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いちばん 欲しいもの
朝起きると、すでにできてる朝食を食べて、出勤する淳哉を見送る。
店に出るときはそれから準備して出かけるが、家でやるときは紅茶をゆっくり飲むのみで、すぐ部屋にこもる。昼どきに淳哉から電話が入るのは、没頭して時間を忘れがちなのを心配しているからだ。冷蔵庫に用意されている昼食をとり、仕事に没頭していると淳哉が帰宅して夕食を作り始める。店に出ているときは、透の方が遅く帰宅する場合もある。
叶う限り夕食のタイミングは合わせる。二人でゆっくり食べながら、あれこれと話をして、食事の後片付けは透の仕事だ。
それが終わって風呂に入り、淳哉は楽しそうに透の髪や体を洗って、丁寧に髪を乾かしてくれる。
それから淳哉は酒を用意し始め、透は紅茶をいれる。ソファに並んで座り、とりとめない話をする。
透と淳哉の、これが日々のルーティンである。
そんな、ある金曜の夜。
今日はずいぶん饒舌だな、と思いながら、透は淳哉の話を聞いていた。
話は大学時代、羨んだ人がいたというところから始まり、大学院に進んだが学問にまい進する道ではなく、就職を選んだ経緯にまで及んだ。
高校時代までの淳哉より、少し大人になってるなと感慨深く思いつつ、透は違和感を感じていた。過去の力不足を語るとき、常なら悔しそうになるのに、今日はずいぶん淡々と、むしろ機嫌よさそうに話しているのだ。
適当に相槌を打ちながら、しかし透は注意深く恋人の様子を見る。
このところ姉崎に関連する人物と頻繁に話をしているようで、以前ひどく冷たい認識をしていた家族に対して少しでも考え方が変わったのかとも思っている。むろん家族との関係が改善したのなら喜ぶべきことだ。
しかし、今の話からだと、それはなさそうでもある。
ただそういった変化がなにかしらの影響なのではないか、と考えると、妙に饒舌な今日の話に関連しているのではないかとも考えられる。
今日の恋人のいつもと違う様子は、なにかしら告げるつもりで準備として話しているのでは。
「それはそうと」
軽い調子の声に、ティーカップにくちを寄せつつ目を上げた。
「ん?」
淳哉は意味深にニッコリ笑う。透も笑い返して、ひとくち飲んだティーカップをテーブルに置いた。何かありそうだと用心したのだ。
だがニヤニヤと笑うだけで続きを言わない淳哉に眇めた目を向ける。
「なんだよ」
すると淳哉は企んだような笑顔のまま少し声を低めた。
「僕、学校をやめることにした」
「はぁ?」
思わずソファの背から身を起こし、声を上げる。
「なっ……なんで! なんかやったのか、おまえ!」
透は動揺しまくったが、淳哉は計算通りとばかりに「ハハッ」と軽く笑った。
「だからクビじゃないよ、僕の意志で退職? するの」
「俺聞いてないぞ」
微妙に疑問形なイントネーションになる淳哉に不信感しかわかない。
「うん、言ってないからね」
「なんでだ、なんか不満とかあったのか?」
「ていうか不満とかじゃなくてさ、いろいろ言われてたんだ、最初から」
「さいしょ?」
「さっき話したじゃない。父の関連でさ。日本に来た高校生の頃から、言われてた」
「なっ、なにを」
「自覚とか、覚悟とか、そういうこと」
淳哉は笑いかけた。
「透さん。僕はあなたを守りたい」
その声に、透はさらに狼狽を深める。
「え、え?……なんだ急に?」
「急じゃないよ。ずっと考えてたんだ。どうしたらいいかって」
肩をすくめ、苦笑する淳哉は、どこかスッキリした顔をしていた。
「守りたいけど、今、僕の力は足りなすぎて、なにもできない」
「ばか、メシだって作ってくれるし、マッサージも……」
「そういうことじゃないよ」
「じゃあなんなんだ」
苛立ったように声を荒げた透に、淳哉は真摯な目を向けた。
「聞いて」
透は目を見開いて口を閉じ、身構えた。
淳哉がこんな顔をするのは滅多にない。ならばなにも聞き漏らすまい。
