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第14話 車窓

 そしてその二日後、葵は自宅に戻ることとなった。  勝手にガーゼを剥がしてしまったことについては、綾世にこんこんと説教をされた。『異常が出なかったからいいようなものの、せっかくの新しい眼球と視神経に無茶をさせるなんて言語道断』と普通に叱られてしまったのである。  年の近い相手に叱られる経験が珍しいと言うこともあったが、葵は初めて目の当たりにする綾世の顔をしげしげと観察することに忙しく、話の内容はあまり頭には入ってこなかったのだが。  綾世は結糸の言うように、線の細いまろやかな顔立ちをした男だった。突然男を押し倒したり、堂々と薄気味の悪い発言をするような危険人物にはとても見えない。  さらりと撫で付けられた黒髪には若々しい艶があり、形のいい額をすっきりと出している。色の薄い眉、奥二重の涼やかな目元には知性が滲み、若さとは裏腹の老成した雰囲気を漂わせていた。二十七という若さでありながら、第一線で活躍しつづけている有能さの裏側には、膨大な努力と苦労があるのだろう。  聞けば、綾世は蓮の高校時代の先輩なのだという。今はすっかり立場が逆転してしまったと、綾世はふわふわ笑っていた。膨大な研究費を与えてくれる蓮には頭が上がらないという。  そして結局、綾世はパートナー候補からは外されてしまったらしい。が、綾世はそれを悲観している様子はなかった。 『君は毎週のように私のところに診察を受けにくるんです。チャンスはいくらでもありますからね。私自身の魅力で君を堕とせばいいだけの話ですから……ふふふふ』と言って意味深な笑みを浮かべ、葵の手をさわさわといやらしく撫で回してくるのだからたまらない。葵は青くなりながらさっと手を引っ込め、手術成功の礼だけを述べて診察室を出てきたのだった。   + 「綾世先生に変なことされませんでした?」 と、勢田の運転するセダンに乗り込むなり、結糸はそう問うてきた。結糸の身の安全を考え、診察中は廊下で待たせていたのである。葵は少しばかり苦笑して、首を振った。 「大丈夫だよ。特に変なことはされてない」 「そうですか、ならいいんですけど」 「……どんな医者なんです。名医なんでしょ?」  運転席から勢田の声がした。葵は後部座席から身を乗り出し、ハンドルを握る勢田の顔をしげしげと横から見つめてみる。すると勢田はちらりちらりと葵を気にしつつ、居心地悪そうに目を細めた。 「お前の顔は想像通りだな。この間、結糸に細かく教えられたんだ」 「……え? #私__わたくし__#の顔のことを、でございますか?」 「そう。思ったより若いんだな。奥さんと子どもは元気か?」 「ええ、おかげさまで。チビ助も、今年で二歳で、手を焼いていますよ」 「そうなんだ。へぇ、見てみたいぁ」 「今度遊んでやってくださいます?」 「ああ、いいよ。小さい子どもなんて、俺の周りには全然いないし」 「ですよねぇ」  葵と勢田がそんな世間話をしている間も、結糸は終始にこにこしていた。葵は背後を振り返り、優しい表情で葵を見つめている結糸の隣に座りなおす。 「勢田の顔の描写については完璧だったな」 「でしょ? 毎日小言言われてますから」 「こら深谷、余計なことは言わないように」 「すみません……」  結糸が小声でそんなことをいうものだから、勢田は執事然とした笑みを浮かべつつも眉毛をぴくぴくと揺らしている。ルームミラー越しに結糸を睨んでいる勢田を見て、葵は笑った。 「ああいう目つきをしているときは、後から説教ってパターンが多いです」 「なるほどね。俺の見えないところで無言のやりとりがあったってことか」 「そうなんですよ」  そう言って笑う結糸の顔から、葵は目が離せなかった。赤みを帯びた唇から覗く白い歯や、片方にだけ浮かぶ小さなえくぼ。くるりとした大きな目を細めて愛らしく笑う結糸の姿が、愛おしさのあまりきらきらと光輝いて見える。思わず触れてしまいたくなるのをぐっと堪え、葵はふっと微笑んだ。すると、結糸の頬がぽっと薔薇色に染まる。 「……あ……」 「ん? どうしたんだ」 「そ、そんなふうにじっと見られると、どうしていいか……。それに、葵さまの目……すごくきれいで」 「目が?」 「はい。