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第5話
安さが自慢の居酒屋チェーン店は、週末ということもあり賑わっていた。
テーブルの上には枝豆と厚焼き卵、鯵のたたきにビール。
きんきんに冷え切ったビールを胃に流し込んで、俺はぷはっと息を吐いた。我ながらオヤジ臭いが、目の前にいるのはさらにオヤジ臭い吉田だけだったので良しとする。
吉田も俺と同じようにビールを呷り、大きく息を吐いてジョッキを置いた。
「あー、生き返った。仕事も一段落ついたし、今が一番幸せかもしれん」
そう言う吉田の顔は見事に満たされた笑顔だった。
「漆原は?どう、もう慣れたか?」
俺が異動になってから二週間が経った。吉田とこうやって顔を突き合わせて飲むのも久しぶりだ。
「かなり順調。やってみたらなかなか面白いし」
俺も笑顔で応えてやった。実際、仕事はなかなか充実している。まだ分からないことの方が多いのも事実だが。
すると、吉田は意地悪そうに口角を上げた。
「へぇ。あんなに嫌がってたくせに」
「そりゃ二設の仕事が好きだったし。でも一設には本宮さんがいるし」
「本宮さん?」
「先輩。すげぇ美しいっていうか…麗しいっていうか…もう神々しいっていうか」
名前を口にすると、自然と顔がにやけてしまった。うっとりと呟く俺に、吉田は思い切り怪訝そうな顔をしてから、あ、と呟いた。
「本宮さんて、本宮理人って人か」
「なんだよ、お前知ってんのか」
「総務の子がやたらカッコいいって噂してた」
それを聞いて納得した。そりゃあ総務の子もあれだけの美形が社内にいればはしゃぐだろう。しかし、なんとなく面白くない気分もする。
「そんないい男なわけか」
「そりゃあもう!見た目はもう言うまでもなく誰よりも素敵だし、仕事もテキパキこなすし、性格だって素晴らしい!」
俺は本宮さんの素晴らしさをつらつらと論ってやった。首筋にある黒子が色っぽい、白いYシャツが爽やかでよく似合う、スレンダーだけど掌だけはちょっとぷっくりしていて可愛い、どんなときでもしっかりと目を見て話してくれる、笑い上戸でよくからかわれるけど構ってもらえて俺は嬉しい。
この話題だと話は尽きない。一目見たときからだったが、この二週間で俺はさらに本宮さんにしっかりどっぷり魅了されまくっていた。
「ちょっと待て」
まだまだ続く本宮さん談義を、吉田の硬い声が遮った。俺は目を瞬き、吉田を見遣る。
吉田は引き攣った顔で、ものすごく言いにくそうに口を開いた。
「お前、あー…あれか、その…ゲイだったのか?」
一瞬、告げられた言葉の意味が分からず俺は黙り込んだ。その沈黙をどう取ったのか、吉田はさらに顔を歪ませ、頭を抱えてしまった。
「総務の市凪亜美と別れたって本当だったのか…」
消え入りそうなその吉田の声で、俺はやっと意味を理解し、言いたいことが山ほど湧き上がってきた。
こいつは、俺が別れたことも、斉藤に陰険な嫌がらせを受けていることも知らないのだ。
それよりなにより、まずは誤解を解くために俺は声を上げた。慌てすぎてつっかえてしまったが。
「ちっ、違ぇよっ!ホモじゃないっ!」
「えー…」
真っ赤な顔で怒鳴る俺に、吉田は疑わしげな顔を向ける。
「だってなぁ、今の話からしてその本宮さんが好きなんだろ、お前」
「そりゃあ好きだよ!でもそれはあくまでも憧れとか羨望であって…失礼なことぬかすなボケ!」
「いや、いくら憧れとかでも今の語りっぷりは異常だ。お前完璧目がいっちゃってたぞ。男に色っぽいとか普通言わない」
