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第1話

「あの日も、こんな雨でしたっけ」  三杯目となるビールに口をつけて言ったは須藤正人(すどうまさと)、向かいに座る男に向かって微笑んだ。数十分前、この店に入った時に思ったことを今更口にされて、立花歩(たちばなあゆむ)は鼻でわらった。  既に濡れていたズボンの裾は乾きつつあったが、ビニール傘の雫はしたたり続けていた。 「もっとストレートに誘えばいいじゃないですか、須藤さん」  歩は唐揚げに箸を伸ばし、回りくどいいことは嫌いなんだ、と言いながら頬張った。肉汁と塩気で満たされた口内をビールで洗い流す。苦味と爽快感に、ふぅと息をついた。 「いい飲みっぷりっすね。あと、いい加減に敬語やめてください。立花さんより年下なんですし。敬語使うのは俺のほうでしょ?」 「だけど、お前の方が先輩でしょう?」  少し崩れた物言いに、正人は笑って無理はしなくていいと繋げた。無理やりな言い回しに、無理があったなと歩もつられて笑った。 「仕事場ではですよ。じゃあ、せめて仕事以外は名字はやめて名前でって、いつも言ってると思いますけど」  年齢は歩の方が四つ上だ。だが、一年前に今の職場に転職してきた歩は、立場的には正人より後輩である。年下であろうと、歩はその線引きはしっかりとしたいタイプの人間だった。  二人で過ごす事は意外と多かった。こうして酒を飲むのも結構な回数を重ねていて、それと同時に唇や身体を重ねることだって何度もした。  それだからこそ、歩はその線引きをより強固にしたがる気があった。 「しっかしゲリラ豪雨とか、日本の気候も変わりまくってますよねぇ」 「知ってるか、先輩。ゲリラ豪雨なんて風情もない言い方じゃなくて、日本には古来からこういう大雨関しては鬼の雨と書いて、鬼雨という名前があるらしいぞ」 「きう、ですか。なんかそっちの方が良いっすね。敬語やめるなら、先輩呼びもやめてくださいって、名前で!」  小さく笑って歩は店員を呼んだ。もう一杯ビールを頼む。  いつものやり取りを繰り返しながら、歩は声色を少しだけ落とした。 「お前はどうする、正人。次もビール?」 「え、あ、はい。ビールで」  忙しない店内で、笑顔と通る声でオーダーの復唱をした店員が去って行くのを見つめたまま、正人は不意打ちに顔を赤くしていた。  そういう姿は年下らしく、可愛らしく感じられる。自分もアルコールが回ってきたことを感じながら、歩はサラダに箸を伸ばした。 「で、今日はどこいく?」 「え、いいんすか?」 「いいよ。明日休みだし、この雨みてると家に帰るのも面倒になる」 「じゃあ、今日はその……俺の部屋はどうっすか?」  唐突な誘いに、歩は箸を止めた。  今日まで互いにプライベートへの侵入は、どこか遠慮していた。会話においても、場所においてもだ。  それが無言の誓約であり、当たり前になっていた。  正人も歩も、見えない境界線を守っていた。  互いに都合のいい関係であり、それ以上を望むものではないと。口にしないでも、理解していたし、それをあえて踏み越えて行く気はなかった。  歩は今の身体だけの関係が心地よかった。一年間続けていても、互いに不満は出なかった。  いや、口にしなかっただけだ。  表面に出ないだけで、実際はさまざまな感情が渦巻いている。  職場で同世代の女性社員と仲睦まじい様子を見て、少し不安になったこともあるし、それが嫉妬だと気づいたこともある。  好きか嫌いかと問われれば、正人のことは好きだった。でなければ身体だけとはいえ関係を結ぶことなどできやしない。  しかも同じ職場だ。そういったコミュニティーで出会った、素性も知らぬ相手ならいざ知らず。一夜限りという場合でもない。  面倒なタイプの場合は、職場でもあれやこれやと手を口を出し、公私混同も甚だしい態度をとってくる輩も居る。  過去一度だけ経験があり、その時に受けた仕打ちと周りからの拒絶こそ、今の歩にとっては正人との都合の良い関係を強固にしたといっていい。  だから、最初に一度だけ、歩は正人に約束をした。  