「僕はもっと大きな力を持ちたい。そう考えたんだ」
淳哉の目をまっすぐ見返しながら、透は思い出していた。弱い自分が嫌いな淳哉。
「あなたの役に立ちたい。できることをもっと増やして、あなたをもっと幸せにしたい。だって今、僕が最も欲しいのは、あなたの笑顔なんだよ、透さん」
「……俺は、笑ってなかったか?」
「そんなことないよ」
「ほんとか? 俺のせいで不安になったとかじゃ」
「違うって。僕が勝手に、透さんの為にできる事を考えてたんだよ」
少し眉尻を下げた淳哉は透を抱き寄せ、肩に顎を乗せると髪に頬をこすりつける。いつもの甘えた仕草。
「ステイツにいたころ、いつもやってたことなんだ。利用できるものはなんでも利用して、僕の利益になるよう動かす、みたいな。それ思い出して、同じようになんかやれないかなって考えた。そしたら僕には、利用できるものがあったんだよ。考えようによっては強力なやつがさ」
「強力?」
少し笑ったのが、髪をくすぐる息の動きで分かった。
「ていうか、足かせでもあったり、なんだけど……僕の父って、どうやら姉崎崇雄なんだ。……知ってる?」
「アホか!」
肩を押して離れさせ、淳哉を睨んだ。
「知ってるつの。決まってるだろ! つうか」
ふうっと息を吐き、気持ちを整える。
「そうか、……うん」
生い立ちの話を聞いて苗字から連想し、もしかしたら、いやまさか、と考えていた。そして続いた説明は、今淳哉を取り巻く状況、そして淳哉の母親がなぜ死んだのか、実は淳哉を狙った凶行だったらしいということ。
「なんだそれは」
仰天して喉に引っかかったような声が漏れる。
淳哉はニッと笑った。
「透さん、僕は父の仕事を手伝うことにした。そう決めた」
「……そう、か」
ようやく出た声は、吐き出す息の量が勝っていた。ムクムクと不安が膨らむ。今聞いた話の通りなら、それは淳哉が危険になるってことじゃないのか。
「といっても、具体的に会社に通うとかってことにはならないよ」
「どういうことだ」
「敵対勢力の目を、わざわざ僕に向けさせる必要はないからね」
敵対勢力。恋人の笑顔から、そんな言葉が出たことに背筋が震えた。
「学校も、事実上行かなくなるだけで、書類上は在籍のまま。病欠とか、そんな感じで処理するみたいだし」
「そ、それで大丈夫なのか? おまえ、怪我とかしたら」
淳哉はくすっと笑って肩をすくめる。
「父が今僕を使う最大の利点は、僕の行動があっち陣営に知られないってことだもん。そこを潰す気はないでしょ。だから危険なことは何もないよ。とりあえず、家でできることをやることになりそう。……一緒にいられる時間が増えるね」
そう言ってニッと笑う淳哉を見つめていた透は溜息をついて、ティーカップに手を伸ばす。
「おまえまさか、それが目的じゃないだろうな」
「まさか。まあ、大きなメリットとは思ったけど」
「どうだか」
透は投げやりな口調で言って、紅茶にくちをつける。だいぶ冷めていた。
「でもま、おまえがなにをやろうと、俺は応援するぞ。あ~、……犯罪以外はな」
淳哉は吹き出して、愉快そうに肩を揺らす。
「やらないよ、そんなの」
「ならいい。……まあその、なんだ。………背中は任せろ」
言ってから少しクサいか、と思い紅茶を飲もうとして、淳哉が目を丸くしているのが目に入った。なんだか間抜けな顔だと笑ってしまう。すると淳哉の腕が伸びてきて、透を抱き寄せようとする。
「ばかっ!」
透はソファの腕をつかみ抗う。
「お茶が零れ…っ、こらっ!」
しかし構わず透の背を抱き、髪に頬を擦りつける。
「大好きだよ、透さん。今の笑顔、最高だった」
「うるさい、いいから離せっ」
「え~」
不満げな声を出したが、淳哉は腕を緩めた。間近な顔を見る。
嬉しそうな淳哉が、口許に笑みを湛えたまま囁いた。
「僕は欲しいものを手に入れる。絶対にだ」
END
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