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第3話 侵入者!?
「はぁ……何やってんだろ俺……」
トイレに流れてゆくトイレットペーパーを見送ったと、結糸は派手に脱力してため息をついた。
昨日、ジョギング後の葵のシャワーシーンをしっかり見てしまったせいか、いやらしい夢を見たのだ。どろどろに汚れた下着の気持ち悪さで、結糸は目を覚ましたのである。
葵の裸を見ることは結糸にとっては日常であるが、それも未だに慣れてはいない。
一緒にシャワーを浴びるというわけではないが、一人でさっさと服を脱いでしまう葵の手を取って浴室の中に導くのは結糸の仕事だし、シャワーを終えて出てきた葵にバスローブを羽織らせるのも結糸の仕事だ。葵は自分の美しさについてはまるきり無頓着であるから、じつに男らしい脱ぎっぷりを披露する。ジムのシャワールームであってもお構い無しだ。
葵にとっては世話を焼かれる生活が当たり前だし、目が見えないのだから他人の視線など気にならないのかもしれないが……結糸からしてみれば、葵の裸体をジムのシャワールームなどで人目に晒すことには、ものすごく抵抗を感じてしまう。
時折投げよこされる脂っこい中年親父の粘着質な視線からは、なんとしてでも葵を守らねばと頑張ってしまうのだ。
しかし同時に、誰よりも葵の裸体を見て興奮しているのは自分であるという自覚もある。
均整のとれた美しい裸体に、玉のような水滴が付着している様はそれはそれは見事なもので、結糸はしばしばタオルを手渡すことを忘れて魅入ってしまいそうになる。不埒な自分を心の中でタコ殴りにしながら、結糸は葵にバスローブを羽織らせるのだ。
「はぁ……」
ーー俺は男だ!! 普通の男として生きるんだって決めてるのに!! なんだよこれ! あぁ、情けない……。
結糸は質素なベッドの上にあぐらをかき、頭を掻きむしる。
『葵に抱かれたい』という強い欲求が、ここ最近、唐突に湧き上がってくることがよくある。それに耐えきれず、時折葵をオカズに自慰行為にふけってしまうこともしばしばだ。
発情期でもないのになぁ……と思いつつ、ふと、前回の発情期はいつだったかなと、結糸は思った。用心するあまり抑制剤を常用しているため、自分自身でも発情期の頻度が分からなくなってしまっていることに、結糸はようやく気が付いた。本来は、こんな飲み方をしてはいけない薬なのに。
「……うーん……。でも最近、ちょっとムラムラしすぎな気がするし……。え、ひょっとして、今がそうなのかな。量を増やした方が……」
「結糸! 遅ぇ! そろそろ蓮様がお着きになるんだぞ!!」
突然、結糸の自室のドアが派手に開いた。そして、苛立ち顔の執事の勢田が顔を出す。
勢田は今年三十五歳の執事長だ。たっぷりとした黒髪をさらりと流して横分けにしており、いつも完璧に執事服を着こなしている。結糸は今まで一度も、勢田の白いタイが曲がっているところを見たことがないし、髪の毛がひと房でも乱れているところを見たことがない。
しかし、バックヤードでの勢田の口調は荒々しいし、結糸の扱いも雑だ。だが、そういう勢田の態度は、国城家という名家の中で過ごす結糸の緊張感を和らげてくれるのだ。どことなく祖父を彷彿とさせる彼の鷹揚さは、結糸にとってとてもありがたいものであった。
「ん? どっか具合でもわりーのか?」
「えっ? だ、大丈夫です……」
「そか? じゃあ、早く着替えろ! 髪も乱れてるぞ、ビシッとしろ!」
「あ、す、すみません!」
「葵様は?」
「あっ……これから起こします」
勢田はハッと何かを思い出したように、腕時計に目を落とした。
そして少しばかり目を泳がせながら、こんなことを言う。
「……もう三十分ほど寝かせてあげたらいい。起こすのはそれからでも……」
「え? でも、もう蓮さまが来るんでしょ? じゃあすぐに起こして着替えを……」
「いや、でもな、」
その時、結糸の自室の真上にある葵の部屋から、ドシン!! ガタン!! と派手な音が響いた。
結糸は仰天して飛び上がり、だぼっとしたシャツのような形をした寝巻きのまま部屋を飛び出し、階段へと突っ走った。
裸足で絨毯敷きの階段を駆け上り、葵の部屋へと一直線に突き進む。葵の部屋からそんな物音がするのは初めてのことで、何があったのかと考える余裕も持てなかった。
結糸は、葵の部屋の扉をバターーン!! と開いた。
「葵さま!!? どうしたんです…………だ、誰だお前!?」
「あいたたた……」
見たこともない若い男が、濃色のフローリングの上に転がっている。そしてベッドの上には、青い顔をしてパジャマシャツの前を押さえている葵の姿があった。不安げな表情できょろきょろと目線を彷徨わせていた葵は、結糸の声に気づいて顔を上げる。