職場では絶対に、そういう話題を自分に口にするな、と。  話しかけるときは絶対に仕事のことを。それ以上のプライベートな話題は振ってくるなと言った。飲みに出た先でならば譲歩した。だが最初は半個室の居酒屋でだけだと口を酸っぱくして言った。  それに関して正人は文句を言わずにただ頷いて同意してくれた。  初めの3ヶ月ほど。  季節が夏から秋へと変わる間は、約束をしっかりと正人は守ってくれていた。  仕事もできる先輩であり、後輩である男は約束事を守るという義理堅さを持っていた。  秋から冬に変わる頃には、職場でのプライベートな話題も話すのは当たり前になっていた。  その頃には歩自身、職場に慣れてきたこともあったし、他の社員との関係も良好だったからだ。  たまに飲みに行く、仲の良い仲間として2人が周りに認知されたからこそ、歩はそれを許していた。  だがそこまでだ。  二人はあくまでも職場の仲間であり、先輩後輩であり、都合良くベッドを共にする関係であり続けた。  どこかで淡く、好きという感情がわき上がっても厳重に蓋をして見て見ぬ振りを決めた。  歩には、正人が自分のことを本当に好いているという自信が持てなかった。それは今もだ。  身体の相性は抜群だ。だからこそ、それだけがいい関係を求めているかもしれないと思っていた。  ならば、無粋に口を出し、気持ちを曝け出し、関係を終わらせるのはあまりにも勿体無い。  今のまま、このまま……都合よく、互いの欲望を吐き出すだけでも、歩にとっては十分に幸福であった。  そうして、季節はめぐり戻って夏になった。  この間、歩があれやこれやと悩んだことなど正人は知るよしもないだろうし、知ってほしいとも思ってはいない。  だがしかし、ここに来て突然の部屋への誘いは、歩の中で疑問と驚きと焦燥を呼び起こさせるに十分だった。 「なんで?」  思わず口をついて出た一言に、正人は苦笑いを浮かべた。 「なんで、って……いいじゃないですか、たまには。そういうの」  だが、間違えてしまえば後戻りができない。過去の苦い記憶の数々から、歩は誰か特定の人物と深い仲になるのを忌避していた。  男であれ、女であれ。深くなればなるほど面倒くさくなる。  束縛し、時に手を挙げるものだっていた。散々面倒な人間関係に揉まれる社会で、さらに恋愛沙汰に関してまで面倒を被るのは割に合わない。  恋人に関する運に恵まれていない自信があった。  だから、都合のいい関係が一番自分にはあってもいるだ。 た とえ自分の本心がそれ以上を望んでいたとしても、これ以上傷つき疲弊するには歳を取った。 「おまたせしましたー。生二つです」  店員がテーブルに置いたビールの代わりに、正人は空になったグラスを渡して礼を言う。  営業スマイルで店員が遠ざかると、辺りの出来上がった同じサラリーマンやスーツ姿で笑い声を上げる女性の声が、二人の無言をかき消して行った。 「俺の部屋近いですし。今日は金曜日だから、どこも混んでるでしょうし」  視線を逸らして歩は時計を見ていた。まだ時間は午後十時前。  終電までは余裕だし、ホテルが空いているなら宿泊だってできる時間帯だ。だが確かに金曜日となれば、カップルが休みを前に羽根を伸ばし逢瀬を愉しむために混んでいるのは確実だ。  そういう理由があるなら、行く選択肢もあっていいだろうというのは自己防衛の欺瞞だった。  眩しいものを見るかのような目で正人を見やった。一瞬身体を強張らせ、少し緊張した面持ちになる。 「そんなに緊張しなくたっていいから。いいよ、お前ん家に行こう」 「え、マジっすか」 「そのかわり、着替えは貸せ」  もちろん、と答えた正人は大型犬のように喜び、尻尾を振っているようにみえる。それほど嬉しいらしい。  ふっと小さく笑って、歩はグラスに口をつけた。唇がひんやりとグラスの冷気をもらい冷える。  それでも、自らの体温ですぐに温もる唇は、場所を変えると熱を孕み、熟れた果物のように赤く火照る。  夏の雨から始まった関係は、こうやって続いていくのだ。
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