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第9話 病院にて

   病院へと向かう車内、結糸は終始無言だった。  いつもなら、後部座席に座る葵のすぐ隣にいて、車窓の外を流れる景色を分かりやすい言葉で伝えてくれていたというのに。心なしか、いつもより距離を開けて座られている気がして、葵は密かに落ち込んだ。  言葉を交わすこともなく病院に到着し、玄関前で数人の医師や看護師が葵を出迎える。そしてすぐに車椅子に乗せられて、事務的な速度で検査室へと連れて行かれることになった。  車椅子を押す男性看護師の横を歩いていた結糸が、葵のそばへ寄り、小さな声でこう言った。 「葵さま、俺、手続きに行って来ます。すぐ戻りますから」 「……あ、うん」  結糸との距離が少し近付いただけで、葵の胸はどきどきと高鳴った。きっぱり振られているというのにしつこく結糸を求めてしまう己の弱さに辟易しつつ、葵は深いため息をつく。  消毒液の匂いと、病を抱えた人々の独特の匂いが葵を包む。  視力が戻る日が近づいていることを、ようやくリアルに感じるようになってきた。  蓮のためにも、視力は回復させなければならない。そしてゆくゆくは、パートナーとなるオメガを抱かなければならなくなるのだろう。結糸に心を寄せているというのに、果たして自分にそんなことができるのだろうかと、葵は思った。それとも、発情期只中のオメガに出会えば、自分の中のアルファの本能が反応するのだろうか……と。 「国城様をお連れしました」 「はい、どうぞ」  考え事に沈んでいた葵は、背後の男性看護師が声を発したことで我に返った。診察室の前に到着しているのだろう。スライドドアが床を滑るかすかな音がしたかと思うと、今までそばに控えていた者達とは少し違う香りがした。 「葵様、初めまして。私は、医師の綾世(あやせ)(りつ)と申します」 「……初めまして、国城葵です。どうぞよろしくお願いします」 「ふふ……意外と礼儀正しいんですね」 「え?」  その男はおっとりとした声音をしているが、どことなく隙のない気配だ。声の調子からして、年齢はだいたい三十歳前後のように感じられる。どんな容姿をしているのかは分からないが、その声色から、葵は綾世医師に対して爬虫類的なイメージを持った。 「さ、君たちは下がってて」 「え? でも、国城様の補助は……」 「あぁ、いいよ。手が必要ならあとで呼ぶから」 「はぁ、分かりました」  看護師らに指示を出す声、そして、看護師が診察室を出て行く気配。葵はやや身を固くした。初対面の相手といきなり二人きりになるという状況は、盲目の葵にとってはひどく緊張することなのだ。 「さぁ、お手を。こちらに診察台がありますからね、そこに座ってください」 「……はい」 「蓮様から、くれぐれもよろしくと言われてます。あなたの目は、必ず私が治しますからね」 「はい、よろしく頼みます」 「それで……無事、目が見えるようになったあかつきには、私をパートナーとして選んでくれますか?」 「……はい?」 「あなたが今後、何人のオメガを日陰に囲うのかは知りませんが。……ふふ、私はあなたの目に光を取り戻すという、最大の功績をこの手にするわけです。だから当然、私を正式なパートナーとして選んでくださるんですよね……?」  硬い診察台がかすかに軋む音がしたかと思うと、綾世医師の気配が近くなった。葵はとっさに腰を浮かせかけたが、綾世は声の割にしたたかな腕で、葵を診察台に押し倒す。 「っ……な、何してんだよ!」 「へぇ、若者らしい話し方もされるんですね。そっちの方が、かわいいですよ」 「か、かわいい!?」  粘着質で絡みつくような甘い声が薄気味悪くて、葵はぞっとした。身の危険を感じた葵は、肩を押さえつけている綾世の手首をぐっと掴んで引き寄せると、素早くを身を引いて逆に綾世を組み伏せる。診察台にうつ伏せに押し付けられ、綾世はねじれた肩の痛みに悲鳴をあげた。  いざという時のために身につけていた護身術を、まさか病院という場で使うことになろうとは……と、葵は冷や汗をかきながらため息をついた。 「いたいです……っ……! ちょ、腕っ……腕……っ!!」 「お前も俺のパートナー候補なのか? 聞いてないぞ」 「そ、そうです……。仕事が……ありましたので、お屋敷にはご挨拶に行けませんでしたから……あッ……はぁ、はぁん……さすがはアルファ……見えなくても、こんなに強いなんて……ん、はぁン……」 「っ……!? き、気持ち悪い声出すな!」 「あぁ……こんなふうに私を力でねじ伏せて、無理やり後ろから犯してくださって構わないんですよ? 君のような美しいアルファを、私はこれまで見たことがない。……ぁあ……こうして触れ合っているだけで孕みそうです……んふぅ……」 「う」  葵は真っ青になって、綾世からさっと手を離した。するとその隙をついて、今度は綾世が葵のジャケットの襟を馬鹿力で掴み、自分の方へと引き寄せる。