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第4話

 出社するとすでに宝島がパチパチとキーボードを叩いていた。ちょっと早めに出てきたつもりだが、どうやら俺は二番目だったらしい。  ガチャリと開いた扉の音に反応して、宝島がモニターから視線を外した。 「あ!ハルさん、おはようございます!昨日は大丈夫でしたか?」  宝島の爽やかな笑顔と対照的に、俺は苦笑を浮かべた。デスクに鞄を下ろしながら、手を振ってみせた。 「大丈夫。ちゃんと家に帰ってしっかり寝たし。迷惑掛けてごめんね」 「いえ、大丈夫ならよかったで…」  急に止まった宝島の声に、俺はパソコンを立ち上げようとしていた手を止め彼を見た。宝島は目をぱちぱちとさせながら、ほんのりと頬を赤くした。どうしたというのだ。 「輝君?」 「あ、えーっと。ハルさんって独身って言ってましたよね?」 「そうだけど」  記憶がちょっとあやふやだが、そういった話は昨夜したはずだ。 「じゃあ、彼女さんと同棲とかされてたりします?」 「え?」  なんでいきなりそういった話になるのだろうか。かなり不思議に思いながらも、一人暮らしだし今は彼女もいない、そう答えようとした時、入口の扉が開いた。  本宮さんだ。ちょっと眠そうにしながら、髪を掻きまわしつつ入ってきた。今日もポロシャツにチノパンとラフな格好だが、気だるげな様子が何とも麗しい。朝が弱いのかな。 「おはようございます」  俺と宝島の声が被った。 「おー、おはよ。……ハルちゃん、二日酔いとか平気?」  あくびを噛み殺しながら、本宮さんは隣の席に座る。 「はい、もう…昨日は本当にご迷惑おかけしました」  俺がぺこりと頭を下げると、いいよいいよと明るい笑顔を向けてくれた。 「つきあわせちゃったこっちも悪かったしな。にしても…」  本宮さんの言葉が急に濁った。そして何故か真顔でじっとこちらを見ている。  切れ長の瞳でじっと見つめられ、嬉しいというよりも恥ずかしくなってくる。頬がだんだん熱くなって、俺は隠れてしまいたかったが、急に机の下に潜り込むのはあまりに不審すぎる。 「な、なんですか…?」  気力を振り絞って尋ねてみると、真顔から一転、にやりと形容するにふさわしい顔をして、本宮さんは楽しそうに言った。 「ハルちゃんも隅に置けないなぁ。昨日はあれだけ暇だとか言って、彼女いるんじゃん」 「へ?彼女…?」  何故いきなりそんなことを言い出すのかさっぱり分からない。そう言えば、宝島も彼女がどうの同棲がどうのと言っていた。 「でも、あんな酔ってたら勃たないんじゃない?」 「本宮さん、なんてこと言うんですか」 「あー。そっか。朝から下ネタはいかんね」 「朝とか夜とか関係ないですって」 「輝、お前って結構潔癖だね。下ネタは嫌いかね」 「嫌いじゃないですけど、勃たないとか言ったらハルさんに失礼でしょう」 「いや別に不能とか言ってるわけじゃないし」  何故か本宮さんと宝島はやんやと盛り上がっている。  あの形の良い薄い唇から下ネタがとんだことは衝撃的だったが、俺の脳はその事実に反応するより、どうしてそんな話になったのか検索するので必死だった。  だって俺には彼女はいない。二日前に振ら…別れたばかりだ。  混乱している俺に対し、本宮さんは相変わらず楽しそうにしている。彼は左手の人差し指でトントンと自分の首筋を叩きながら言った。 「彼女、独占欲強いんだね。そんなはっきりキスマーク付けるなんて」  キスマーク!?  俺は反射的に首筋を抑えた。  そんなものにはまったく心当たりがない。昨日は帰って寝て…というか寝て帰ってそれで終わりだ。それに、今朝鏡を見たときそんなものは見当たらなかったはず… 「ちょ、ちょっと、失礼します!」  俺は慌てて立ち上あがり、部屋を飛び出した。目指すはトイレだ。  