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後日談【ダイヤのピアス】

 こちらは透を失った後、淳哉が出会った邑崎恵人という人物からの視点で書いたものです。  某サイトで恵人さんのお話を書いたのですが、その後日談がこちらで、透さんの想いが作中に出るため、このお話の最後のエピソードとして良いように思えたので、こちらに追加させていただきました。  よろしければどうぞ。    ――――――――――――――  春の風だ、と邑崎(むらさき)恵人(けいと)は思った。  もう桜は終わったけれど街路樹は若い緑を纏い、そこここに春の色を湛えた花が咲き乱れている。  春の香りが乗った風が頬を撫で、ここしばらくそんな風情を感じる余裕も無かったなと苦笑しつつ、恵人はゆっくりとした歩調で歩く。  今日は与えられた休暇の最終日である。  淳哉に従う意思を見せた段階で、小間からは医師を辞めて専従となることを示唆されていた。にもかかわらず恵人は勤務医であることにこだわって、非常勤ではあるが警察病院に勤務し続けることを選んだ。  だが淳哉の手はどんどん長く伸びていく。活動範囲が欧州や米国へと広がっていっており、これからその手の伸びる範囲はますます広がるだろうと予測できた。  恵人としても覚えるべき事が山積みな毎日の中、勤務医を続けるとなれば医師としての勉強も欠かせないし、常勤でないとはいえ業務に当たらなければならない日もある。過重なタスクではあったが、自分で選んだのだからとギリギリこなしていたけれど、これ以上忙しくなるのが見えているとなれば、同じ状態で続けることが困難なのは自明だった。  そして病院という施設で働くという選択肢は、世界のどこへでも飛んでいこうとする淳哉に随伴できない時もあるということだった。もし自分がいないところで淳哉になにかあったなら。それは恵人に強い怖れを抱かせた。  そこで淳哉へ告げたのだ。 「病院を辞めようと思います」  勤務医と淳哉の秘書を並行して、もうすぐ一年経過しようというころだった。 「へえ? じゃあ恵人は医者じゃなくなるの?」 「いえ。あなた個人のホームドクターとして働くという形を取ります。医師免許の更新もしますが、勤務医であることはやめます」  自分の存在価値に対する根源的な怖れ―――愚かで汚れた自分など、存在すること自体が誤りなのではないか、という思い―――は消えない。医師として人の役に立つことは、その怖れを薄めてくれる。だからこそ勤務医であることにこだわってきた。  けれどこの一年、淳哉のそばにあることで感じた手応えは、恵人にこの道を選ばせたのだ。 「もちろんいいよ!」  淳哉は上機嫌で承諾し、なにかと準備もあるだろうから、と一週間の休暇をくれた。恵人は職場への挨拶を済ませ、多忙のあまり逢えずにいた三田と逢瀬の時を持ち、荷物を整理し……そして今日、最終日に、ここにやって来た。  どうしても一度訪れたかった。  ひとことで良い、道ばたからでも良い、その人に伝えたいことがあった。  それは淳哉と共に生きていくと覚悟を決めたときから、ずっと温めていた想い。  しかし、その家のひとたちは淳哉と顔を合わせようともしないと聞いている。ましてその補佐をする立場の自分が、諸手を挙げて歓迎されるわけがない。おそらく拒否されるだろう。  だとしても何度でも希望を伝えよう、訪問が拒否されるなら、せめて墓の場所だけでも知りたい。そうした想いを、小間を通して先方に伝えたのは、休暇をもらうことが決まったひと月ほど前のこと。  だが予想に反して、歓迎するという返答が来た。あっけないほどあっさりと。  そのとき小間から聞いた先方の意向、そして添えられた小間の見解から初めて知った真実、そのひとの本当の想いに衝撃を受け、彼我(ひが)の差を改めて知らしめられたように思い、今更のように臆する心も生まれた。  