「違うって言ってるだろ!お前は本宮さんを見たことないからっ…それだけ本宮さんが魅力的ってだけで!」
あくまでも懐疑的な吉田に、俺は早口にまくしたてた。
「俺じゃなくて斉藤こそホモだ!あいつ本宮さんのこと狙ってやがるんだ!」
「斉藤?」
急に出てきた第三者の名前とその意外な定義に、吉田は目を丸くした。驚きでか、疑うような視線が消えたことに俺はほっとし、一呼吸置いてこの数週にわたる斉藤の行動を説明してやった。
まず、俺が亜美と別れたことは認めた。そして、言いたくはなかったが、斉藤のせいで別れたということも。
「じゃあ、斉藤は市凪亜美と付き合ってるんだろ。ホモじゃないだろう」
「違う、続きがあるんだよ」
俺はつい一昨日、斉藤自身から聞き出したのだ。
「あいつ、亜美とは付き合ってないんだ。最初っから付き合う気なんてなくて、ただの俺に対する嫌がらせだったんだよ!亜美をその気にさせて別れさせてハイ終わり、だ!」
さすがにこれを聞いた時はぶん殴ってやりたかったが、俺を天秤にかけあっさり引っかかった亜美も亜美だ。その場は耐え忍んだ。
「ええ?なんでそんなことする理由が」
あいつはいい子ちゃんで通してるのだから、吉田が驚く理由も分からなくもない。
しかし、ちゃんと知ってほしい。あいつがどれだけ陰湿で粘着質で嫌な野郎かを!
「だから、本宮さんを狙ってるからだよ!」
吉田はどこか呆れた顔をしている。こいつ、信じてないな。
「あいつ、一設に異動になった俺が妬ましかったに違いない」
「いや、別れたのは異動する前なんだろ?お前さえ異動すること知らなかったのに…」
「亜美は総務だから知ってたんだよ。あいつ、きっと先に亜美から聞いたんだ!」
あくまで推測の域だが、俺は間違いないと確信している。
「あいつ、仕事の引き継ぎだって言っていっつも一設に来るんだ。俺が一設に移ってから、ほぼ毎日来てる。それも、俺に対する嫌がらせ、プラス、本宮さんに会いに来る口実なんだよ」
「何だその理屈…でもまあ、確かに斉藤がしょっちゅうそっちに行ってるのは確かだな」
吉田もやっと分かってきたらしい。俺はとどめとばかりにさらに続けた。
「あいつは来るたびに俺に何かしらの嫌みを言うんだ。字が汚いとか、こんな後輩がいたら迷惑でしょうね、とか。しかも、俺が、本宮さんと話してたら絶対に割り込んでくるし!俺が、俺が…本宮さんと話してるのに…!」
高ぶってきた感情を抑えるように、俺はビールを飲んだ。思い出すたび腹が立つ。今日は本宮さんの方から昼を誘ってくれて、どこに行こうかと花を咲かせていた時だった。それなら俺がいいところに案内しますよと、来たばっかりの斉藤が割って入ったのだ。結局、あいつも一緒のランチタイムで、気分はプラスマイナスゼロだった。
「それだけ聞くと、ただお前のことを嫌っているだけな気がするけど」
あの斉藤がねぇ、と、吉田は呆れを通り越して、めんどくさいと言わんばかりの態度でもぐもぐとたたきを食べている。もはや俺の話など耳半分な雰囲気を感じ取った俺は、むっと眉を顰めた。
「俺は確信してる、あいつは本宮さんを狙った変態だっ!」
怒りとアルコールが手伝って、俺はあまり言いたくはなかった少し情けない話を洗いざらいぶちまけた。俺が一設に移ったその日と翌日の、あのキスマークの件だ。
思い返せばあの俺が潰れてしまった時の態度、わざわざ自分が名乗り出てまで本宮さんに送らせまいとしたのも本宮さんを俺と二人きりにさせたくなかったからだ。
なんて嫉妬深い奴!
