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第12話 術後
——あおい、おいで。
差し伸べられる小さな白い手。目線を上げると、繊細にきらめく金色の光を身にまとう、ひとりの少年の姿が見えた。この目の色、この髪の色、そしてこの顔……。ずいぶんと幼いけれど、これは紛れもなく兄の顔だ。視力を失う前、最後に見た兄の姿だろう。
——これからは、ぼくがお前をまもるからね。
そう言って葵の頭を抱きしめる兄の身体からは、ミルクのような優しい匂いがした。葵はぎゅっと兄の身体にしがみつき、柔らかいシャツの胸元に頬ずりをする。
——葵さま、お手を。
後ろから掛けられた声に振り返ると、きれいな形をした手のひらが見えた。顔を見ようと目線を上げるも、その顔はぼんやりと霞がかっていて、よく見えない。見ようとすればするほどに視界はぼやけ、葵はごしごしと目をこする。
——あおいさま……、すき……、すきです……あなたが…………。
いつの間にか葵はベッドの上にいて、みずみずしい肌をあられもなく晒した誰かを組み敷いていた。指に吸い付く艶めかしい感触、葵の身を支配するとろけるような快感。この肢体が結糸のものだと、葵はすぐに気が付いた。しかし、やはり結糸の顔はぼんやりと霞んだままで、おぼろげな輪郭しか見て取ることができない。
顔が見たい、抱きしめたい……その想いに突き動かされ、結糸の頬へと手を伸ばす。しかし、葵の指先が触れた場所が、さらさらと砂のようにとけ始める。結糸の身体が、指の隙間からこぼれて行く……。
——いやだ……!! 結糸……!!
「……ゅい、と……! 結糸……っ……!」
「葵さま、どうしましたか!?」
「はぁっ……!! はぁっ……!」
「綾世先生! すぐ来てください!! 葵さま、大丈夫ですよ!」
——痛い、痛い、痛い……目が、痛い……!!
焼け付くような鋭い痛みが、葵の頭蓋を責め立てる。両手で頭を抱えてみると、そこには何やら触れ慣れないものの感触があった。柔らかな布……これは包帯だろうか。
——あぁ……そうだ。俺、手術を受けたんだ……。
「葵くん? 綾世です、大丈夫ですか?」
「さ……触るな! この痛みは、なんなんだ……!!」
「葵さま、大丈夫です! 手術は成功したんですよ!」
体に触れてきた綾世医師の手を振り払うと、葵はがばりと起き上がって頭を押さえた。するとすぐに感じ慣れた結糸の手のひらが、葵の背中に添えられる。何度か背中をさすられて、片手をぎゅっと握られた。葵はすぐにその手を握り返し、痛みに堪えるべく奥歯を噛み締めた。
「葵くん、大丈夫ですよ。麻酔が切れたんでしょう、この痛み止めを飲んでください」
「葵さま、飲めますか?」
「……あぁ……」
唇に結糸の指を感じた。そこに挟まれているのは、小さな錠剤のようだった。口を開いてそれを飲み込み、すぐに手渡された水で喉へと流す。葵は結糸の身体に上半身をもたせかけ、じっとりと肌を濡らす冷や汗を感じていた。
「嫌な夢でも見てたんですか? うなされてましたよ」
「……あぁ、ちょっとな……」
「全身麻酔から醒める瞬間というのは、悪夢を見やすいものなんですよ。大丈夫、手術は無事成功です。包帯が取れるまで、もうあと三日ほどお待ちくださいね」
綾世の口調はとても穏やかで、患者を安心させるに足る自信のようなものが備わっているように思えた。この間、興奮のあまり葵に迫ってきたことが嘘のようだ。ゆったりとした口調で語りかけられるだけで、ひどい頭痛が治まってくるように感じられる。
「念のためご報告しておきますと、手術にかかった時間はおおよそ十二時間。トラブルもなく、順調に手術は完了しました。その後あなたは二十時間ほど眠っておられましたが、拒絶反応もなく経過は良好です。あ、でもまだ身体のあちこちに管が繋がってますからね、無理に動いちゃダメですよ」
「……そうか」