駆け込んだトイレはまだ朝だからか、誰もいなかった。好都合だと思いつつ、俺はピカピカに磨かれた鏡の前に立つと、そっと首から掌を放した。  何もない。…が、俺は本宮さんが左側に指を当てていたことを思い出し、そっと首を右にひねってみた。するとそこには。 「うっそ…」  それはキスマークだった。虫刺されだなんて言い訳は通用しない、親指の爪ほどの鬱血、紅い円。 「なんでだ…?」  俺に思い当たる点は何もなかった。そうだ。いくらキスマークに見えようとも絶対にキスマークであるはずがない。考えられる可能性は、寝ている間にどこかにぶつけてしまったとか、引っ掻いてしまったとか。  見る限りそうは思えないが、そうとしか考えられない。なんて不運なんだ俺は。 「なんて紛らわしい…」  俺は本宮さんと宝島には勘違いされてしまったことを思い出し、赤面した。これでは言い訳しても信じてもらえないだろうが、変な風に思われたくはない。特に本宮さんだけには。  部屋に戻った俺は二人にちゃんと説明をしたのだが、信じてもらえたかは定かでない。というか、本宮さんも宝島もどこかにやけていてきっと見え透いた嘘だとか思っているのだろう。  幸運なのかどうなのか、山科と浅見は今日は違う業務で出張らしい。だが結局俺は、絆創膏を張って過ごす羽目になったのだった。  そんなアンラッキーはあったが、仕事の方は順調だった。覚えることは多いが、プログラムを組むにしてもちょっとの違いだけだ。今取り組んでいるSRAMの電子回路や原理も理解した。この調子なら今日の午後からでも戦力として役立つのではないだろうか。 「流石だね。もう論理検証全部任せてもいい?」 「はい、大丈夫です」  本宮さんに褒められて、嬉しさに頬が緩んでしまう。  でも、俺がここまでできるのは本宮さんのおかげだった。俺が質問をするたび、わざわざ手を止めて懇切丁寧に説明をしてくれたのだ。しかもその説明が分かりやすい。本宮さんはきっとプレゼンなんかも上手なんだと思う。 「いつまでにできるかな」 「シミュレーションを実際流すとなると…本数がやたら多いですよね。1ビット救済と2ビット救済…あとXスキャンが256パターンですから…救済はすぐ終わるでしょうけど、スキャンは間引きできない分シミュの時間かなり長そうですし…」 「ああ、間引きしないで流したらたぶん三時間はかかると思う。うちのチームがとれるサーバーのシミュ本数、10本までなんだよね。増やしてくれって頼んでんだけど」 「そのうち俺、何本もらえますか?」 「んー…今は山科さんが1本、浅見さんが1本、俺が4本、輝が2本だから…2本…じゃ少ないよなぁ。じゃあ3本まで」 「わかりました。じゃあ、来週の火曜まで時間ください」 「ん。じゃあそれでよろしく」  ぽん、と俺の肩を叩き、本宮さんが立ちあがった。煙草を吸いに行くようだ。俺は煙草を吸わないので、ついていけないのが残念だ。  本宮さんはスキンシップがなかなか多い人だ。おかげで、だいぶ慣れてきた。ちょっと赤くなりそうになってしまうが、もう触れられただけで鼻血を出す失態は晒さなくて済みそうだ。  俺はよし、と気合をいれ、任された仕事に取り掛かった。  それから仕事にすごく没頭していて、とあるメールが届いていることに俺は気付かなかった。普段ならメールチェックは定期的にするのに、今日に限ってうっかりしていた。 「メールを送ったのに返信をいただけないから、忙しいって言うのに…わざわざ来る羽目になってしまいましたよ」  俺の馬鹿!  厭味ったらしさ全開の斉藤を前に、俺は後悔の限りを尽くした。  斉藤から引き継ぎに関する質問メールが来ていたのだ。できるだけ急ぎでと書かれたメールにさっさと返信してしまえば、斉藤と顔を合わさずにすんだのに。  まったく返事のない俺に痺れを切らした様子で、斉藤はわざわざ一設のフロアまで乗り込んできたのだった。  