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第13話 教えて

   それから二日経ち、身体に繋がれていたチューブの類が全て外され、葵は自分の足で動き回れるようになった。  顔を濡らさないのであれば入浴してもよいという許可も下りたため、葵は結糸の手を借りながら、病室のシャワールームでこの数日間の汗を流した。  あの夜以来、なんとなく結糸の前で裸になることに抵抗を感じるようになってしまった葵だが、目を庇わなければならないため、洗髪だけは結糸の手を借りることにした。  髪を結糸に洗ってもらうのは初めての経験であったが、結糸は「痒いところないですか?」「お湯加減どうですか?」などと終始楽しげに葵の髪を洗っていたのである。もうすぐ、こうして結糸に身の回りの世話をしてもらう機会もなくなるのかと思うと、望ましい状況とはいえやはりさみしい。  手渡されたバスローブを羽織り、結糸の導きによってスツールに腰掛ける。すると、多少硬めの病院のタオルで葵の髪をがしがし拭いながら、結糸は小さく鼻歌を歌い始めた。 「ご機嫌だな、結糸」 「えっ? あ、あー……すみません、なんか、こういうの初めてだし、楽しくて」 「俺の髪を洗うことが?」 「俺、昔実家で犬を飼ってたんです。今はもういないんですけど、その頃のこと思い出し…………って、あっ! すみません!! 別に葵さまを犬扱いしてるってわけじゃなくて!!」 「はははっ、いいよ、お前がそんなに楽しいなら、これからもシャンプーしてもらおっかな」 「すみません……!! あの、とんだご無礼を……!!」 「いいって、結糸が楽しそうだと俺も楽しい。好きなようにやってくれ」 「はぁ……」  急に結糸の手つきが丁寧になるので、葵はまた笑ってしまった。結糸は苦笑しつつ葵の頭からタオルを外し、両目を覆う横長の一枚ガーゼの縁を、指先で少し直したりしている。 「……うん、大丈夫。剥がれてないです」 「もういいような気もするんだけどなぁ。頭痛も引いたし、なんだか目の周りが少し痒くなっててさ」 「ほんとですか? 先生に言っときますね」 「あぁ、いいよ。次の診察の時でいい。……はぁー、すごくさっぱりした。痛み止めで眠らされると、変な汗ばかりかいて気持ち悪かったんだ」 「すっきりして良かったですね! あ、ドライヤーします?」 「普段はしないけど……結糸がしたいならしてもいいよ」 「えっ!? いや、俺は別に!」  背後で分かりやすく焦っている結糸の顔をもうすぐ見ることができるのかと思うと、自然と葵の気持ちも上がってくる。汗を流してひと心地ついたせいもあるのだろうが、いつになく気持ちが晴れやかで、身体もとても軽かった。葵はすっと立ち上がり、「窓はどこ?」と結糸に問うた。 「あ、お連れしますよ。ベッドと棚の向こうなんで、ちょっと危ないし」 「あぁ、頼む」  葵が手を差し伸べると、結糸はそっとその手を取った。いつもならばすぐに結糸の肩に導かれるはずだが、結糸は両手で葵の両手を掬い上げ、ゆっくりと窓の方へと導いていく。大した距離ではないからそうしているだけなのだろうが、それが妙に嬉しくて、葵は薄く微笑んだ。 「いいお天気ですよ。時間は……午後二時、か。夕食まで散歩に出てもいいかもしれません」 「そうだな」 「窓、開けましょうか? いい風が入ると思います」 「ああ、頼むよ」  葵は手を伸ばして窓ガラスに触れてみた。つるりとした無機物の感触だが、それは午後の陽光を吸って、ほんのりとあたたかさを持っている。結糸が窓を開く音、そしてふわりと舞い込む春の風。穏やかな昼下がりの空気を胸に満たしたくて、葵は大きく深呼吸をした。 「……いい気持ちだ」 「桜は残念ながらもう散っちゃったんですけど。今年もすごく綺麗だったんですよ」 「そうか。桜……どんな色だったかな」 「薄いピンクとか、薄い白……って感じにも見えるかな。すごくきれいな色ですよ」 「今となってはあまり覚えのない色だけど、もうすぐ見れるんだな」 「ええ。