その全貌を聞いた吉田は、食べる手を止め、俺をまじまじと見返してきた。
「キスマーク?お前に付けたって?」
「そうだよ」
「それで、本宮さんの反応を知りたかった、と?」
「おう、そう言ったんだよ、奴は」
俺は首を縦に振って、たたきに箸を伸ばした。語るのに一生懸命になりすぎて、全然食べてなかった。
「……意味分からん」
ぽつりと吉田が漏らした言葉に、俺はそうだろうそうだろうと頷いた。
斉藤の前で俺も同じ反応だった。反応って何だと聞くと、あいつは「別に。ただ、満足な結果ではありました」と答えただけで、それきりその話は終わったのだ。
「でもそれで俺はピンと来たわけだよ。好きな人のことなら何でも知りたいものだろ」
「満足って、本宮さんの反応はどんなだったんだよ?」
「大はしゃぎだよ。彼女どんな人?ってニヤニヤしながら俺に聞いてきた」
そう自分で言った途端、俺はぴたりと箸を止めた。理由は分からないが、なんだか胸がもやっとしたからだ。
急に動きを止めた俺に向かい、吉田がどうした?と声を投げかけてきた。俺はなんでもないともやもやを無理やり押し込めて食事を再開した。
「とまぁ、それに加えて何かしら理由付けて毎日くるってのは、間違いないだろ」
俺はそう締めくくった。すると吉田はどこか思案顔になった後、おずおずと口を開いた。
「……うん、まぁ、それだと斉藤はゲイなのかもって思うけど…それってさぁ、狙ってるのは本宮さんというよりも……」
「あ?」
「うーん……」
吉田は俺の顔をじぃっと見つめたまま、黙り込んでしまった。
禿げかけた野郎になんて見つめられる趣味はない。俺は不機嫌を隠さず、吉田をねめつけた。
「なんだよ」
吉田は、ふーっと息を吐くと、何かを振り切るように首を振った。
「いや、やっぱいいや。何にせよ俺はその件に関わりを持ちたくない。これ以上俺に本宮さんや斉藤の話をしないでくれ」
「なんだと、友達がいのない奴め」
「ああ、まあ、友人としてケツを大切に、と忠告だけしておく。気をつけろよ」
「だから、俺はホモじゃねぇって言ってるだろ!」
「それは分かったって」
この話題はこれで終わり、話は仕事のことや、吉田がはまっている釣りへと移っていった。
駅で吉田と別れた俺は、コンビニで牛乳とアイスを買って家に帰った。
時刻はもう日付を跨いでいて、俺は簡単にシャワーを浴びると、買ってきたアイスにかぶりつきながらベッドに転がった。
ぼおっとしながら今日のこと――もう昨日になるのか、を思い出していた。斉藤のことでむっとし、本宮さんのことでにやけ、吉田のことで楽しかったなと思ったのだが、ふと、飲んでいる最中に胸に湧き上がったもやもやが思い出された。
「なんか、引っかかるんだよなぁ…」
俺は声に出して呟きながら思案した。そして、またあの時のセリフを繰り返してみた。確か…
――大はしゃぎだよ。彼女どんな人?ってニヤニヤしながら俺に聞いてきた……
俺は顔をしかめた。口の中に広がるバニラの甘みが、一気に苦いものに代わってしまったかのようだ。
どうしたというのだろう。別に、なにもおかしなところなんてない。確かにあの時、本宮さんははしゃいでいて、下ネタにニヤニヤしながら俺のいもしない彼女のことを聞いてきたのだ。それはそれは嬉しそうに。
そうはっきりと思い返すと、またもやもやとしたものが増した。というよりも、なんだか痛い。物理的な痛みではなく、何というか、こう、ずきっと…
そこで俺はある可能性に気付いた。
「まさか…」
茫然と呟くと、なんだかその可能性が真実に思えてきて、さっと血の気が引いていった。
「まさか、まさかだよ」
俺は慌てて起き上がると、焦り気味にパソコンのもとへと向かった。スイッチを入れ、早く立ちあがれと念じる。
