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第11話 葵の友人

   そして翌日、葵は次の日の手術に備えて入院することとなった。  いつも通りの時間に結糸に起こされ、身支度を整えて朝食の席へ着くと、いつもとは違う誰かの気配がある。結糸がいつになくせかせかしていたのはこいつのせいかと、葵はテーブルに頬杖をついた。さらに結糸は気を遣ったのか、「厨房の方を見て来ますね」と言ってダイニングから離れて行ってしまった。  壁一面を大きな出窓が飾る、天井の高いダイニングルーム。落ち着いた色調のフローリングの床、織り柄の入ったアイボリーの壁紙。一角にはには飴色に磨かれたサイドボードが据えてあり、ガラス戸の中には、小難しげな文字の描かれた酒の小瓶がいくつも置かれていたはずだ。  葵の記憶の中にも、この部屋の風景は残っている。朝日が気持ち良く射し込む大きな窓は、いつもぴかぴかに磨かれていたものだった。そこから見る美しい庭の風景を、葵ははっきりと覚えている。 「須能、いるんだろ」 「おや、よう分からはりましたなぁ」 「気配と匂いで分かる。お前の着物の匂い、#白檀__びゃくだん__#だろう? この屋敷では嗅ぐことのない香りだからな」 「なんや、僕のフェロモンが香ってんのかと思ったのに」  広いテーブルの端の方から、須能が歩み寄って来る気配がある。須能が床を踏む音はひたひたと静かなもので、革靴のような硬い音はしない。 「葵くん、目ぇが見えるようになったら、そん時は、ちゃあんと僕のことも見てくださいね」 「……あいにく、お前の匂いにはそそられないな」 「僕の容姿を見て、気ぃが変わるかもしれへんやろ? 自分で言うのもあれやけど、僕、顔も身体も、そこそこに色気のあるほうやし」  須能の指先が、テーブルの上に置かれた葵の指先にそっと触れる。いつぞやとは違い、遠慮がちな仕草だった。少し冷たい指先が、葵の人差し指の上をするりと撫でる。 「……いちどでええ。僕を抱いてみてくれへんかな」 「……だから、俺は」 「僕は、君の子が欲しい。君のような、美しいアルファの血が欲しい。国城家と須能家の血が混ざり合って、素晴らしい子が生まれると思うねん」 「……」 「僕こそが、葵くんの隣に立つのにふさわしいオメガや。僕は有名人やし、公の場に連れ歩くにはぴったりやろ?」 「だから、そういうことは……」 「考えといて。僕は本気やで」  須能は抑えた声でそう言い切ると、すっと葵の手を取った。ふわりと指先に触れるのは、やわらかくしっとりとした感触。それが須能の唇だと気づくと同時に、左手を両手で包み込まれた。 「番にして、とは言わへん。……けど、僕は君以外の男に抱かれる気ぃはあらへん。とことん、尽くすよ?」 「……須能、」 「ほな僕、午前の巡業が終わったらお見舞い行かしてもらいますよって。……またのちほど」  葵の返事を聞くこともなく、須能は愛想のいい声を残して、その場から去って行った。  須能に触れられた場所にべっとりと白檀香が付着しているような心地がして、葵を落ち着かない気分にさせる。  + 「須能さんと、何かお話しされてたんですか?」  病院までの道のりをゆく車内では、結糸は淡々と入院中のスケジュールを伝えていた。が、車を降りて車椅子で院内を進んでいると、結糸が唐突にそんなことを尋ねてきた。 「……話っていうか。うーん……」  普段は飄々としていて表情を聞き取ることの難しい須能だが、朝方の真剣な声色には重みがあった。結糸に何と説明して良いか分からず、葵は何となく口ごもる。すると結糸もはっとしたように、こんなことを言った。 「す、すみません。差し出がましいことを……」 「いや、別にいいんだ。