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第2話 日課
午後、葵はいつものようにトレーニングジムへと向かう。当然、結糸も一緒である。
視覚を失っていても、葵は己の肉体を鍛えることを日課としている。ジムでマシンを使ったり、水泳をしたり、結糸にリードされつつジョギングをしたりと、葵は毎日一、二時間は身体を動かしている。
ジムでは専属のトレーナーがつくものの、毎日小一時間のジョギングに付き合うのは結糸だ。今日も、マシントレーニングを終えた後、葵は結糸を伴ってジョギングに出た。ジムのそばに広がる湖のそばを走るのだ。
葵は結糸の肩に手を置いて、呼吸と歩調を合わせて走る。その独特のペースに慣れるまで、結糸は随分気をすり減らしたものだった。しかし、葵は結糸がどんな失敗をしようとも、決して結糸を責めたりはしない。
そっけない口調だが、葵はいつも的確なアドバイスをくれた。常に落ち着いた態度だし、ときにはきちんと労いの言葉をくれる。
そういうところは、さすがはアルファの名門・国城家の男であると、結糸は常々感心していた。感情も肉体も、全てをきちんとコントロールすることのできる有能さには感服だ。
「結糸、次は湖の方へ行きたい」
「あ、はい! いきましょ……はぁ……っ」
「結糸はすぐに息が上がるな。一緒に走るようになって結構経つのに」
「いや……、そですけど、……っ、葵さまの体力がすごいんですって……」
一時間以上そこそこの速度で走りっぱなしなのだから当然だろう……と言いかけて、結糸はやめた。こういう時に、アルファとオメガの違いを痛感する。ポテンシャルがそもそも違うのだろう。
アルファは皆体格が良く、筋肉もつきやすい。対するオメガは、男女ともに体つきは華奢であり、筋肉もつきにくいものなのだ。
例に漏れず、結糸もそういう体質である。もし葵と同じトレーニングをしたとしても、結糸にはほとんど筋肉などつかないだろう。
つくづく、神様は不公平だなぁ——と、結糸は思う。
ふと、心地よいリズムで隣を走る葵の呼気を、耳の後ろに感じた。それだけで、どきどきと高鳴ってしまう自分の心臓が忌々しい。肩に置かれた葵の手から伝わって来る体温にも、毎日のように胸をときめかせてしまうのだからたちがわるい。
ちらりと横目で葵を見上げると、玉のような汗がこめかみを伝っていた。白い肌をほんのりと上気させ、薄く唇を開いてテンポよく走る葵の姿に、またうっとりと見ほれてしまいそうになる。
——葵さまの汗……キラキラしてて綺麗だ。それに、運動してるときのこの人の匂い、すごく好き……。
「そういえば、明日だったかな。兄さんが来るの」
「えっ!? ええ、はい。……明日の朝っすね……。何かお話があるとかって……はぁっ……」
「ははっ、敬語忘れてる。もういいじゃないか、敬語なんてやめたらいいんだ」
「あっ……すみませ……はぁっ……、だから、トレーナーと一緒に走った方が……って、いつも……」
「いいや、いいんだ。結糸の走るペースがちょうどいい」
「そ、ですか……? はぁ、はぁっ……」
「今日は熱はなさそうだな。一周回ったら帰ろう」
「はい……っ……」
葵は、結糸の体調の変化に割と敏感だ。手や肩に触れることが多いせいだろうか。
おおよそふた月に一度程度の頻度で訪れる発情期の最中は、いくら抑制剤を飲んでいても、どうしても身体がだるくなる。そんなとき、葵は敏感に結糸の体温などを感じ取っているようだった。
そういう日は、「今日はがっつり走りたい」と言ってジムのトレーナーとジョギングに出たり、「今日は俺が疲れたからやめとこう」といって、さりげない気遣いを見せてくれる。こんなにも丁寧な扱いをしてくれる主人の元を、離れたいと思うわけがない。
でも、そういう優しい気遣いに期待をしてはいけないのだと、結糸は常々自分に言い聞かせている。葵は、誰にでも分け隔てなく優しいのだ。家庭教師たちに対する態度も、他の使用人たちに対する態度も、それぞれに紳士的。葵と最も付き合いの長い壮年の執事長・勢田が話していたことを、結糸はふと思い出した。