宝島がまたほいほい中に入れちゃうんだもんな。  というわけで、俺は今、部屋の隅っこで斉藤と対峙しているのだ。こいつがまた今日もびしっとスーツで決めてやがる。 「メールの件…って言っても、目を通していないみたいなので言いますが、レイアウトのフロアプランに関しての資料がまったくないのでそちらの説明をしていただきたいのですが」  なんでこういちいち厭味を付け添えるんだ。普通にフロアプラン教えてくださいでいいだろ!と思いつつも、メールを無視してしまったことは事実なので俺はぐっと耐えた。  それにこれは仕事だ。俺は先輩なんだから、ちゃんと説明してやらないと。  そう言い聞かせたのだが、フロアプランの件について考えていると、さらなる怒りがふつふつと湧き上がってきた。  資料がまったくないと言っていたフロアプラン。それは。 「フロアプランは…お前が突き返したノートに書いてあるんだよ!」 「ああ、あの汚い字の…」 「別に、汚くねーよ!」 「少なくとも俺には解読不可能でした」 「~~~~~っ!」  ぶん殴ってやりたい。 「っわかった…今から清書したやつをメールで送る。それでいいだろ!」 「はい」  俺は頷く斉藤を置いて大急ぎで自分のデスクに戻り、フロアプランをパソコンに打ち込んだ。そんな大した量ではない。怒りのパワーを上乗せして、三分もかからずに終わり、憎き斉藤のアドレスに送信をした。 「すごい早業だな、タイピング」  不意に、隣の本宮さんから声が掛かった。業務上、タッチタイピングはエンジニアならば皆早いのだが、お世辞であろうと顔がにやけてしまう。 「そ、そうですか?」 「まさに鬼気迫ってる感じですね」  本宮さんに言ったのに、後ろから声が返ってきた。  斉藤め、まだ戻ってなかったのかよ! 「……今、送ったから」  さっさと帰ってしまえと念を込めながら言うと、斉藤はじっと俺の顔を見つめていた。そして急にふ、と微笑んだ。 「…漆原さん、絆創膏で隠してるんですか。可愛らしいことしますね」 「え」  一瞬意味が理解できなかったが、斉藤の視線の先が顔ではなく首筋だと気付いた瞬間、頬が熱くなった。同時に疑問がぶわっと湧き上がる。  なんでこいつが知っているんだ? 「そうだよ、斉藤って昨日ハルさん送っていったんだよな!ハルさんの彼女どんな人?」  大人しく仕事をしていたかと思った宝島が、急に立ち上がり話に割って入った。やはりまだ彼女と同棲していると思いこんでいるみたいだ。 「俺も気になるなー。ハルちゃんの彼女だったら美人なんだろね」  本宮さんも好奇心旺盛な目で斉藤を見ている。本当の話ならば、喜んで逐一説明して差し上げたいところだが、誤解なのでどうしようもない。俺も斉藤を見た。 「ああ、みなさんもう気付いた後ですか」 「で、で?どんな人?」 「斉藤くんは会ったの?」  盛り上がる三人と逆に、俺はどんどん混乱していった。  まさかこれは本物のキスマークなのか?そして斉藤は付けた相手が誰だが知っているというのか?  軽くパニックを起こしかけている俺を見遣り、斉藤はふっと笑んだ。 「これ、キスマークじゃないんですよ」 「え?」  声は三人分重なった。本宮さんと宝島、そして俺だ。 「昨夜、漆原さん玄関でおもいきりこけちゃって。靴箱の角に首ぶつけてできた痣ですよ」  すごい痛そうだったのに、それでも起きない漆原さんって図太いですよね、と斉藤が笑う。  かなりむかつくが、そう言われれば納得できた。やはりこれはただの痣だったのだ。 「キスマークみたいになってて面白いなと思ってたら、やっぱり勘違いされたんですね」 「なんだ、そうなんだ」  本宮さんが俺を見てきた。いや、そんな残念そうな顔で見つめられても、違うものは違うのです。その顔もちょっとカメラに収めたいですが。 「だから、言ったじゃないですか」  ほっと安堵した俺だが、斉藤はただ誤解を解くだけでは終わらなかった。 