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第8話 葵

   セックスに、視力など関係ない。  何をすべきかは、本能が知っているからだ。  ——噛みたい、結糸の首筋に歯を立てたい……。獣のように喰らいついて、俺の番にしてしまいたい……。  その欲求こそが、葵の、アルファとしての本能だった。  本当ならば、優しく、優しく抱きたかった。できるならば、こうして本能の赴くままに腰を振るのではなく、お互いの気持ちをしっかりと確かめ合った後に、穏やかで優しいセックスがしたかった。  しかし、想像以上にオメガのフェロモンは強力だった。  それが、思いを寄せ続けていた相手のものならば、なおさら。  葵の理性はいつしか消え失せ、結糸を所有したい一心でその身を貪った。何度も何度も結糸の中に精を吐き、言葉も忘れて快楽に溺れた。  荒々しいセックスを押し付けてしまったが、何もかもをさらけ出して乱れてくれる結糸が可愛くて、愛おしくてたまらなかった。「すき」「きもちいい」「もっと」と、うわごとのように睦言を囁かれるたび、葵の性はより一層激しく滾った。 『アルファとオメガは惹かれあい、番となるのが自然の摂理』……それは、幼い葵に倫理を説いた女性家庭教師の言葉。  番となるものは、自然と匂いで惹かれあい、唯一無二の存在として認め合う。番(つが)うことを誓うとき、アルファがオメガの首筋に牙を立てる。そうして、番を成立させるのだと。すると、アルファは番のオメガのフェロモンにのみ肉体が反応することとなり、他のオメガには関心を抱かなくなる。……そういう仕組みでこの世は回っているのだと、そう教えられていた。  しかし同時に、『国城家において、そんなロマンチシズムは必要ない』と、兄である蓮に教え込まれた。  葵には両親の記憶がほとんどなく、血を分けた近親者は兄の蓮だけ。五つ年上の蓮は、葵にとって親のような存在だ。勉強を教えてくれたり、一緒に風呂に入ったり、葵の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれたものだった。葵が眠れないと訴えれば、蓮は一緒の布団に入って、いつまでも頭を撫でていてくれたものだった。  兄が好きだ。でも、葵自身の意思や考え方が明確なものとなっていくにつれ、兄の考え方に共感ができなくなっていた。兄の思想を理解することはできても、心がついていかなくなっていった。 『番など必要ない。唯一無二の存在など作るべきではない。お前は国城家の男だ、多くのオメガを抱いて子を作れ』 ——それが、蓮の頑なな思想である。  番を作ってはいけない。  兄の言葉が、予想以上に葵自身の心に食い込んでいることに気づかされる。  どんなに理性を失おうとも、葵は最後まで、結糸の首筋に牙を立てることはなかった。どうしても、噛みつくことができなかったのだ。  兄の言葉に歯止めがかかったということもあるが、それ以上に、結糸の意思を葵は知らない。結糸は何度も何度も「好き」と言ってくれたけれど、それは発情(ヒート)に浮かされてこぼれ落ちた睦言のひとつに過ぎないのかもしれない……そう思うと、自分の気持ちを押し通すことなど、できなかった。  結糸の本心が知りたい。  叶うのならば、いつもの、元気で明るい結糸の口から、愛の言葉を聞きたかった。  +  結糸と出会った時、違和感を感じた。  使用人としてやってくるということはベータなのだろう……が、結糸が身にまとう空気は、これまで葵が出会って来たベータたちのものとは何かが違ったからだ。  この少年はオメガかもしれない、と思い始めたのは、兄が度々パートナー選びの話を持ちかけてくるようになってからだ。ひょっとすると兄の差し金かもしれない、とも疑った。身近で世話をするうち、なし崩し的に関係を持つようにと(はか)られているのではないかと。  しかし、結糸は葵に色仕掛けをしてくることもなく、丁寧に丁寧に葵の手を引いてくれた。