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第10話 惹かれる匂い

   ほぼ丸一日かかって検査を受け、屋敷に戻って来た頃にはすっかり日が暮れていたらしい。肌に感じる空気はひんやりと冷え、まぶたに透けるのは陽の光ではなく、煌々と灯った電球のそれだ。  普段ならば晒すこともない肌のそこここを、多くの人間たちに触れられた。あの後、綾世からはセクハラまがいの被害を受けることはなかったものの、塞がれた視界の中で繰り広げられる検査の数々に、葵はすっかりくたびれてしまった。  結糸に導かれ、自室まで戻って来た葵は、ようやく安堵の吐息を漏らす。 「……はぁ」 「お疲れですね、葵さま」 「まぁ、多少……」 「あの先生にあてられたんですか」 「そりゃそうだろ。それに……お前には庇われてばかりだし。はぁ……情けない」  目が見えていたら、結糸にすがることなどしなくていいのに。自分の身は自分で守れるのに……と、朝方の出来事について、葵はずっと不甲斐ない想いを抱き続けているのである。最近、何だか襲われてばかりだなと、葵は内心げんなりしていた。  結糸はそんな葵の気持ちを知ってか知らずか、からりとした笑い声を立ている。しゃっ、とカーテンが引かれる音が聞こえて来た。 「何言ってんですか。葵さまを守るのも、俺の大事な仕事です」 「守る、か……」 「ていうか、特に何も問題がなくてよかったじゃないですか。これで、明後日には手術ってことでしょ? もうすぐ目が見えるようになるんですね」 「あの変態医師に眼球を抉り取られるのかと思うと、ぞっとするけどな」 「まぁ……あの人は相当変な人でしたけど……。でも、見た目は綺麗な人でしたよ。割と背が高くて……葵さまよりちょっと小さいくらいかな。顔も、なんというかこう、すっきり整った大人っぽい顔で。歳は二十七らしいです」 「随分詳しいじゃないか」 「検査の合間に看護師さんが教えてくれたんですよ。あの人、あのでっかい病院の御曹司なんですね。だからオメガだってことをオープンにして、堂々と仕事できてるんですって。ヒートのときには絶対手術を入れないで、自宅勤務って形で休みとってみたりしてるらしいです」 「ふーん」 「発情期のせいでオメガが社会的に蔑視されることなく、バリバリ社会で活動できるようにするため、よりよい抑制剤の研究と試作をしてるらしいですよ。自分が被験者になって薬試したりしてるらしいです」 「……なるほどな。性癖以外はまともな人間ってことか」 「らしいですよ。ベータの看護師さんたちはみんなあの先生にメロメロって感じです。優しいし有能だし、かっこいいからって」 「ふうん。世間ではああいうのがモテるのか」  葵はベッドに腰掛けたまま、結糸の声を心地好く聞いていた。普段とは違う場所に出向いたことでたくさん刺激を受けたのだろう、結糸はいつにも増して生き生きとした声をしていた。葵は気づかぬうちに微笑んでいたらしく、結糸が「あ、あれ、どうしたんですか。俺、なんか変なこと言いました?」と戸惑った声を出す。 「いや……ここ数日、あまり口をきいてなかったからさ。結糸の声をちゃんと聞くのが、久しぶりなような気がして」 「そ、そうですかね……」 「お前の声が聞こえないと、すごくさみしいよ。暗闇の中にひとりきりっていう感じになる」 「あっ……す、すみません。そうですよね……」 「いや、ごめん。元はと言えば、俺がお前に手を出したから妙な空気になってるんだ。……悪かったな」 「い、いえ!! そんなことはないです!! 俺が自己管理できてなかったせいなんですから!」  結糸が目の前で、ぶんぶん両手を振っている気配がする。葵は目を伏せたまま少し笑って、小さく息を吐いた。こうして結糸を言葉を交わしていると、やはりこの少年の存在を何よりも大切なものと感じてしまう。  葵はぽんぽんとシーツの上を叩いて、結糸のいる方に目を向けた。 「そばに来てくれ。隣に座って」 「えっ……あ、はい……」 「警戒しなくていいよ、何もしないから」 「い、いえ!! 