……まぁ、ちょっとした朝の挨拶さ」 「そうですか」  結糸は一言だけそう応じ、何事もなかったかのように周りの景色を葵に伝えた。今日は人が少なくて、院内はがらんとしているということや、空がちょっと曇っていること、窓の外には庭があるから、散歩に出るのも良いかもしれません……など、ちょっとだけ、空元気の滲む声で。  こんなとき、なにか気の利いたことがさらりと言えたら良いのにと、いつも思う。しかし葵は、そういう恋愛的な事柄についての知識に疎いのである。  純文学などは点字化されているため、葵でも読むことはできる。が、そういうものはすべからく古典であるため、リアルな知識を得ることは難しい。それはらば、手軽にテレビなどで恋愛ドラマを見れば良いようなものだが、良家の子息である葵は、そういうものに触れる機会をほとんど与えられてこなかったのだ。  ——もどかしい……。結糸の表情が知りたい。今、どんな顔をしてるんだろう。  目なんて見えなくていいと思っていた頃のことが懐かしく思えるほど、葵は結糸の表情が気になって仕方がない。それに、自分の目で結糸を見ることができたなら、様々なことが明らかになるに違いないという期待もあった。  結糸が葵に向ける眼差しを受け止めた瞬間、はっきりするような気がするのだ。  結糸こそが、葵の番であるということが。 「あのさ、結糸……」  結糸に声をかけようとしたその時、すぐそばで誰かが立ち止まる気配があった。そのすぐ後、気安い声が聞こえて来る。 「あれ? 葵か?」 「……え?」 「俺だよ俺! 御門陽仁(みかどはるひと)!」  聞き覚えのある声だ。御門と名乗ったその男は、葵のそばに近づいて車椅子の前に跪き、すっと葵の手を握った。  御門陽仁は、葵の高校時代の友人の一人である。  ちなみに、葵は中・高・大一貫の名門私立学園に通っていた。今も大学に籍を置いているのだが、自宅で英才教育を受けている葵は大学での講義をいくつか免除されていることもあり、大学へ行くのは週に一、二度程度である。  中等部時代は、葵の学生生活の手助けをするための使用人がいつでもそばに張り付いていたせいもあり、葵には友達らしい友達がなかなかできなかった。または、国城家というあまりにも有名な家名が邪魔をしていたのかもしれない。  しかし高等部二年生になる頃、葵にも数人の親しい友人ができた。  葵の目のことや家のことを理解し、または介助兼警護を兼ねた強面の使用人にひるむこともなく、ごくごく普通に付き合ってくれる貴重な友人たちだ。その友人たちは皆名家のアルファであり、御門もそのうちの一人であった。  威勢のいいはきはきとした声。いつでも自信たっぷりでカリスマ性に富み、明るく朗らかで裏表のない御門は、葵にとって付き合いやすい友人だった。  御門は大学へは進学せず、父親から社長職を継いだ。御門一族は三代に渡って、海底に眠る石油・天然ガス掘削工事の請負を主な事業としてきたのだが、御門陽仁が社長に就いてからは、社名を『MDC(Mikado Driling Contractor)』と変更し、ここ数十年の業績不振を覆すほどの稼ぎを上げていると聞く。  多忙なはずの陽仁とこんなところで鉢合わせするとは……と、葵は目を瞬いた。 「陽仁、何でお前が病院なんかに?」 「姉がこの病院で出産したもんで、赤ん坊の顔を見に来たんだ。君は?」 「俺は……ここで目の手術を受けるんだ」 「目? え? ってことは、見えるようになるってこと?」 「うん。うまくいけば、たぶんな」 「ほんとか!? すごいじゃないか、おめでとう!」 「気が早いな。手術はこれからだし、成功する保証もない」 「そう気弱になるなよ、絶対に成功するさ。……ん? 君は?」  御門の関心が結糸の方へ向いたらしい。