『蓮様が家督を継ぐことになってから、葵様の態度はがらりと大人びたものになった』という話だ。
蓮が家督を継いだのは、葵が十五のときのことらしい。兄の邪魔をしないよう、兄の名を汚さぬよう、葵はそれまで以上に努力を重ねたのだとか。『目が見えないことを言い訳にしたくない』と言い、学問もスポーツも熱心に取り組んでおられたと、勢田は誇らしげに語っていたものだった。
結糸はまだ、二、三度しか蓮に会ったことがない。まともに話をしたのは、国城家に雇い入れてもらえるかどうかを面接してもらった時だけで、それ以降は挨拶程度にしか言葉を交わしていない状況だ。
蓮は恐ろしく多忙で、葵のいる本邸に戻ってくるのは月に一、二度あるかないかという程度だ。普段は官庁街からほど近い場所にあるオフィス兼居住スペースで寝起きしている。
そんな蓮が、葵に『話がある』と言ってやってわざわざやって来る。いったい何事だろうと、結糸も内心気にしていた。
「蓮さまは……はぁっ……あおい、さまに……はぁっ……」
「え? なに? 聞き取れないよ、歩こう」
「す、すみませ……!」
「いいんだ。今日はクールダウンのつもりで走りたかっただけだし」
「はぁ……そでしたね……」
クールダウンにしては過酷なジョギングだったな……と思いつつ、結糸は徐々に速度を落とし、湖のほとりのベンチのそばで立ち止まった。灰色のジャージに包まれた自分の膝に手をつき、はぁはぁと呼吸を整えている間、葵は目を閉じて腕を回したり伸びをしたりしながら、深呼吸をしている。
膝丈のトレーニングウエアから覗く、長いひざ下。黒いスパッツに覆われたふくらはぎや細い足首は芸術的なまでに美しいラインを描いていて、ついつい目を奪われてしまう。
そんな結糸の視線などつゆ知らず、葵は速乾素材のパーカーの袖をまくって、腰に帯びていたペットボトルから水を飲んだ。
仰いた顎と、突き出した喉仏の稜線が妙に色っぽく、そこを伝う汗のきらめきにも目が釘付けになってしまう。結糸はことさらまじまじと、葵の動作に見惚れていた。
——こういうとき、葵さまの目が見えてなくてよかったって思う……。だって俺、完全に見過ぎ。ただのキモいやつだもんな……。
そう思って油断していると、葵がふと結糸のほうへと顔を向けた。結糸は内心仰天する。
「なっ、なな、なんですかっ!?」
「いや。なんか、誰かに見られてるような気がして」
「へ、へぇ~~。誰っすかね。あっちのほうに女性がいるからかな~。葵さまはほんっとどこにいても目立つから……!」
「ふーん……まぁいい。シャワーを浴びたいから、連れてってくれ」
「は、はい!」
すっと持ち上げられた葵の手に触れ、そっと自分の肩に導く。この瞬間が、結糸はとても好きだった。
肩に軽く置かれた葵の手は大きくて、指が長くて、あたたかい。こうして運動をした後の葵の体温や汗の香りに鼻腔をくすぐられるたび、結糸は腹の奥底から湧き上がりそうになるむず痒い衝動を抑えようと、ぐっと奥歯を噛み締めるのだ。
——アルファを誘うのはオメガのはずなのに。俺はこの人の香りに、誘われてばかりいる……。
「結糸、大丈夫か? ちょっと走りすぎたかな」
「えっ!? あ……あー……そうですね。ははは……」
「この後のスケジュールはなんだっけ」
「ええと、夕食の後に来客があると、勢田さんが言ってましたよ」
「あ……そうか。面倒だな……」
「面倒? ご友人とかではないのですか?」
「……友人ではないことだけは確かだな。ま、結糸はゆっくり休んでろ。明日の朝は散歩に出たい」
「あ、はい! 分かりました」
葵には見えないと分かっていても、散歩に誘われたことが嬉しくて、ついつい振り返って笑顔を見せる。そんな結糸の反応を感じ取ってか、葵は白く濁った目を細めて薄く微笑んだ。
——ああ……。本当にこの人は……。
こうして軽く微笑まれるだけで、天にも昇るような気持ちになる。
いつまでも、こうして葵の手を引いていられたらどんなに幸せだろうかと、結糸は思った。
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