「君の眼球を摘出し、提供者の眼球と君の視神経をひとつひとつ繋ぎ直し、眼球を眼窩に収める……。まぁ、簡単に言ってしまえばそういう手術です。その頭痛はね、今まで休眠状態だった視神経が再びきちんと働き始めているという証拠なのです。ですから、しばらくは我慢してくださいね」
「……わかった。……その……」
「ん? 他に何かおかしなところが?」
「いや……その……。ありがとうございました……」
「えっ!?」
長時間に渡る難しい手術を終えた綾世に対し、葵は丁寧に礼を述べた。すると、背中に触れていた結糸の手が、葵の衣服を柔らかく握りしめる感触が伝わってくる。……と同時に、地を這うような不気味な笑い声が、綾世のいる方角から聞こえてきた。
「……ふっ、ふっふっふ……あぁ……君は本当に、かわいらしいアルファさんだ。その美しい瞳が再び光を宿すようになったそのとき、改めてご褒美をいただきたいものですねぇ」
「……ご、ご褒美ってなんだよ」
「うふふ……どうです? 手術の成功報酬はあなたのお身体で、というのはどうでしょう? 踏み躙るも鞭打つも、あなたの好きにして構いませんよ? 私の次のヒートがいつなのか知りたくはありませんか……? その時にめいいっぱい私を犯、」
「ハァハァ言ってんじゃねーよ気持ち悪ぃな! ちょっと尊敬してたのに台無しだよ!」
見る間に興奮し始めた綾世に、背後にいる結糸が文句を垂れている。葵の心情を素晴らしく代弁してくれる結糸の台詞が小気味よく、葵はついつい笑ってしまった。
「ふっ……いいんですよ? 君のように威勢のいい少年は、実に私好みです。……あぁ……やっぱり、いいかも……アルファとベータに同時に攻められるというプレイにもロマンを感じますねぇ……はぁ……こんなに若くて可愛い少年達にいたぶられるなんて、はぁ……はぁ……たまりません、夢みたいですねぇ……あぁ……」
「うわわわ、き、気持ち悪……っ」
悪態をつきかけていた結糸が、はたと言葉を切った。そして綾世も同様に息を飲んでいる気配が伝わってくる。
コツ……と静かな靴音が病室に響く。病室を満たす消毒液の匂いを塗り替えるように、嗅ぎ慣れた兄のトワレの香りが、ふわりと葵の鼻腔をくすぐった。
「やれやれ、おとなしい弟にちょうどいいかと思って、年上の君に声をかけたのに……」
「れ、蓮さま……。いやだなぁ、今のはちょっとした冗談ですよ」
「アルファとベータに同時に攻められたい? まったく……そんな趣味嗜好を持っているなんて聞いてないぞ」
「ですから、冗談ですって。あはは……」
「どうだかな」
どことなく笑気を含んでいるようでもあり、怒っているようでもあり、蓮の声色は曖昧だった。ビジネスにおける駆け引きの場に身を置くことも多い蓮は、感情を表に出さないよう振る舞う癖がついているのだ。
蓮はそれ以上何も言わず、ベッドに歩み寄ってきた。葵の背を支えていた結糸が、一歩後ずさる。蓮はそんな結糸に「ご苦労さま」と声をかけ、ベッドサイドに座って葵の頭を撫でた。そして気遣わしげな動きで、包帯に包まれた葵の目の上を、触れるか触れないかの力加減で淡くなぞってゆく。
「……葵、痛むのか?」
「大丈夫だ。今、痛み止めを飲んだから」
「そう。……よかった、無事に手術が終わって」
「うん……。兄さんには色々世話をかけて、悪かったな」
「何を言うんだ。それが、兄としての僕の務めだ。早くお前の目と目を合わせて、話をしたいよ」
顎をすくわれ、そっと頬に触れる兄の唇。こうして身近に兄を感じる時に嗅覚を刺激するのは、幼い頃に嗅いだミルクのような匂いと、それを覆い隠すかのようなホワイトムスクの香り。さりげなくシトラスを効かせ、甘すぎないセクシーさを香らせるこのトワレは、兄が好んで使っている輸入物の一級品だ。気品と色気を併せ持つ兄の雰囲気に合う香りではあるが、葵はあまりこの匂いが好きではなかった。
しかし、兄がオフィシャルな場において演出したい自己像がどういうものかということを、葵はよくよく理解している。また、世間が持つ国城蓮のイメージについても。それを象徴するのが、このトワレの香りなのだ。
「兄さんは忙しいんだから、見舞いなんていいのに」
