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第5話
リュウは東大理学部を卒業後、環境コンサルティング会社で環境分析技術者として実務経験を積み、超難関の選抜試験をパスして宇宙飛行士になった。
幼少期には神童、学生時代は天才、社会に出てからは逸材と言われたリュウだったが、ここまでの道のりは生半可な物ではなかった。
血の滲むような努力に挫けずやってこられたのは、一輝との約束があったからだ。
そして今、リュウは念願の月面に立ち、宇宙に浮かぶ地球を見ている。
やっと、一輝にきちんと対面できたような気がした。
他のクルーが本や写真、楽器などの私物を持ち込む中で、リュウの私物は大きな懐中電灯ただ一つ。
ミッションの合間に、懐中電灯を地球に向けてモールス信号を送る。
38万キロ先にある、宝石のようなその星が愛おしくて堪らない。
届くはずの無いその思いを、光の明滅に乗せる。
熱烈な愛のメッセージを、時間が許す限り送り続ける。
言葉で伝える機会は、何度だって在った筈なのに……涙で視界が滲んできたその時、地球で何かが光った。
人工衛星かデブリの反射か、何かは分からなかったが光ったのは確かだ。
1回光った後、更に3回、そしてまた3回。
英語で3文字『too』の信号。
リュウの脳裏に一輝の姿が浮かんだ。
海のように優しくて、苛立ちも悲しみも喜びも受け入れてくれる、リュウの一番の理解者だった。
山のように逞しい男前で、近所で評判になっているのを見てやきもきした。
老人のように博識で尽きない話題で楽しませてくれた。
かと思えば子供のように無邪気でモールス信号や空気砲で遊ぼうと誘ってきた。
とても幸せな時間だった。
宇宙服を着ているので涙を拭うことはできない。
奥歯を噛み締めて堪えようとするが、雫は次から次へと零れていった。
一輝、僕はアンタの知らない事を一つでも教えてあげたくて、こんな所まで来てしまったよ。
僕が今、分かったことはね
「……やっぱり僕、お前が好きだ」
あれほど焦がれた月に立っているというのに、唐突に帰りたくなった。
何よりも美しい愛する地球へ、帰りたい。
メディアは日本生まれのムーンウォーカーの話題で持ちきりだ。
“リュウ”の愛称で親しまれる宇宙飛行士、望月龍正、29歳。
俳優顔負けの美しいルックスが人気を博しているが、注目を集めているのはその発言だ。
月へ旅立つ前に受けたインタビューで、なぜ本名ではなく“リュウ”と呼ばれているのか問われた。
『昔からタツマサって名前が気に入らなかったんです。男らしい名前に顔が負けてる気がして……でも、大切な人が“音読みすると流れ星みたいだね”って言ってくれて……それが嬉しくてリュウと名乗っています。日本人以外には難しい発音なので、NASAではタツって呼ばれていますよ。だから僕をリュウと呼んでくれる日本の皆様は、僕にとって特別な存在です』
そう言って万人を虜にするこなれた笑顔をカメラに向けた。
続けて質問を受ける。
大切な人、とは恋人ですか?
先ほどとは打って変わって視線を泳がせ頬を染める。
『僕の恋人は地球です。地球の……総てです』
当たり障りの無いその言葉。
だけれどその表情は、本当に恋をしているかのようで、視聴者の目に焼き付いた。
リュウが月へ降り立つ頃、その発言は一人歩きし、『恋人は地球の総て』から『地球上に住まう私たち全員が恋人』と捉えられるようになった。
女性を中心に「彼氏いるの?」という問いかけに対し「彼氏?いるわよ。宇宙飛行士なの」「ダーリンは今、月に居るわ」等と返す冗談が流行した。
夏の日差しの下、黄色のストールを巻いた小粋な婦人が、小さな雑居ビルの前で足を止める。
「そこのアナタ、出店の準備かしら?ここは何のお店になるの?」
声を掛けられた男は作業の手を止めて答える。
「恋人の強い希望で、ここで花屋をすることになったんです。泣きじゃくって頼まれてね……あ、よかったらどうぞ」
男は婦人に一輪のヒマワリを手渡す。
「まあ素敵、私ヒマワリ大好きなの。……ところで、その恋人さんはどちらに?」
「今は月に居るんですよ」
「ふふふ、最近はそういう冗談が流行っているみたいね?」
開店を楽しみにしているわ、と言って去る婦人の背中を見送る。
男は額の汗を拭いながら空を仰ぐ。
そこには昼間の白い月が出ていた。
「早く帰っておいで、リュウ」
終
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