結糸は丁寧に名を名乗り、「葵さまの身の回りのお世話をさせていただいています」と、使用人然とした口調で答えている。 「そうなんだ。ずいぶん若いね。いくつ?」 「十八です」 「へぇ、よかったな、葵。年の近い付き人ができて」 「ああ、色々助かってるよ」 「高校時代の付き人なんて、六十代だっけ? もっと年いってた? いやいや絡みづらいのなんのって……」 「ふふ、そうだったね」  御門は楽しげに、高校時代のエピソードを結糸に語って聞かせた。軽妙かつ無駄のない御門の話ぶりに、結糸も時折声を立てて笑っている。 「すごく新鮮です。葵さまの高校時代の話なんて、俺、初めて聞いたので」 「え? そうなの? 君はいつから葵のそばに?」 「まだ一年と少しなんですよね」 「じゃあ、高校を出てからか。またいくらでも聞かせてあげるよ、葵のモテっぷり、すごかったからな」 「へぇ、そうなんですか? まぁ、想像はつきますけど」 「ははっ、君はご主人様に優しいんだな」  結糸もいつになく、会話のテンポが速い。御門との会話を心底楽しんでいるようだ。かつての友人と結糸が親しくしていることを嬉しく思う反面、結糸の楽しげな声に胸がちくちくと痛むのもまた事実で、葵はだんだん居心地が悪くなって来てしまった。 「……陽仁、またゆっくり話したい。明日の手術が終わってから、また連絡くれないか」 「ああ、もちろん! 俺、二週間ほど休暇を取ってるんだ。蓮さまと会う予定もあってさ、近々お前ん家に挨拶に行こうと思ってたんだ」 「兄さんに挨拶?」 「ああ、仕事のことで協力してもらってたことがあったんだ。その報告とお礼をね」 「へぇ、そうなんだ。仕事でも付き合いがあるんだな」 「国城家様と仕事で繋がりのない企業なんて、そうそういないと思うけどな。いずれはお前とも仕事ができるのかと思うと、楽しみだ」 「ふふ、そうだな。それに、もうすぐお前の顔がこの目で見れるのかと思うと、楽しみが増えるよ」 「そぉかぁ? お前はまず、自分の顔を鏡で見てみるといいよ。女子どもがキャーキャー言ってた理由が分かるだろうさ」 「そうか?」 「そうだよ。じゃ、俺はここで。結糸くんも、またな」 「はい、失礼します」  小気味いい靴音を響かせて遠ざかっていく御門の気配。あいも変わらず、御門はパワフルで華がある。御門との会話で気持ちに張りが出てくるのを感じるが、同時に少しばかり、危機感をも感じてしまう。  彼はアルファだ。オメガである結糸のフェロモンを、嗅ぎ取ってしまわないとも限らない。  友人に対してこんな想いを抱くのは嫌だったが、葵は目が見えないにもかかわらず、すぐに結糸がオメガであると気づいたのだ。御門は勘がいい男だ、結糸の性を見抜いてしまうのではないだろうか。更に言えば、結糸に惹かれてしまうのではないか……そんな不安が、葵の心を静かに揺らす。 「楽しいお友達ですね。葵さまの高校時代の話、もっと聞きたいなぁ」 「そうか?」 「そうですよ、葵さま、あんまり昔のこと話してくれないし」 「あまりいい思い出がないんだ。御門たちと親しくなってからは、まぁまぁ楽しかったけどさ」 「あ……そ、そうなんですか?」 「そんなことより、あいつと二人きりになるなよ。見ての通り、あいつはアルファだ。結糸がオメガだと気づく可能性もあるからな」 「そ、そうですね。分かりました、気をつけます」  わざわざこうして釘を刺してしまう自分の余裕のなさが情けなく、葵は車椅子の上で目を伏せた。    ——早く視力を取り戻したい……。そして、一刻も早く、結糸を番にしてしまいたい。俺だけのものにしたい……。  葵は逸る気持ちを宥めるように、深く長く、息を吐く。

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