けれど。  自分がその人に届くことなど死ぬまでないだろう。けれど。  及ばないまでも、せめて近づこうとする意志を持ちたい。  せめて自分にできる最大のことを。及ばぬ自分にもできることとはいったい。  考え続けて出た答え。それは、そのひとの持ち続けたであろう想いを心の芯に置き、けして忘れずにできる限りの努力をすること。その程度しかできない自分に、今更ながら嫌悪をいだきつつ、恵人はそうすることを決めた。  せめて、この取るに足りぬ小人(しょうじん)の決意を伝えよう。その想いと共にこの町へ来た。  少し離れた公園で車を降り、閑静な住宅地の一角にあるというそのひとの実家をめざす。ことさらゆったりと足を進めたのは自分を落ち着かせる意味もあったが、さほどかからずに目当ての建物に到着した。  塀や植栽はきちんと手入れされ、窓も磨かれていて、玄関前のポーチにも塵ひとつ無い。住人のひととなりを知らしめるかのよう。  小さく息を吐いて門扉にあるインタフォンを押すと、「はい」すぐに声が返った。 「恐れ入ります、邑崎と申します」  抑えた声で言うと、「はい! お待ち下さいね!」と、どこか華やいだ声が返り、すぐに玄関のドアが開いた。 「いらっしゃい!」  髪のきれいな女性が、満面の笑顔でこちらを見ている。二十代後半か三十代、清潔感のある、健康的な笑顔。  恵人は穏やかな笑みと会釈を彼女へ向け、頭を下げた。 「突然お邪魔いたしまして」  その人の家族構成は聞いていた。両親と妹。父親とは電話で事前に話したが、そのとき訪問を忌避する感情はなかった。  おそらくこの女性は妹さんなのだろうが、母親や妹さんがどのように感じているのか、父親と話した中では分からなかった。少しの迷いと臆する心で、顔を上げるのに時間がかかったが、長いお辞儀をした恵人が顔を上げると、彼女はにこりと笑い、言った。 「どうぞどうぞ、あがって下さい」  明るい声の彼女から、興味を隠さぬキラキラとした目が向けられている。  少しの安堵と緊張感と共に足を踏み入れ、手土産として持参した有名菓子店の袋を手渡すと、彼女は嬉しそうに受け取って「こちらへどうぞ」と廊下を進む。通されたのはきれいに整えられたリビングだった。  カップボードには春を想わせる絵付けの食器が美しく飾られており、それと並ぶ棚には家族の写真とトロフィーが、壁の高いところには額装された賞状が並んでいる。ここに来た理由であるそのひと、成海(なるみ)(とおる)のものばかりだ。 (ほんとうに実績を残したひとだったのだな)  いまさらのように、(かな)わない、と思う。  すでに自分と成海さんでは人として格が違うということが定着しているが、ここに来てその感が強まるばかりだ。  そしてソファの前に五~六十代と見える女性が立って、ふわりと笑んでいる。 「いらっしゃいませ。お待ちしていました」  柔和で温かみのある笑みと声。おそらく母親だろう。緊張がふんわりと溶かされ、恵人も自然に笑みを返していた。 「突然の申し入れに、快く応えて頂き、感謝に堪えません」  しっかりと頭を下げて言うと、彼女は軽く笑って手を振った。 「まあまあ、そんな大げさな」 「もうお母さん、そんなことより、先にお通しした方が良いんじゃないの?」  妹がそういうと、母親はまたほわりと笑った。 「あら、そうよねえ」  柔らかい笑みで和室へ手を向け「どうぞ、こちらへ」といざなわれる。  リビングから続く和室に仏壇があった。ろうそくが灯され、線香が立てられている。恵人が来る直前に詣ったのだろう。  いくつかの写真や位牌が並ぶ中、ひとつだけ真新しい遺影があった。老人の顔が並ぶ中、それだけが目立っていた。 (……このひとが…)  凜として見える大きな二重の目。それを僅かに細めた男性は、三十代半ばほどに見え、まっすぐな長い髪を風にそよがせて、照れくさそうに笑っていた。  