「それに、漆原さんに今彼女はいませんよ。一昨日振ら…」 「そうですそうです一昨日別れたばかりなんですからっ!」  斉藤の余計なひと言を、俺は慌てて遮った。見栄っ張りと言われようが、振られただなんて、かっこわるいやつと思われたくない。  しかも、盗ったのはお前だろうが斉藤! 「へぇ、そうなんですか?斉藤、ハルさんのこと詳しいな」  宝島が感心したように言う。なんだか俺と斉藤がずいぶん仲がいいと勘違いしてしまっているようだ。 「まあ、漆原さんの元カノが…」  ぎょっとした。何を言おうとしてやがるこいつは! 「あっ、お昼、お昼ですよ。俺おなかすいたので飯行ってきます!ほら行くぞ斉藤」  俺は立ち上がり、斉藤の腕を引っ張った。やつは重たいがちゃんと歩いて付いてきた。  あー、逃げた、と後ろから本宮さんの声が聞こえたが、俺は涙をのんで無視した。ごめんなさい本宮さん…お昼もほんとは本宮さんととりたかったです。  とにかく、この癌を本宮さんから離すことを先決として、俺はいつも行く社食でなくビルの外にある洋食屋に斉藤を連れ込むことにした。  せまい店内は込んでいて、俺は小さなテーブルで斉藤と膝をつき合わせていた。 「おごりですよね」  メニューを見ながら、斉藤が当然とばかりに言う。そして俺が何も言わないうちに生姜焼き定食を注文してしまった。俺もウェイトレスにオムライスを頼んだ。  俺は言葉に悩んでいた。  斉藤を連れだしたはいい。文句というか注意というか、説教じみたことをしていろいろ口止めしようと思ったはいいが、なんと言ったらいいものか。  そうこう悩んでいるうちに無言のまま時は過ぎ、定食とオムライスがやってきた。また無言でひたすら食べていると、斉藤の方が口を開いた。 「漆原さん」 「あ?」  俺はスプーンを動かす手を止めず、顔も上げないまま声だけで応えた。しかし斉藤は構わず続けた。 「それ、本当は痣じゃありませんよ」 「?」  最初言われた意味が分からず、俺は思わず顔を上げた。そして、斉藤と目が合う。 「本物のキスマークってやつですよ」 「え…」  さっき、痣だと言ったじゃないか。 「ぶつけてそんな風な小さな痣になるわけないでしょう」  俺の心を読んだかのように、お得意の嘲笑付きで言われた。混乱して、すっかりスプーンの動きは止まってしまったが、斉藤の方は俺から視線を外し、食事を再開している。 「昨夜俺が付けたんです、それ」 「………」  コンソメスープを啜りながら言われた言葉に、俺は絶句した。アホみたいに口を開けて、目を見開いた。  こいつ今、何て言った?これが本物のキスマークで、付けたやつは斉藤? 「あれ?意外に反応薄いですね。漆原さんのことだからもっと騒ぐかと思っ…」 「はぁぁぁぁぁぁぁっ!?」  ガシャン!と食器を打ち鳴らし俺は立ち上がった。  しかし次の瞬間、しんと静まり返った周囲に、注目を浴びてしまったことを知り、慌てて腰を落とす。 「ちょっとタイムラグがありましたが予想通りの反応でした」  斉藤はひとり冷静で、相変わらずご飯を食べている。 「予想通りじゃねぇよ、何してんだお前っ、これ、何…なんでっ!」 「いやがらせです」 「いやがらせぇ!?」  やはりこいつ、俺を嫌ってやがる。これ以上のいやがらせなんてない。精神的ダメージが半端ないぞ。 「俺は重たいのを抱えて苦労したっていうのに、漆原さんは寝言を言うくらい健やかに眠っているのにいらっとしてしまって」 「そりゃ運んでもらったのはありがたいけど、送るって言いだしたのお前だろう!」 「そうですね。あと、反応が見たかったっていうのもあります」 「反応?」 「そうです。反応を知りたかったんです」  全て食べ終えた斉藤は箸を揃えて置いて、口角を上げた。 「本宮さんの」

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