別に警戒しているわけじゃ!」  結糸は落ち着かない口調でそう言ったあと、そろりそろりと葵に近づき、静かにベッドに腰掛けた。小さくマットレスが沈む感覚が、葵の尻にも伝わってくる。結糸の香りが、ふわりと葵を包み込んだ。 「ふふ。……結糸は、それくらい元気な方がいい。勢田の友人の医者にはもう、診てもらったのか?」 「あ、いえ。葵さまが手術を受けている間に行こうと思ってます。だいぶ時間がかかるらしいし、病院で待ってようかとも思ったんですけど、絶対そわそわしまくってどうにもならないと思うし……」 「そわそわ、か。だよな」 「葵さまは、怖くないんですか?」 「怖くなくはない、けどな。まぁ失敗されたとしても、もともと俺の目は見えないんだ。結果は変わらないわけだし」 「蓮さまはお怒りになるでしょうけどね……」 「そうだな。……まぁ、兄さんのためにも、見える目が手に入るのは喜ばしいことだ。あとひとつきで、俺も二十歳になる。いつまでも兄さんにばかり重荷を背負わせるわけにはいかないし」 「……はい」  葵がこうして少し先の未来の話をすると、結糸の身にまとう空気がどことなく寂しげに冷え、そしてよそよそしいものに変化する。葵は結糸の方へ顔を向け、ずっと気にかけていたことを結糸に問うた。 「俺の目が見えるようになったら、結糸は自分が解雇されるとでも思ってるのか?」 「えっ……。だ、だって、俺……そういう契約ですし。葵さまの目の代わりになるってことが俺の仕事です。ここに雇い入れていただいたとき、蓮さまからそう命じられたんです」 「まぁ……それはそうかもしれないけど。俺は、お前を解雇するつもりなんてないからな」 「……でも」 「ここはいつでも人手が足りないんだ。結糸はほかの使用人たちともうまくやれていると聞くし……それに、ゆくゆくは俺にも、秘書が就くようになるだろ?」 「ええ……はい」 「それは、結糸にやって欲しいと思ってる」 「はい……。……えっ!? い、いや秘書とか、無理じゃないですか!?」  結糸がびっくり仰天している様子が、わかりやすく伝わってくる。こういう反応の素直さも、盲目の葵にとってはとてもありがたいものだ。むやみやたらと相手の考えを読もうとして気を遣いすぎなくていいし、ついでに言うと、結糸のそういう素直なところがとても可愛いく感じられ、葵の心をほっと緩めてくれるのだ。 「これまでも、結糸には俺の予定を管理してもらってたし、友人とのやり取りの時も間に入ってもらってた。目が見えるようになった時にお前がいてくれないと、誰が誰だか分からないだろ」 「で、でも、葵さまは声だけでも十分……」 「いやなのか?」 「……いやじゃないです」 「そうか」  驚いて渋っていた割に、結糸はあっさりと葵の提案を受けた。葵は安堵して、少し声を立てて笑った。 「でも……俺、秘書なんてなれるかな。高校中退だし、頭も、そんな良くないし……」 「ここから学校へ通えばいい。秘書として必要な能力は、今からでも勉強して身につけられるだろ」 「うーん……そうなのかな。けど俺なんかに、秘書なんてできるのかなぁ……」  戸惑いがちに独り言を呟く結糸の方へ手を伸ばすと、さらりとした素材でできたスラックスに手が触れた。その手を少し上へとずらすと、すぐに結糸の拳に指がぶつかる。葵はその手をぎゅっと包み込んだ。  触れ合う肌の感触で、あの夜のことが生々しく思い出される。それは結糸も同じであったのか、じわじわと肌の熱が上がっていく。結糸の拳が微かに震えはじめるのを感じて、葵は少し、手の力を緩めた。 「……震えるほど、いやか。俺に触られるの」 「へっ……?! そ、そんなわけないじゃないですか!!」 「本当に?」 「……はい」 「じゃあ、なんで震えてるんだ」 「こっ……これはその……ドキドキして…………って、その……俺、何言ってんだろ……」 「ドキドキ?」 「あ、あの、いやその、き、きんちょうっていうか」  葵はもう一度結糸の手を握り込み、顔を覗き込むような姿勢で少し身を屈めた。すると、結糸がぴくりと身体を震わせる。 「……今のお前、どんな顔してるんだろうな」 「えっ!? どんなって!?」 