成海透。  かつて淳哉を愛し、淳哉に愛されたその人。  恵人はどうしてもこの人に、きちんと挨拶したかった。 「良い顔してるでしょう? 姉崎さんが撮った写真なのよ」  仏壇の前の座布団に正座した恵人へ、ほわりと笑んだ母親が線香を差し出してきた。 「どうぞ」  渡されたそれを受け取り、笑みで頭を下げる。 「ありがとうございます」  受け取った線香をろうそくにかざし、線香に移った炎を手で扇いで消した。それを白磁の線香立てに立て、リンを鳴らして手を合わせる。 (……成海さん。はじめまして。邑崎と申します)  自然に目が閉じ、頭を下げた形になる。  共に過ごす時間の中、つれづれに語られた『透さん』  淳哉の語るその人は、時に厳しく、時に優しく、時に抜けていたりしたけれど、幼子を抱く母親のような、息子を鍛える父親のような、できの悪い弟をからかう兄のような、そんな深い愛情で包むように接していたのだと知れた。  本当にその人は、深く深く淳哉を愛し、育んだのだと、それが伝わるごとに、恵人は思っていた。 (成海さんがいなければ、今の淳哉はない)  恵人が可愛いと、愛しいと、そう思ってしまう年下の男。かと思えば圧倒的なほどの意志を示し、支配する者となる、畏怖すべき存在。  そんなひととしての魅力と強さを併せ持つ今の淳哉は、成海というひとが作ったのだ。  一度挨拶するべき、いや、ぜひ挨拶させてもらいたいと思ってはいた。しかし押し寄せる『やるべきこと』に追われ先延ばしになっていた。だがここに来て彼の補佐に専念することになったのだ。その前に行きたい、時間も与えられたこの機会に、ぜひにと強く思った。  淳哉は『排斥されていた』と感じていたらしい、そのひとの家族。けれど話を通した小間は、『大歓迎でお待ちなさるそうです』と言った。 『成海様は、淳哉様がご自分を早くお忘れになるよう、手を打っていらしたのです』  そもそも成海の家族は、息子が仕事に意欲を示しはじめ、明るく(やまい)に立ち向かうようになったことで、淳哉に感謝こそすれ(いと)うてはいなかったのだと、そこで初めて知った。  かのひとの父親は、当日仕事で立ち会えないからと事前に電話をくれていた。 『自分が死んだ先の人生を、姉崎さんが楽しめなくなってはいけないと、そう言ったのは息子です。  だから姉崎さんとは距離を保ってくれ、そう常々言ってましてね。  いまわのきわ、最後の言葉が “今後も絶対に接触するな” と。自分を早く忘れさせなければならないと、……まあ、我が子ながらすごいことを言うなと、私はすっかり負けた気分になりました。  私らも色々考えはしましたが、遺言ですからな。それに従っているんです』  その言葉は、恵人に衝撃を与えた。  成海透は、自分が淳哉へ及ぼした影響力を自覚し、自分がいなくなることで淳哉がどう考えるかを想定していた。二人で暮らした部屋から追い出したのも、なにひとつ荷物を渡さなかったのも、遺族の意志では無く成海自身の意志だった。  それほど愛した人なら、死後も忘れてくれるなと、ずっと愛していてくれと、普通はそう願うものでは無いのか。  けれど成海は、淳哉の性格も考え方も把握した上で、自分を忘れろと、自分などすぐに切り離せと念じて、そう仕向けた。命じても頷く淳哉ではないから、こんな手法を取った。  ――――本当に敵わない……  しみじみとそう感じつつ、その人がおそらく、死の間際まで望んでいたことを知り、恵人は成海透から使命が与えられたように感じた。  淳哉の将来を、笑顔を守る、成海透が望んでいたそれを、及ばずながら自分がやっていこう。  そう思い、決意したこと。それをその人に伝えたい。そうすることが、もっとも供養になるのではないか。 (成海さん……)  それを誓うためにここに来た。 (私はあなたには絶対に敵わない。  けれど私も願っています。