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第2話
言う通り部屋は居酒屋から近く、電車に乗ることもなく徒歩でたどり着くことができた。
店を出る頃には雨も止んでいて、コンビニでビニール傘を買ったものの、今は邪魔の一言に尽きた。
ビニール傘からしたたる雨水が、二人の跡を残していく。しかし既に濡れたアスファルトには何も残りはしなかった。
「店に入るまえから止んでりゃ、この一本が一杯になったっていうのに、ねぇ。そう思いません?」
「それはそうだが、俺は今、暑くて死にそうだ」
「歩さんって、意外と暑いの嫌いっすよね」
「東北出身者は、夏に弱いんだよ」
夜とはいえ、バケツをひっくり返したような豪雨の後となれば蒸し暑い。
昼間の炎天下に熱されたアスファルトから発せられる熱気は、夜になっても蒸し暑く、身体の温度調節機能を休ませてはくれない。
「ここです」
そう言われて顔を上げると、コンクリートの壁が印象的なシンプルな低層マンションについた。
見た目はスタイリッシュだが、少し築年数が経っているような風情がある。大通りから二本ほど中にはいった通りは閑静な住宅街で、二人の喋り声以外の音のしない静かな場所だった。
エレベーターはなく、階段で三階に上がって突き当たりが正人の部屋だった。
「見た目はこんなんですけど、中はちょっとボロいんで。あー、あと散らかってるんで、すみません」
「いいよ。とにかく早くあげてくれ。そしてエアコンをつけてくれ。暑くて溶けそう」
しっとりと汗が皮膚を覆い、玉となった汗がつっと背中を流れていく。
鍵を開けながら正人は笑い、ドアノブを捻って部屋へと招き入れた。
「先にシャワー浴びればいいですよ。その間にエアコンも効きますし」
「助かるよ。お邪魔します」
玄関からすぐにキッチンが見え、反対側には洗面所への扉がある。その先に少し大きめの部屋がひとつある、シンプルなワンルームの造りだった。
先に入った歩の後ろでドアを閉め、壁伝いにスイッチをさぐり当てて正人は電気をつけた。
「俺の部屋より綺麗そうだな」
「え、マジっすか?」
「ああ、マジもマジマジ。大まじめにな。どうにも掃除、苦手なんだよ」
奥の部屋へと歩みを進めると、そこはベッドと大きめの衣装ケース。ノートパソコンが広げられたローテーブルがあるだけのシンプルな部屋だった。
ベッドに座るように言って、正人は押入れの観音開きの扉を開けた。中には半透明のケースがずらりと並べられていて、そこには季節物や下着、タオルなどが収納されていた。
「あと、整理整頓も苦手」
「意外ですね。職場だとあんなにキレイじゃないですか、デスクとか」
「そりゃ仕事は効率命だから、ちゃんとしないと痛い目に遭うって、新入社員の頃に気付いたから」
正人が手に取ったのは薄いクリーム色のタオルと、スポーツチームのロゴが入ったシャツと短パンだった。
「洗濯して乾燥機回しとけば、朝には乾くと思うんで」
「俺にノーパンでいろと」
「どうせ脱ぐでしょ」
にっと笑った正人に、歩は真顔のまま臑を蹴って背を向けた。後ろで痛みに耐える男の姿など気にする心配りはない。
「シャンプーとかは、適当にどうぞ」
正人の声に、手を上げて応えた。
* * *
部屋はしっかりと冷えていた。身体はシャワーの湯で熱く火照っていたが、心地よく冷えていく。
濡れた髪にタオルを乗せて出てきた正人は、部屋でノートパソコンを開いている歩が眼鏡をしていることに少し驚いた。
「眼鏡なんてかけてたっけ、正人」
「え? ああ。家だとパソコン用の眼鏡ですっけ? あれです。度は入ってませんけど。あんまり似合わないから、会社じゃちょっと」
メガネを外してノートパソコンも閉じた。
似合わないとは思わなかったが、言葉を飲み込んだ。見惚れていたと気づかれるのは得策ではない気がした。
一年近く仕事でもプライベートでも過ごす時間は増えているが、あまり込み入ったことは知らないでいる。食の好みや休みの日に何をしているか、ちょっと知っているぐらいだ。
殆どが今日のように、大きな仕事や難関の商談を終えたのち、飲んでホテルへ行って一夜を過ごすという流れで、それ以上のことはなかった。
一緒に時間を過ごしていて、楽しくないわけではない。寧ろ、いまの職場の昔話が歩にとっては面白いこともあった。いつも正人が賑やかに話を進める契約先の担当者についての話も興味深かった。