早く、確認しなければ。違うのだと確証を得なければ。
パソコンが立ちあがったのを確認すると、俺はすぐにインターネットの検索サイトにつないだ。そして、しばし悩んだ。なんと検索すればいいのだろうか。ちょっとの間の末、結局俺は『ゲイ』とだけ打ち込んだ。
たくさんのサイトが表示されていく。出会い系やら動画やらかなりの数に驚いた。俺はごくりと唾を飲むと、その中のいくつかを覗いていった。
主に動画や画像を見て、俺は心底安堵した。
「よかった、違う…」
男同士がくんずほぐれつしている画面を見ても、俺は何も感じなかった。がっちりした中年の男があんあん喘ぐのを見ていると目を逸らしたくなるくらいだ。中には女みたいに可愛らしい男の子もいたが、普通のAVを見ている時のような興奮は一ミリも得られない。
俺は一息ついて、パソコンの電源を落とした。食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に投げ入れ、再びベッドへダイブする。
「よかった…」
俺はもう一度呟いた。
もしかしたら、自分はゲイなのかもしれないと思ったからだ。あの本宮さんの明るく楽しそうな反応に、少しの嫉妬も抱いてもらえないと思い知って、胸が痛んだのかと考えた。
しかし、別にそうではないらしい。そうだろう、だって実際に言われたときは何も感じなかったはずだ。
結局もやもやの正体は分からないままだが、俺はもう原因究明を諦めて寝ることにした。
掛け布団を被り、目を閉じる。
俺は本宮さんが好きだが、それは別にさっき見た動画のように、どうにかなりたいわけではないのだ。
斉藤は、ああいったことを本宮さんとしたいというのか。すごい奴だ。
ただ、俺はちょっとだけ思った。本宮さんは体もきっと綺麗なんだろうな、と。
それが、間違いだった。
一度考え始めると、思考は止まらない。
あの動画のオヤジの体には頼まれても触れたくないが、本宮さんなら俺でも触れるかもしれない。いや、逆に本宮さんに触れられる方がいいかも。初めてあの手で腕を掴まれたとき、鼻血噴いちゃったんだよな、確か。
自然、俺はあのビデオの人物を本宮さんに置き換えてしまっていた。本宮さんは、感じるときはどんな顔をするんだろうか。あの凛々しい眉をきゅっと寄せて、熱い息を吐くのかもしれない。声は、どういう風になるのかな。
そこまで考えて、俺ははっと正気に戻り目を見開いた。
「………ちょっと待った…」
この妄想は完璧、ホモではないか。しかも。
「うそだろぉ…」
さっきまで大人しかった俺の息子は、朝でもないのに起き上がっていた。完全に、欲情してしまっている。
きゅう、と下腹が疼いた。このまま宥めることなど出来そうにもないくらい、俺は興奮していた。
ショックだった。ネットの動画には反応しなかったのに。それでもやっぱり、本宮さんのことを考えるとどんどん血が滾ってくる。
かなりの罪悪感が胸を占めた。しかし、欲望には抗えず、俺は下肢へと手を伸ばした。
そっと触れて扱いただけで、一気に体温が上がった。自慰も久しぶりの行為なのだが、いつも以上に体は昂っていく。
「ん…っ」
先走りが溢れ、手の滑りを良くした。部屋の中に吐息と濡れた音が響く。
あまりにも気持ちよすぎて何も考えられなくなっているのに、本宮さんの姿だけは俺の頭から消えなかった。
「はぁ…、はぁ…っあ、は……んっ」
俺はホモじゃない。そう思って、そう信じてこの二十数年を生きてきたのに。いや、今でもホモじゃないと思ってる。
最後、欲望を吐きだしたとき、俺は本宮さんの名を呼んでいた。
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