あなたが想った、その気持ちには届かないとしても、本心から淳哉の幸せを、あの笑顔を守りたいと思っています。その為に私の生涯をかけます。  だからこの世のことは私に任せて、どうぞ心安らかに彼を見守って下さい―――)  長い長い一方的な対話の後、目を開いた恵人は、写真の前に置かれた、小さくてきれいなモザイクのトレイを見た。  いや、その上に置かれているものに目が釘づいた。 (――――これは)  目を開いても黙っている恵人の、視線の先を窺った母親は言った。 「それは、大切な形見ですから」  淳哉の耳には三つのピアスがある。  どんなときでもそれを身につけたまま、淳哉がそれを外したところを見たことがない。  両耳にある赤い石は、成海に貰ったものだと聞いた。そして右耳の軟骨部分にある、きらびやかなダイヤは母親の形見。  それと同じものが、ここにあった。  母親はモザイクのトレイを取り、伏せた目で見つめる。 「あの子、最後の最後まで、それを外すことを嫌がりましてねえ。姉崎さんに貰った大切なものだと言って」  目を上げ、恵人を見る。 「一緒に納骨しようかとも思ったんですけどねえ、こんなにきれいでしょう? それはもったいないって思って、ここに飾ってるんですよ。お仏壇がちょっと華やかになるでしょう?」  そして、ゆるりと振り返って恵人に目を向け、柔らかく笑みを深める。 「良かったら、お持ちになりますか」 「え…っ、いえ……」  たった今、大切な形見だと言ったでは無いか。 「これは姉崎さんを守るものだって、あの子は言ってました。あなたは、姉崎さんを守るひとなのでしょう?」  目を見開いて、恵人はなにも言えずに首を小さく振った。 「あの子と同じように姉崎さんを守るひとでしたら、持って行って頂いた方が良いのでは、とね。主人と娘と、昨夜話しましたのよ」  トレイは恵人の手に押し付けられ、おもわず受け取ってしまったそれに目を落とす。  高価なピアスが、光を受けてキラキラと輝いていた。 「あの子の遺言ですから、私たちは姉崎さんに会いに行けません」  どこか毅然とした母親の言葉に、恵人は呆然としたまま顔を上げた。 「けれど本当に感謝しているんです。あの子は、それはそれは幸せそうに笑って逝ったんですよ。全部姉崎さんのおかげだったと、私たち、分かっています」  なにも言えず、ただ見返す恵人に、その女性は頭を下げた。 「お願いします。私たちが感謝していることを知っておいてもらいたいんです。ご本人に伝えることが無理なら、せめて傍にいる方に。お願いします。これを持って行って下さい」  きれいに染められた頭髪は、頭頂が少し薄くなって、その頭が目の前で下げられたまま上がらない。 「……あの、頭を上げて下さい」 「受け取って頂けます?」  上がらぬままの頭から、密かな声が聞こえる。拒むことなどできるわけがない。恵人は言っていた。 「分かりました。私が大切に保管します。姉崎を守ると誓います。ですからどうか」  パッと頭を上げたその女性は、満面の笑みだった。 「よかったわあ、これで安心」  呆然として声も出ない恵人に、ほほ、と笑いながら言った。 「だってこんな高級な宝石なんて、うちに置いておいてうっかり無くしたらなんて心配で心配で」  本当に安心したようなほわりとした笑顔のまま、彼女は腰を上げ、規定の事実であるかのように続ける。 「邑崎さん、お茶の用意があるのよ、甘いものは好きかしら? おいしいフィナンシェを用意してあるのよ、こちらへ……ああ、お土産もいただいてたのね。お持たせですけど、そちらもいただきましょう」  すっかり意思を無視された形になってはいたが、思わず笑んでしまいつつリビングに戻る。  そして上機嫌の彼女から、夜が更けて彼女の夫が戻るまで、もう亡い息子の自慢話を聞かされ続けたのだった。

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