うっすら金色がかってる感じ、蓮さまと似ておられますね。深い青っていうか……夕暮れ時の空が夜に変わる時の空の色に、よく似てます」 「……へぇ、なかなか文学的な表現をするじゃないか」 「もう……茶化さないでくださいよ!」  照れ隠しにからかってみると、結糸は素直に拗ねてしまった。葵は楽しげに声を立てて笑うと、ぽんぽんと結糸の頭を無造作に撫でた。 「ごめんごめん、ちょっと照れくさかったんだ」 「照れ……。あ、そうなんですか……」 「綾世が言うには、移植前の眼球は金色味を帯びてはいなかったらしい。でも、俺の目になってから、じわじわ金色が出てきたって言ってたな」 「へえ……不思議な話ですね」 「この目をくれた親戚には会ったことなかったけど……。一度、きちんと墓前に参りたいと思ってる」 「ええ、そうですね」  葵に眼球を提供する形になった分家の青年は、葵の二つ年上だった。大型バイクのハンドル操作を誤り、道路の中央分離帯に接触し、転倒事故を起こして亡くなったらしい。フルフェイスヘルメットに守られていたためか頭部への損傷は少なく、奇跡的に眼球は無事だったのだという。  失われた一つの命を糧に、葵の視力は回復したのだ。葵はそっと目を閉じ、自らのまぶたに触れる。  そんな葵の姿をルームミラーで見守っていた勢田が、穏やかな声でこう言った。 「屋敷で、みんな待ってますよ。今日は快気祝いです」 「快気祝い? そんなのいいのに……。どうせ近々、二十歳の祝賀会があるだろ」 「それはそうなんですがね。祝賀会は葵様の社交界デビューの場となる盛大なパーティです。今日のお祝いは、私たち使用人が葵様の退院を祝う会ってことで」 「そうなんだ。……ありがたいな」 「蓮さまはおいでになりませんが、御門様はいらっしゃるそうですよ。須能様も、葵様の帰りを今か今かとお待ちでして……」 「……そうか」  結糸と葵が一夜を共にしていることを知っているせいか、須能の名前を口にする勢田の声が、ほんの少し重くなる。結糸の表情にも緊張感が漂い始めているのを見て取った葵は、シートの上に置かれた結糸の手を、そっと握った。 「あっ……葵さま……!?」 「いずれ、きちんと話さないとな。須能にも、兄さんにも」 「で、でも……。そんなことしたら……」 「まぁ、兄さんは反対するだろうな。でも、うやむやにはできない。時間がかかっても説得するから、大丈夫だ」 「……話して、分かっていただける自信がありません。知られたら、すぐにでも屋敷を追い出されてしまいそうで……」 「いきなり真っ正面からぶつかっていくようなことはしないよ。折を見て話すから、結糸は今まで通り、俺の付き人としてそばにいてくれ」 「……はい」  葵のそんな言葉で、結糸の不安が全て拭い去られるわけではないだろう。それでも、結糸は葵に笑顔を見せてくれた。かすかに揺れる瞳や震えるまつ毛からは、結糸の抱える不安がありありと表れているというのに。  その健気さに、葵はぎゅっと胸を掴まれるような気持ちになった。握りしめた結糸の手を、さらに強く握りこむ。 「……すみません。蓮さまに、隠し事をさせるようなことを……」 「何言ってるんだ。お前の気持ちを知ることができて、俺は嬉しかった。すごく幸せなんだ。そのおかげで、色々頑張れそうな気がしてるんだよ」 「ほ、ほんとですか?」 「目なんか見えなくても……なんて言ってたけど、今はそんな気持ちは感じないよ。今はとにかく、色んなものをこの目で見たい。この十六年見えなかったものを、なんでも吸収したいような気分だ。お前を、自分の手で守るためにも」 「……あ、葵さま……」  結糸はくるりとした目を潤ませ、涙を堪えるような表情で葵を見上げている。なんて可愛いんだろう……と葵は胸の奥がむず痒くなるような感覚に突き上げられ、結糸の頬に手を伸ばした。  その時、「ごふ、ごほぉっ!」と勢田の咳払いが聞こえてきて、葵はハッとした。勢田がミラー越しに、ちらっ、ちらっと後部座席の二人を見ている。 「えーと、つまりお二人はそういうことになったってことですかね?」 「あ……うん。そうなんだ」 「……深谷、お前、葵さまとはこれまで通りにしたいって言ってたろ」 「あの……これは」  勢田の追求が結糸に向いている。口ごもる結糸を見て、葵はすぐに口を開いた。 「俺が結糸に迫ったんだ。