで今応えてしまったのだろうと後悔の念が胸を占めた。  しかしそう決めると、もう斉藤は話しかけてこなかった。不貞腐れて再び瞳を閉じる。するといつの間にか、俺の意識は夢の世界へと旅立ってしまっていた。  その日見た夢は最高だった。  本宮さんが酔って動けない俺を介抱してくれているのだ。かいがいしく世話を焼き、部屋に運び入れてくれ、皺になるからと服を脱がせてくれた。あの綺麗な手で。  そのまま帰ってしまいそうな本宮さんを、俺は慌てて引きとめた。現実だったら絶対に出来まい。縋りついてまだ傍にいてくれと強請った。もっと本宮さんのことが知りたいと訴えた。  本宮さんは綺麗な微笑みを見せてくれて――  ピピピピピピピピ…  聞きなれた電子音に、俺は目を覚ました。上体を起こすと、頭にずきんと痛みが走る。 「う…ぅ…」  カーテンの隙間から光が射すこの部屋は、間違いなく俺の部屋だ。ベッドサイドの目覚まし時計を止めると、針は七時を指している。俺は取り合えず、今が朝であることを知った。 「水ぅ…」  のそりとベッドから這い出て、キッチンに向かう。コップに水を注ぐと一気に呷った。  頭が痛い。完璧に二日酔いだ。  昨日、いったいどうやってこの部屋に帰ったのか、記憶がない。あの厭味大賞斉藤とタクシーに乗ったところまで覚えている。しかし、タクシーから降りてこの部屋までやってきた記憶がない。  ふと体を見ると、俺は下着だけの姿だった。着ていた服は、綺麗に畳まれてベッドサイドに重ねてあった。 「………」  嫌な予感が胸をよぎる。泥酔していた俺が、あんなにピシッと服を畳めるとは思えない。  ということは、やはり。昨日タクシーに共に乗ったのは斉藤だったが… 「シャワー浴びよう…」  答えを導き出すのが怖くて、俺は逃げるように浴室に向かった。

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