「前、薔薇の庭で聞いて来ただろ。目が見えるようになったら、まずは何が見たいかって」 「あ、はい……」 「俺、目なんて見えなくていいって思ってたけど、ひとつだけ、ずっと見てみたいものがあるんだ」 「なんですか?」 「……結糸の顔」 「……へっ」  手を持ち上げて、結糸の顔を探す。あの日結糸の唇を求めて指先を彷徨わせたことを、葵は改めて思い出した。  指先に触れるのは、ふわりとした暖かな頬。あの日と同様少し熱いが、やわらなかん肌の感触は触れていてとても心地がいい。葵は結糸の顔かたちを確かめるように、さらりとした髪の毛や柔らかな毛質の眉、形良く隆起した鼻先や弾力のある唇のひとつひとつに、ゆっくりと指先を這わせた。 「お前の声は、表情がすごく分かりやすくて面白いからな。きっと、すごく面白い顔してるんだろうなって」 「お、おもしろいって何ですか!? 別に面白くなんかないですよ、俺の顔なんて」 「どんな顔して笑ってるんだろうとか、どんな顔して俺のそばにいるんだろうって、いつのまにか考えるようになってたんだ」 「あ、葵さま……」  ——セックスに溺れていたあの時だってそうだ。結糸がどんな顔をして感じていたのか、どんな表情であの甘い台詞を口にしていたのか、知りたくて知りたくて仕方がなかった。  あの瞬間こそ、見える目が欲しかった。どんなに深く身体で繋がりあっていたとしても、結糸のとろけるような表情は想像さえできない。それがもどかしくてもどかしくて、葵はいっそう激しく結糸を抱いたものだった。 「こうして触れてみても、結糸の顔をうまく想像できないんだ。……今だって、お前がどんな顔してるのか、見たくて見たくて、たまらないのに」 「……そ、そんな」 「手術のあと、一番に結糸の顔が見たい。そばにいてくれるか?」 「もち、もちろんです! ずっとそばについてますから……」  気づけば葵は、結糸の頬を両手で包み込んでいた。手のひらに伝わる結糸の温もりはとても優しくて、ふんわりとした結糸の匂いに誘われる。今は発情している時期でもないはずなのに、結糸の匂いはいつもより甘く、葵の理性をぐらつかせた。  するとどことなくうっとりとした声で、結糸が小さくこんなことを呟いた。 「……いい匂い」 「……え?」 「葵さま、いい匂い……」 「俺の匂い?」 「近くにいると……すごく……」  結糸の手が、葵の手首に触れた。どきどきと、葵の鼓動も高まっていく。  ――番うべきオメガとアルファは、互いの匂いに惹き寄せられる……。  ふと、幼い頃に女性家庭教師から教えられたことを思い出す。葵ははっとした。  ――結糸も俺の匂いに惹かれているというのなら、本当に番うべきオメガは、結糸なんじゃないのか……? 他のオメガたちに対して、こんな風に感じたことは一度もなかった。 「……結糸」  唇に触れると、結糸が小さく唇を開いた。指先に吹きかかる吐息に誘われるように、葵はゆっくりと結糸の唇を求めようとした。しかし。 「葵くーん!! なぁなぁ、ご飯まだなんやて? 一緒に食べよーやぁ~!」  ドアが忙しくノックされ、須能のよく通る声が響いてくる。  葵がはっとして動きを止めると、一瞬遅れて結糸がびくうっと派手に跳ね上がり、「うわぁっ!」と悲鳴をあげた。 「あっ、俺、すみません! あの、ええと!! ご、ご飯!! ご飯食べませんとね!!」 「……あぁ、そうだな」 「す、す、須能さんも一緒にね!! す、すぐ行きましょう!!」 「俺は着替えてから出るよ。外で須能と待っててくれ」 「か……かしこまりました……!!」  結糸は風のような素早さで葵から離れると、ドアの向こうにいた須能と何やら言葉を交わしつつ、バタンとドアを閉めた。 「……はぁ……くそ」  結糸との触れ合いを邪魔だてされた腹立たしさと、いいようのないもどかしさに、心がざわつく。  葵はどさりとベッドに横たわると、両手の拳で、見えない目をぎゅっと押さえた。

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