結糸は本当に、兄の差し金ではなかったのだ。  これまでの使用人と比べて、結糸はとても不器用だった。でも、結糸は誰よりも丁寧に、葵の目の代わりをしてくれようとしていた。歳も若く身体も小さかったが、結糸は誰よりも努力家だった。  その日の天気、咲いている花の色、食事の時に使う皿の色、その日の服やテーブルクロスの色、食べ物や紅茶、果物の色。または、ジムのインストラクターのウェアの色まで、結糸は葵にわざわざ伝える。外の世界が(いろど)りに満ちていることを、葵に伝えようとしているかのように。  伝えられる情報があまりに多いと混乱してしまいそうなものだが、結糸の語り口はとても軽やかで楽しく、葵は結糸の声を聞くのがとても好きになった。目が見えていた頃の記憶の中に沈んでいる美しい風景たちが、結糸の言葉を通じて蘇ってくるような気がした。  結糸と過ごす時間が、心地良かった。  明るくて、元気で、多少抜けたところのある結糸と過ごしていると、葵自身も自然な自分でいられる気がした。  結糸の香りもまた、葵にとって心地良いものだった。  自然の中に咲くちいさな野花のような、清々しくも甘い匂いだ。  その香りが、時折強くなることにも気づいていた。そういう時の結糸は、いつも以上に体温が高く、どことなくぽうっとしているような感じがするのだ。それが発情期のサインかもしれない……と、葵は察した。  今まで、兄の計らいでオメガと引き合わされる機会はあったけれど、葵の心は何も反応しなかった。アルファを誘う彼らの甘い香りも、好きだとは思えなかった。  なのに、結糸の香りはこんなにも惹きつけられる。こんな体験は初めてだった。  普段は、心地よく葵を落ち着けてくれる優しい香り。しかし、発情時の結糸の香りは、葵の理性に少なからず揺さぶりをかけてくる。  ——もっとそばにいて欲しい。肌に触れたい、抱きしめたい、キスがしたい、もっと、その先も……。  結糸の放つ芳香に惑わされ、そういう欲望を抱き始めている自分を汚らわしいと感じた。結糸を大切にしたいと思っているのに、気を抜けばとんでもないことをしでかしてしまいそうで、怖かった。だから結糸の具合が悪そうなとき、葵は普段以上に自分を律し、あえて小難しいことばかり考えるようにしていた。  結糸に嫌われたくなかった。落胆させたくなかった。  目が見えないという弱点を覆い隠せるくらい、優秀でありたい、知的で紳士的な男だと思われたい。さすがはアルファだと、さすがは国城家の男だと結糸に認めて欲しくて、葵はこれまで以上に勉学にもスポーツにも励んだものだった。  だが、あんな形で、ついに葵は一線を超えてしまった。  次に結糸と会うときに、どういう顔をしていればいいのだろうか。  そして結局、一睡もできぬまま朝を迎えた。  窓の外で鳴いている小鳥の声で、空が明るくなったのだと分かる。 「おはようございます、葵さま」 「……っ」  いつものように軽いノックの音のあと、結糸が静かに葵の部屋に入ってくる。葵は身を強張らせ、ベッドの中で息を殺した。  結糸はいつもの調子でカーテンを開け、朝のすがすがしい風を部屋に入れている。その風の匂いとともに葵の鼻腔をくすぐるのが、甘い、結糸の匂い。朝一番の風に乗って、寝起きの嗅覚を刺激するその一瞬が、一番強く、結糸の匂いを感じるのだ。 「葵さま、起きてくださいよ。今日は手術前の検査がありますからね!」  どことなく緊張感のある声だ。動揺を必死で覆い隠そうとするような、無理の滲む元気な声。葵はもぞりと起き上がり、結糸の気配を探して顔を巡らせる。 「ほらほら、これに着替えてくださいね。食事の後、すぐに病院ですから」 「結糸」 「何も問題がなければ、翌日から入院なんですって! 着替えとか支度しないと、」 「結糸……!」 「っ……は、はい」  昨日のことをなかったことにしようとしているかのような結糸の態度に、葵は少なからず傷ついた。