あっ、葵さまの髪の色もきれいなんですよ。こうして陽の光に照らされると、きらきらしてて、すごくきれいです」 「俺の髪?」 「はい。今は洗いたてだから、ちょっと水気がついてて、いつもよりもっときらきらしてて……」  す……と、下から結糸の手が伸び上がってくるのを感じた。そして、耳の上の髪の毛を軽く撫でられる感触も。  葵は無意識にその手を掴み、そっと自分の口元へと運んだ。シャンプーの香りがする結糸の指先にそっとキスをすると、結糸が「あっ……」と小さく声を漏らす。  ――今、見たい。結糸の顔が。どんな表情で俺を見上げているのか。どんな表情で、俺のキスを受け止めているのか……。  そう思ってしまえば、もう我慢ができなかった。葵はなんの躊躇いもなく、両目を覆う横長のガーゼに指をかけた。そして一気に、ガーゼを剥がす。 「っ……う」 「あっ!! 葵さま……!!」  あまりの眩しさに目が眩む。  これまで棲み続けていた薄闇の世界からは想像がつかないほどに、そこは光に溢れた眩しい世界だった。  何にも遮られることのない太陽の光はあまりにも刺激が強く、葵は片手で目元を覆って、小さくふらついた。 「葵さま! だめですよ、いきなり太陽の光を浴びるなんて……!!」 「……太陽……」 「大丈夫ですか!? カーテン引きますから!」  そう言い終わらないうちに、シャッとカーテンが引かれる音が聞こえてきた。まぶた越しに突き刺さる陽の光が幾分か和らいだため、葵は小さくため息をつく。 「……全くもう、どうしたんですかいきなり」 「結糸……」 「はい?」 「……こっちに来てくれ」  片手で目を覆ったまま手を伸ばすと、結糸はすぐにその手を取った。そして窓に寄りかかっている葵の目の前に立つと、そろりそろりとした動きで、葵の顔を覗きこむような動作をしている。  薄く瞼を開いてみると、自分の手指の下に、黒いスラックスが見えた。  病室のクリーム色の床、黒いベスト、白いシャツ……葵の目は、それらの色をぼんやりと捉えている。実に、十六年ぶりに目にした色彩だ。葵は目を瞬いて、息を飲む。 「葵さま……?」  心配そうな結糸の声に、葵はゆっくりと腕を下ろした。  そして、目の前に佇む一人の少年の相貌を、その瞳に映す。 「……結糸」  間近で葵を見上げる結糸の目と、視線が結ぶ。  柔らかな薄茶色の目が、葵をしっかりと見つめている。  その瞬間、全身を駆け巡る不思議なざわめきを感じた。  葵の心、本能、肉体……葵を構成するものの全てが、感じたこともないほどに高揚している。結糸の存在を欲している。葵は、結糸の双眸から目が離せなかった。  そして結糸も微動だにせず、じっと葵を見つめている。  軽く見開かれた結糸の目が見る間に潤み、眦(まなじり)に涙が膨らむ。ひとすじ、ふたすじと丸い頬を伝う結糸の涙に触れてみたくて、葵は微かに震える手を持ち上げた。  いつものように結糸の顔に指を這わせた。さらりとした茶色い髪、くるりと上を向いた睫毛、つんと尖った鼻、すべらかな頬。そして、あの夜何度もキスを交わした、赤みを帯びた弾力のある唇ーー。 「……あぁ……結糸……」 「葵さま……見えるん、ですね……?」 「あぁ、見える。お前の顔……はっきり見える」 「うわ……ほんとに……? 葵さま……」  想像していたよりもずっと、結糸の顔立ちは端正で、とてもとても愛らしい。涙を流し、唇を小さく震わせている姿は身悶えしたくなるほどに可愛くて、どきどきと鼓動が速まっていく。葵はすっと両手で結糸の頬を包み込み、後から後から流れ出す結糸の涙を親指で拭った。 「なんでお前が泣くんだよ」 「だって……だって、ほんとに……葵さまの目……俺のこと、見てるから……っ」  えぐえぐと嗚咽を漏らし、本格的に泣き出した結糸を、葵はぎゅっと抱き寄せた。密着する身体、手のひらに収まってしまいそうな頼りない腰や背中。葵の胸元に顔を埋めて肩を震わせるあたたかな存在が、愛おしくてたまらなかった。 「結糸」  名前を呼ぶと、結糸がぐしゃぐしゃに泣き濡れた顔を上げた。