一方で正人からしてみれば、歩の話も面白いものだ。今の会社ではない職場の話や、業種が全く違う職を経験していた歩の話は興味が尽きることが無い。
でもそれはあくまでも飲みながらの会話のひとつであり、先輩と後輩という立場での会話であり、それ以上の個人としての話はお互いに避けていた。
だから、夜が明ければ二人は言葉も少なくなり、ホテルを出ればほとんどすぐに別れていた。
回数を重ねるたびに、その別れが少し寂しいと思うようになったとき、歩は自分の気持ちを自覚し途方に暮れた。
「歩さん?」
「ッ!」
名前を呼ばれてはっと気づくと、目の前に正人の顔があり驚いてしまった。
半歩下がって、バクバクと跳ねる心臓を落ち着かせるように、ぶっきらぼうに言う。
「なんだ」
「いや、なんかボーっとしてたから……飲み過ぎました?」
「別に」
「麦茶飲みます? とにかくどうぞ座って。俺、シャワー浴びてきますから」
そう言って促したのはベッドだった。ノートパソコンを置いたローテーブルが近くに移動してあった。
すでに入れてから時間がたったのか、グラスに入った麦茶が2つ。ひとつは半分ほど、もうひとつはなみなみと注がれていた。表面に汗を掻いたグラスに手を伸ばし、ベッドに腰を下ろす。
少し安っぽいスプリングの音が響き、ここがホテルではないという現実に、今さらながら緊張しはじめていた。
「まだ飲みたかったら冷蔵庫から、勝手に出して下さいね」
「わかった、ありがとう」
グラスの中身を飲み干して、周りを興味深く見回した。
物が少なく整頓されている部屋は、さすがだった。
仕事場でも正人は物が少ない。それ故、仕事に必要な物もすぐに見つかり効率がいい。
一方で歩は物が多い自覚がある。どうしても捨てられない性格で、昔の恋人からもらった物など、捨てるのに時間が掛かるタイプだった。
だから片付けが苦手である。
それに付随して、掃除も苦手になった。
しかし一般的な綺麗さを保つためには努力をしている。その一つがデスク周りの片付けである。仕事が出来ないように見えるので、デスク周りやファイルの整頓は必要だ。
本棚の本は少し雑に詰められていた。漫画や小説、仕事関係から全く関係なさそうな本まで。積み上げるように無理やり入れているのが少し意外だった。
「何か読みたいのありました?」
振り返ると、トランクス姿の正人がいた。髪はまだ乾いておらず、タオルをかぶっているのはホテルでも変わらない姿だ。
だがどうしてか。
見慣れているはずの姿なのに、歩は心臓が跳ね上がるのを感じた。
おかしいと思っても逃げ場はない。そもそも、着替えもすでに洗濯機の中に放り込まれている。引っ張り出すのは難しい。
「あ、いや。なんていうか、お前意外といろいろ読むの、な?」
「最近は忙しくってあんまりですけど」
「そっか、まぁ、忙しかったもんなここのところ」
だからこそ、一仕事終えた今日のサシ飲みだったのだ。そしてそのあとはホテルへ行くだろうことは、暗黙の了解だった。
「どうしたんです? 緊張してるんです?」
「いや、別に、そんなんじゃ」
ない――、と言う前に、正人は近づいてきた。身をかがめ、触れるだけのキスをして離れる。
エアコンの効いた部屋で、冷えてきた身体はそれだけで炎がともる。
「正直、俺、歩さんが来てくれるって思わなかったんですよね」
「は? なんだよ、突然」
正人は言葉を探しながら、迷ったように視線を泳がせた。そして再び、しっかりと歩を見つめた。
真剣な眼差しは熱と艶を含み、これからの情事を思い起こさせるに十分だった。どくりと大きく心臓が跳ねた気がした。
「一年、です。俺たちがこういう関係になって」
「そう、だな。それが?」
「歩さんがどうかは知りませんけど……俺、別にどうしても男が好きってほどでもないんですよ。どっちもいけるタイプで」
「知ってる」
「だからこそ、歩さんに声かけたんですけど」
「ああ。今日みたいに、取引先の帰りだったな。まだ俺が入社したばっかで、お前にいろいろ教えてもらってた」
視線を逸らそうとすると、正人は両掌で頬に触れ、歩の注意を自分に向けた。
顔を近づけられ、固定され、瞳だけをそらそうとしても逃げ切れない。
歩は落ち着かないで、正人の手首を掴んで離そうとした。
「俺、歩さんのことが好きなんです。あなたがそういうの、嫌がってるのはなんとなくわかってたんですけど……でもやっぱ、俺は今に耐えきれそうにないんです」
息を呑んで歩は固まった。
今、彼は、なんと言った?