綾世の腹の上に跨る格好になってしまい、相手との距離がよりいっそう近くなったせいで、生暖かい吐息を鼻先に感じた。と同時に綾世の首筋から、濃厚すぎるきつい芳香が漂い始める。どうやら本格的に興奮しているらしい。 「は、離せ!! お前、それでも医者か! 俺を誰だと思ってるんだ!」 「あぁ……ン……そういう高圧的な態度、ゾクゾクしちゃう……。はぁ、はぁ……素晴らしい。美しく気高いアルファ……最高です……孕みたい……あぁ……発情期でもないのに発情してしまいそうです……!」 「ちょ、やめろ……!!」 「ねぇ、もっと!! もっと偉そうに、私を変態呼ばわりしてください……!! はぁ、はぁ……美しいアルファ……実に素晴らしい……!」 「んっ……!?」  片手で葵のジャケットを掴み寄せたまま、綾世はもう片方の手で、下から葵の尻を揉みしだく。あまりにおぞましい感触に葵が真っ青になっていると、がらり、とドアの開く軽快な音がした。 「葵さま。すみません、遅くなり……っ!?」  結糸の声だ。これまでとは違った意味で、葵の顔がまたことさら青くなる。今のこの格好では、まるで葵が綾世を組み伏せているようにしか見えないだろう。 「ん……? 君は?」 「あ、あ、葵さまの……付き人ですけど……。お、おお、お邪魔でしたか……?」  結糸の声が、不自然に震えている。驚いているだけか、それともひどく怒っているのか……今の葵には、その判別がつかなかった。綾世の手を乱暴に振りほどき、さっと素早く身を引くと、綾世がのっそりと起き上がる気配が伝わってくる。葵はいいようのない腹立ちを感じながら、綾世に向かって低い声でこう言った。 「……俺にこんなことをして、ただで済むと思ってるのか」 「え……? 何かお仕置きしてくださるんですか?」  興奮の滲む嬉しそうな綾世の声に、葵は心底げんなりした。そして結糸の無言が痛い。 「っ……。お前みたいな変態野郎に、俺の目を託せっていうのか!? 冗談じゃない!! 執刀医を変えろ!!」 「ふふ……。私はこう見えて……あ、まだ見えてないでしょうが、私は眼球移植再生術の成功例が最も多い。全例成功させているのですよ? 今この国で、一番腕がいいのは間違いなくこの私です」 「それ以前の問題のように思えるが」 「まぁまぁまぁ、そう噛みつかないでくださいよ。突然のご無礼は謝ります。葵様がお写真よりもずっと美しいので、ついつい嬉しくて興奮してしまいました。ふふふ、本当に愛らしいアルファさんだなあ……うふふ」 「う……」 「さぁ、君の白く曇った瞳を、私によぉ~~く見せてください。そのあとは身体検査です。くまなく丁寧に調べてあげますよ」 「……」  葵は頭痛を堪えるように頭を押さえた。するとようやく、結糸が葵の方へと近づいてくる。気遣わしげに葵の腕に触れる結糸の手のひらのぬくもりに、葵は心底ホッとした。 「葵さま、だ、大丈夫ですか? すみません、俺が手続きに手間取ったばっかりに……」 「いや、いいんだ。それより結糸。絶対に、俺のそばを離れるな」 「えっ、あ、はいっ」 「あらあらあら、警戒されてしまいましたね。まぁいい。……ふうん」  綾世が椅子に座りなおしたのだろう、ぎし……という椅子の軋む音が小さく聞こえて来た。葵の腕に触れる結糸の手にも緊張が走っていることを感じるに、綾世の粘着質な視線が結糸にまで向けられているらしい。  苛立った葵は、綾世の目線から結糸を庇うべく、腰掛けていた診察台からすっと立ち上がった。すると葵の背後から、結糸がきゃんきゃんと声を上げる。   「な、何ですか? ジロジロと人の顔を……」 「いえ……付き人は、顔で選ばれるのかな? 君もすごく可愛いね」 「……は、はぁ!? マジでなんなんだよあんた! セクハラで訴えますよ!!」 「おお……威勢のいいことだ。アルファとオメガとベータの三つ巴……なんてのもそそられますねぇ。……どうですか?」 「どっ、どうですかじゃねーよ! 蓮さまにチクんぞ!」  興奮冷めやらぬ様子でセクハラ発言を続けていた綾世だが、結糸が蓮の名前を出したことで、むんむんとあたりを漂っていたきつい芳香が、すうっとなりを潜めていく。 「そっ……それはちょっと困ります……。大変申し訳ありません。……ちょっと、興奮が過ぎました」  綾世は震え声そう言うと、ごほごほっと咳払いをして深呼吸をしている。そして今度は落ち着きのある低音の声で、医師らしいことを口にした。 「では、診察を始めていきましょうか。ここでは一通りの目の検査をさせていただきますので、リラックスして、私の指示に従ってください」 「リラックスできるわけねーだろ。葵さまにちょっとでも変なことしてみろ、ただじゃおかねーからな!」 「何もしませんって」  結糸の強気な言葉に、葵は少しきゅんとした。

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