眉を下げ、目を真っ赤にしながら葵を見上げる結糸の泣き顔を間近で見てしまえば、もう我慢などできるわけもない。  葵はいっそう強く結糸を抱き寄せ、涙で濡れた結糸の唇にキスをした。  しっとりと熱を孕む結糸の唇を包み込み、柔らかく食んでみると、結糸は素直に唇を薄く開いて、葵のキスに応じてくれる。  とろけるような、甘いキスだ。  結糸の唾液は、まるで花の蜜のよう。全身を覆う、結糸の香りの甘さに誘われる。葵が結糸を抱きしめる腕に力を込めると、おずおずと葵の背中に結糸の腕が絡みつく。そうして受け入れてもらえることが幸せで、愛おしくて、葵の目にも涙が滲んだ。  そして葵は確信する。  結糸こそが、葵の番うべきオメガであるということを。 「……好きだよ、結糸」 「……へっ……?」 「お前が好きだ。あの日結糸を抱いたのは、発情期だったからだとか、そんな理由だけじゃない。俺はずっと、結糸に触れてみたかった。お前を……抱きたいって思ってた」 「……あ、葵さま……」 「お前と番いたい。結糸以外、考えられないよ」 「そ……っ、それは……」  葵のその言葉に、結糸はハッとしたように目を見開いた。結糸は身をよじって葵の腕から逃れると、ふらつきながらゆるゆると首を振っている。そして、しっとりと濡れた唇から、「そんなの……許されるわけがありません……!」と苦しげな声を漏らす。 「お、俺なんかが、葵さまの番になれるわけないじゃないですか!! あなたには国城家の男なんですよ!? 俺は使用人だし、オメガだってことを隠してここにいる! 須能さんたちみたいにきれいでも有能でもない! 家族だってじいちゃんだけで、家柄とか、」 「結糸」  血を吐くような声で現実を叫ぶ結糸のそばへ、葵はゆっくりと歩み寄った。後ずさり、壁に背をぶつける結糸の方へ、まっすぐに手を伸ばす。  両腕で結糸を壁に囲い込むと、葵はそっと結糸の額にキスをした。結糸はぴくりと身体を震わせ、苦しげな表情で葵を見上げている。 「結糸、お願いだ。立場とか家柄とか、今は全部忘れて欲しい。結糸の気持ちが知りたいんだ、お前の、本当の気持ちが」 「でも……!」 「あの夜、俺に言ってくれた言葉は、嘘なのか?」 「……それは」 「俺は結糸が好きだ。これからもずっと、俺はお前のそばにいたい」 「……っ」 「結糸……教えてくれ。結糸が欲しいんだ、お前の全てが……!」  壁際に追い詰めた結糸の耳元で、葵はひたすらに想いをぶつけた。しかし結糸は、小さく震えながら硬く唇を引き結び、きつく目を閉じている。  一方的に強く出過ぎたのだろうかと不安になり、葵は少し身を引いた。無我夢中になるあまり、結糸を怯えさせ、困らせてしまったのだろうと。自分の不器用さが情けなくて、あまりの不甲斐なさにため息が出る。 「……ごめん。いきなりこんなこと言われても困るよな」 「あ……」 「ちょっと、頭冷やす。俺、必死すぎだよな……。ごめん」  葵は、結糸から距離を取ろうとした。すると結糸が小さな声で、何かを呟くのが聞こえてくる。 「ん? 何か言った?」 「……きです。俺……」 「……え?」  結糸が顔を上げ、葵を見つめる。  再び、二人の眼差しが、まっすぐに結び合った。 「お……俺だってあなたが好きです……! ずっと、葵さまが好きでした……!」 「結糸……」 「葵さまに選ばれたいって、ずっとずっと望んでました……。けど、そんな夢みたいなことありえないって、最初から諦めてたつもりだった。でも、どうしようもなく葵さまが好きで……好きで」  結糸が一歩、二歩と葵に近づく。葵はすぐに結糸に歩み寄り、ぎゅっと結糸を抱きしめた。 「俺だって、葵さまが欲しいです……! 誰にも渡したくなんかない……!」  結糸の押し殺した涙声が、身体に直接響いてくる。溢れ出す結糸の感情の全てを受け止めようと、葵は強く強く結糸を抱きしめ、目を閉じた。  葵の白い頬にも、一筋の涙が伝う。

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