「絶対、言ったら嫌われると思って。こういうのも終わられると思ったんですけど」
「あ……いや、でも、それは別に……その、あ、熱くてお前頭おかしくなったんだろ」
「違いますよ。真剣ですし、正気ですから」
ため息を吐いて、正人は再び口づけようと顔を近づけた。
唇が触れる直前で、歩は身体の硬直が解けた。身を引いて逃げようとすると、身体のバランスは自然と後ろに向き、気づいたときにはベッドに押し倒されていた。
逃げるつもりが追い詰められた。
ベッドのシーツも、布団も、天井も、いつものホテルのような華美で真新しく、生活臭のしないものではない。
ここは須藤正人という男が日々を過ごし、その匂いと存在が染み付いている、彼の巣だ。
「俺、一目惚れなんです。歩さんに」
「……は?」
「でも、あんまり恋人とか恋愛とかそういうこと興味なさそうというか、毛嫌いしている感じありましたし。でも俺とはセックスしてくれる。嫌がらない。ちょうどいい距離感がいいのかもしれないけれど、たまに悩んでるように見えたんです」
「俺が?」
「ええ。俺、自惚れてもいいのかなーって、結構悩んでからの、今日なんで」
だから、と言って正人は唇を重ねた。
熱い舌が滑り込み、咥内を愛撫していく。舌の表面をこすり合わせ、上顎をなぞられると腰がおもわず浮いてしまう。
舌先を甘噛して離れる口づけは、二人の関係が始まったときから、ベッドで始まる最初の儀式めいた愛撫だ。
「好きです。だから、あなたの気持ちも知りたいんです。もし、今までみたいなのが良いって言うなら、俺は諦めます。もう、ただの先輩と後輩でいいです。でも、正直、それは俺にとって結構キツイんですけどね」
一度身体をつなげた相手と、なにもない関係に戻るのは確かに難しい。しかも相手との体の相性が良かったとなれば、余計だ。
歩はどこかで期待して、どこかで予感を感じていた現状に、思考が寸断されていた。
何も言わず、ただじっと正人を見つめていると、正人の指先がすっと喉に触れた。
指の温もりの跡に、唇が落とされる。熱くぬるりとした舌が滑り、喉仏をなぞり顎へと上がってくる。
「あ……」
「どうなんですか?」
「……本当、なのか?」
「何がです?」
「本当に、俺のことが好き……なのか?」
「好きですよ。じゃないと、こんな不毛な関係、続けません」
苦笑いで答えた正人は力なくシーツの上に落ちていた歩の手を掴んだ。甲に唇を押し付ける。
「あなただって、わかるでしょ。社内でなんて、いろいろリスクがありすぎるって」
「そりゃ、まぁ」
「それでも、俺はあなたといられるならなんだっていいと、最初は思ったんです。でも今は、恋人がいい」
肩の力が抜けるように歩は息を漏らした。
そして、自分を笑うように声を漏らして笑った。
突然の様子になにがあったのかと不安げに見下ろしている正人を見て、「悪い」と謝りながらも笑いが止まらなかった。
「俺はどうやら……独り相撲していたのかもなぁ。というか、お前のその若さが羨ましいよ」
「四つしか違いませんからね? っていうか、どうなんですか。単刀直入に答えを出すのが歩さんでしょう?」
「仕事と恋愛はちょっと違うだろ。それに、恋愛ってのは恐ろしく人間を弱くする」
歩は腕を伸ばして首に回した。抱きしめられたことに目を見開き、正人は身をかがめた。
二人の距離が近くなり、身体も密着していく。
互いの心臓の動きが肌越しに感じられ、熱も感じ取れる。
隔てているのは歩が着ているシャツの布切れ一枚。もっと近くなることは簡単だ。
そして一つ、言葉を吐き出せばもっと近づくことができる。
「俺も、好きだよ」
言ってしまえば一息で、簡単な言葉の羅列だった。
今の関係を壊したくなく、今の関係が心地よかった。だがその先も少しは見てみたかった。
その道標となる一言に、正人は一瞬息を詰めた。
恐る恐る歩の背に回された腕に力がこもり、強くキツク痛いほど抱きしめられる。
「おい、痛い!」
「ああ、すみません。これ、両思いってことっすよね」
「そう……なるけど」
「やったぁ」
小さく呟かれた隠しようもない歓喜の言葉に、歩は自分の想いも乗せて腕の力を込めた。
強く抱きしめ合う身体は、エアコンの風で冷えている。しかし互いのくすぶり始めた欲望に、皮膚は少しずつ熱を持ち始めていた。
「明日、出かけられなくても良いですよね」
「どうせ暑いだろうし、俺は出かけたくない」
誘うような笑みを浮かべた歩を前に、正人の理性が崩れるのは一瞬だ。
二人は無言で唇を合わせたのをきっかけに、今までの関係を終わらせた。
そして、季節が一回りして新しく始まった関係を始めることにした。
―終―
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