「結糸? この部屋、あやしいやつがいるんだ! すぐに人を呼んで、」
「……誰だてめぇぇええ!!!」
目の見えない葵の寝込みを襲うという卑劣なやり方、結糸にとって唯一無二の存在である葵に手を出したこと。その行為が許せなくて、結糸は一足飛びに部屋に踏み込み、床の上に座り込んでいる男に飛びかかった。
「うわぁああ!! や、やめ、違う……っ」
「どっから入ったこの野郎!! 勢田さん!! 警察呼んで警察!!」
「ちゃう、ちゃうねん……!! 僕は……っ!!」
「……須能 ……? なんだ? 須能なのか?」
耳慣れない関西弁で大騒ぎをする男の悲鳴を聞いて、葵が戸惑ったような声を出した。結糸はぴたりと手を止めて、ねじ伏せた怪しい男をじっと見下ろす。すると駆けつけた勢田が、さっとカーテンを開いて部屋を明るくした。
「せや!! 僕は須能や!! 昨日泊めてもろた……」
「は!? 泊まった!? ここに!? つかてめぇ誰だよ!!」
「き、きみこそ誰やねん!! 僕は……蓮さまに呼ばれて、葵くんに会いに……!!」
「れ、蓮さまに?」
蓮の名前を聞き、結糸は慌てて男を解放した。
男はよろりと立ち上がり、捩じ上げられた腕を痛そうに摩っている。見ると、その不審人物は結糸とさほど体格の変わらない細身の男だった。
艶のある長い黒髪をゆるく一つに結わえた、細面の雅やかな男だ。身につけている和服は、落ち着いた草色の着流し。結糸にねじ伏せられたせいか、着物の裾が割れ、片方の太ももがむき出しになっている。
「……須能、お前、何してるんだ。俺に何を……」
「いやいやいや、さすがはアルファさんやなぁ。目が見えへんでも、僕のみぞおちどついて突き放すやなんて……いてて」
「……だ、誰ですかこいつ」
結糸は葵の方へと駆け寄り、なおも戸惑いがちに目線を彷徨わせている葵の肩に手を置いた。結糸の手の感触に葵はぴくりと身体を揺らしたが、すぐに結糸の手に手のひらを重ねてため息をつく。
「須能正巳 。……兄さんの友人で、日本舞踊須能流、二六代目家元だ」
「……い、家元?」
「やれやれ、わざわざ京都から来たんやで? っていうか、ほんまやったら僕、ここで一緒に葵くんと寝てるはずやったのに……」
「え? は? 寝る!? 何言ってんですかこいつ!? 葵さま、こいつ警察に突き出しますか!?」
「ちょう待ちや。さっきからきみ、何? 葵くんにベタベタベタベタ、なんやねん」
「は? そっちこそ何? 葵さまの寝込みを襲うなんてありえねえ。なんなのお前」
「……落ち着けよ二人とも」
葵に宥められ、完全に喧嘩腰になっていた結糸は渋々黙った。怒りと不愉快のあまりイライラしている。
それは相手も同じ様子だ。須能正巳は懐手をしてジロリと結糸を睨みつけながら、挑発的に顎を上げた。
「僕はな、葵くんのパートナー候補として呼ばれたんや。オメガやで僕。頭が高いねんドアホ」
「パートナー……? え? オメガ……って。葵さま……」
「……」
葵は気まずそうにまぶたを伏せ、しばし黙った。結糸ははらはらながら、葵の次の言葉を待つ。
「……俺にその気はない。けど……」
「けど……?」
「葵くんと僕、こう見えて小さい頃から知り合いやねん。葵くんにやーっと抱いてもらえる思て、全身くまなく綺麗にしてここまで来たのに。葵くんはつれないし、別の部屋で寝ろとかいうし……」
「だ、抱い……っ……?」
結糸の声が裏返る。しかし須能は肩をすくめながら淡々と続けた。
「昨日なーんにもしてもらえへんかったから、寝起きにちょーっとチューでもしたろかなと思って来てみれば、このざまや。……てかきみ、誰? きみもパートナー候補なん?」
「お、俺は……。葵さまの使用人、だけど……」
「使用人? てことはベータの子ぉか。ほんなら、きみには全然関係ない話や。どっか行っといて」
「……ぐう」
猫の子でも追い払うような仕草で手を払われ、結糸はぐぎぎと奥歯を噛み締めた。すると葵は気遣わしげな表情で、背後にいる結糸をちらりと振り返る。
「なんだ、朝から賑やかだな」
その時、開かれたドアをノックする音が響き、睨み合う結糸と須能の険悪な空気を断ち切った。
葵と面差しのよく似た男が、部屋の中にすっと足を踏み入れる。
鮮やかな金色の髪、東洋人離れした白い肌、そして淡く金色味を帯びた、深い翡翠色の瞳をもつ男である。上背のある逞しい肉体を仕立てのいいシルバーグレーのスーツで飾ったその姿は、輝かんばかりの華々しさだ。
国城蓮は涼しげな笑みを唇に乗せ、革靴の音を響かせながら葵の方へと近づく。すると葵の肉体に緊張が走るのを、結糸は感じた。
そして同時に、こうして久方ぶりに目の当たりにする国城蓮の威圧的なオーラに、結糸もまた完全に気圧されていた。
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