俺もずっと、結糸のことが好きだったから」 「え……え? そうなんですか? 深谷のヒートのせいじゃなく?」 「その前から、ずっとだ」 「……そうだったんですか。そういうことなら、私はもう何も言いませんが……。蓮さまのお許しが出るまでは、くれぐれも気をつけてくださいよ。どこで誰が見ているか分かりませんから」 「あぁ、分かってる」 「それに……深谷。お前も」 「えっ?」 「お前、葵さまにポーッとなって油断すんなよ」 「し、しませんよ!」 「オメガなのに、ネックガードもなしでアルファの屋敷勤めなんて……あー怖。大丈夫かよお前」 「き、気をつけます。っていうか首輪なんてしてたら、オメガだってモロバレじゃないですか」 「そうだけど。とっとと葵さまに噛んでもらえよ。そしたら他のアルファを誘うこともなくなるだろ」 「い、いや……それはそうですけど。蓮さまのお許しもなく、そんな……」 「悠長なこと言ってる場合かよ。次の発情期はいつだ!?」 「ちょ! なんつーこと聞くんですか! セクハラだセクハラ!!」  いつのまにか、勢田の口調が耳を疑うほどぶっきらぼうなものになっている。しかし、結糸を見据える目つきはどこまでも真剣で、本気で結糸のことを心配しているのだということが見て取れた。葵は、そんな勢田の存在を心強く思った。 「そのへんは俺も不安だな……。結糸がこんなにも美形だっただなんて、思ってもみなかったし」 「えっ? 俺が?」 「今後、お前を外に連れ歩くことが増えるだろうからな。……心配だ。香りだけじゃなく、外見でも人を惹きつけてしまうとなると……」 「い、いやいや、そんなことあり得ませんから! とにかく、俺は大丈夫です! 葵さま、これからすごく忙しくなると思いますし、俺のことは気にしないでください」 「……うーん」  さっさと番になってしまえたらどんなに気が楽かと思うのだが、番の契約を結ぶためには次の発情期を待たねばならない。ヒート時の性行為中に、アルファがオメガの首筋に牙を立てることにより、番が成立するからである。それまでに兄の理解を得られるのだろうか、そのためにすべきことは何だろう……と、葵は先のことを考えた。  まずはネックガードを贈ろうか、とも考えた。  ネックガードは、突発的なヒート時に、不本意な形でアルファに首筋を噛まれてしまうことのないよう、オメガの首筋を保護するためのものである。形状は様々だが、一般的にはチョーカーのような形状のものが多い。簡単には外れないよう、鍵や指紋認証型ロックが備わっているものが主流だ。  またそれは、アルファを守るものでもある。オメガのヒートにあてられてしまったアルファは理性を失うことが多く、暴力的に相手を支配しようとする傾向が強い。支配欲と性欲に侵され、双方が望まない相手と番ってしまうことを防ぐためにも、オメガはネックガードを装着している者が多いのだ。  結糸は今後も葵のそばで働くのだから、アルファと触れ合う機会も多くなる。アルファの群れの中に、無防備にオメガの結糸を放り出すことは、葵にとっても落ち着かない事態である。  ふと、結糸の着ている襟の高いシャツを見ながら、葵は腕組みをして指先で唇を撫でた。使用人たちが着用している白いワイシャツと、黒いベスト。ちなみに勢田は執事長であるから、そこに黒いアスコットタイとジャケットを身につけている。襟の下に隠れるほどの細身の首飾りならば、結糸に身につけておいてもらえるかもしれないと考えつつ、葵は車窓を流れる色鮮やかな景色に目をやった。  まばゆい太陽の光に照らされた、明るい春の風景だ。街中にある病院から離れるにつれて自然が増え、萌える新緑や色づく花々が美しい。葵は結糸の手を握ったまま窓に顔を近づけ、パワーウィンドウを下げる。ふわりと車内に満ちる春めいた香りと涼やかな風を、胸いっぱいに吸い込んだ。 「……きれいだな」 「はい、きれいですね」 「すごい……。広くて、明るくて、色に溢れて……いつ瞬きをすればいいのかも、分からなくなりそうだよ」 「ええ、本当に、きれいです」  この色彩に溢れた世界の中で、心から結糸と笑い合えたらどんなにいいだろう……と、微笑む結糸を見つめながら、葵は思った。

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