葵はベッドの縁に腰掛けると、窓辺のあたりに感じる結糸の気配へと声をかける。 「……昨日のこと……だけど」 「あ、ああ! あの、すみませんでした! 葵さまは何も気にしなくていいですから」 「……え?」 「あ、あ、あの……俺、オメガだってこと……隠してて、すみませんでした!! 葵さまはそのこと気づいてたのに……ずっと黙ってくれて、ありがとうございました!」 「結糸、俺の話を、」 「お、俺、今まで以上に頑張りますから! 目の手術が終わってからも、最初は色々と人の手が必要だと思うし、俺、なんでも手伝いますし!」 「結糸、おい……」 「あ! もし目が見えるようになって俺のことが不必要になったら、その時は……」 「……もういい、少し黙れ!」 「っ……」  葵に口を開かせまいとしているのか、結糸はいつも以上に大声で、いつも以上に早口に喋った。葵はしびれを切らして立ち上がり、ついきつい声をあげてしまった。結糸の気配がひゅっと小さくなり、戸惑っているような沈黙が落ちる。  葵は結糸の立っているであろう窓辺のほうへと、ゆっくりと歩を進めた。自分の部屋の間取りくらい、理解している。 「結糸。……あの言葉は、本当なのか」 「……へっ……?」 「俺を好きだって、言ってくれたろ?」 「そ、それは……」 「どうなんだ」 「……」  痛いほどの静寂が、二人の間に横たわる。素足から伝わってくるフローリングの感触が、異様に冷え冷えとしたものに感じられた。結糸が息を飲む音、呼吸を躊躇っているかのような不安定な息の音が聴こえてくる。耐えきれないほどの重い空気に耐えきれず、葵はもう一歩、二歩と結糸の方へと近づいた。 「結糸……」 「あのっ、俺……!」 「……ん?」 「俺……す、すみませんでした! まともに発情するの、久しぶりで、なんかこう……訳わかんなくなっちゃって!!」 「……」 「ずっと、薬で抑え込んでたんです。勢田さんがいうには、無茶な飲み方してたから、薬効かなくなっちゃったみたいで。でも俺、これからはちゃんと自分でなんとかできるようにしますから!」  結糸は早口に、そんなことを言い放った。  それはつまり、あの時結糸が口にした愛の言葉は、発情に浮かされて口からこぼれただけのもの、ということなのだろう。  葵の全身から、力が抜けていく。  手足が冷たい。  心臓はばくばくと早鐘を打っているのに、体は冷えていく一方だ。葵はふらつきそうになる身体をなんとか持ちこたえながら、かすれた声で結糸に尋ねた。 「……つまり、あの言葉に、意味はないってことか」 「そ……そうです」 「……そう、か。やっぱり、そうなんだな」 「……すみません……」  結糸が蚊の鳴くような声でそう言うと、さぁ……っと窓から春の風が舞い込んで来た。同時に葵の嗅覚を甘く刺激する、結糸の香り。それはいつものように、葵の胸をときめかせた。  たまたま結糸の発情に立ち会ってしまったが故のセックスだとはいえ、葵は、結糸との交わりに幸せを感じていた。「好き」と言われて、天にも舞うような心地になった。肌を重ねて、結糸のことをより一層愛おしく感じてしまったというのに……。  ——そこに結糸の感 感情(きもち)はなかったんだ。 「まぁ……気にするな。そうじゃないかと思ってたからさ」 「……」 「……すぐに着替えるから、服、くれ」 「あ……はい」 「朝食はいい。すぐ病院に行くよ。勢田にそう伝えてくれ」 「分かりました。……あの何か手伝うことは、」 「もう下がっていい。一人で大丈夫だ」 「……はい。失礼致します」  すっと脇を通り過ぎていく結糸の気配、手渡される衣服の重み。  結糸との距離が近くなるだけで、こんなにも胸が騒ぐ。だが、これはただの片恋だ。  葵は後ずさってベッドに座り込み、大きくため息をつく。   「今まで通りに振る舞えるのかな、俺……」  葵のつぶやきが、しんとした部屋に小さく響いた。

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