「何を言ってるんだ。本当は、ずっとお前のそばについていたいんだけどな」
「またそんな無茶言って。……ああ、そうだ。このあいだ、御門とばったり会ったよ。兄さんに会いたいと言っていた」
「ああ、彼か……。レアメタル採掘事業を新たに展開したいと言うから、力を貸したんだ」
「へぇ……その礼を言いに来たんだな」
「やれやれ、疲れてる時に、わざわざ礼なんて言いに来られても迷惑なだけだ。……そんなことより、包帯が取れるのは三日後だろ? その瞬間に立ち会えないのが残念でならないよ」
「仕事だろ? 別に立ち会う必要ないよ。いつでも会えるじゃないか」
「そうだけど、な」
蓮にぎゅっと抱きしめられる。ここまで身体が密着するのは久しぶりだった。兄の首筋に、仄かに甘い香りを嗅ぎ取った葵は、ほんの少しだけ妙な違和感を感じた。その違和感の正体を探る間も無く、蓮はすぐに身体を離し、立ち上がる。
「ここのところ寝不足なんだ。一度家に帰るとするかな」
「あぁ……うん。たまにはゆっくり休めよ」
「そうだね」
ふわ、と葵の頭を撫でたあと、蓮は綾世に「話がある」と言って、病室を出て行った。綾世がどんな顔で蓮について行ったかは、想像に難くない。
「蓮さま、だいぶお疲れみたいですね。……なんか、いつものちょっと様子が違ったような」
「そうなのか?」
「はい、なんていうか、覇気がない……って……あ! そんなこと言ったら失礼ですよね! ごめんなさい!」
「いいよ、別に。……それより、こっちに来てくれ。もう少し、手を握っていて欲しいんだ」
「えっ……あ、はい……!」
さっき見た夢のことを思い出すにつけ、葵の心に不安がつのる。麻酔から醒める瞬間の悪夢だと綾世は言ったが、夢の中の感触があまりにもリアルで、どうしても落ち着かないのだ。
しかし、結糸の体温を感じていると、緩やかにその不安が消えていくような気がした。手の中にある結糸の指を微かに撫でつつ、葵は結糸に話しかけた。
「……結糸」
「はい?」
「病院、行って来たのか?」
「あ、はい。ちゃんとした抑制剤を出してもらえるようになりました。ちょっと値が張るんですけど、予定外にヒートが訪れた時に飲むための頓服なんかもいただけて」
「薬にかかった費用は、こっちで出す。ちゃんと勢田に請求するんだぞ」
「えっ、でも……」
「お前にはこれからも、俺のそばで働いてもらわなきゃならない。それくらい当然だよ」
「……はぁ」
「分かったか?」
「は、はい……ありがとうございます」
きゅ、と結糸の手が葵の指を握り返す。それがとても嬉しくて、葵は片腕を持ち上げて結糸の肩を抱いた。結糸の身体がこわばるのを感じたが、今はどうしてもその手を離したくなくて葵は結糸の骨ばった肩を強く強く抱き込んだ。
「あの……葵さま……。そ、そろそろ薬が効いて来ると思いますし、少し眠られた方が」
「もうちょっとで、結糸の顔が見れる。……楽しみで楽しみで、眠れそうにないよ」
「俺の顔なんて、そ、そんないいもんじゃないんですけど」
「聞いてると、みんなお前のことを可愛い可愛いと言ってるな。期待が高まる」
「いやいや、ハードル上げないでくださいよ! 俺は……なんていうか、普通です。葵さまのそばで働いてていいのかって言うくらい、普通っていうか……。須能さんや綾世先生と比べても、パッとしないっていうか…………って比べるのもおかしいか……うー」
「ふふっ……。余計に楽しみだよ」
「あぁもう、俺どんな顔してたらいいんですかね」
「あーあ、楽しみだなぁ。期待で胸がいっぱいだよ」
「だからもう、やめてくださってば!」
結糸の体温が上がっていくのが分かる。照れているのだろう、と葵は思った。
——早く、見てみたい。結糸の色々な表情を。そしてきちんと伝えたい、俺の想いを……。
早口で勢田の顔の特徴について説明する結糸の声を聞きながら、葵は唇に笑みを浮かべた。
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