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第15話 祝いの席
「……でかい」
二階まで吹き抜けの天井、天井から釣り下がったシャンデリア、白い大理石が敷き詰められた床……自分の家なのに、まるでよその家に来てしまったかのような違和感を感じつつ、葵は物珍しげに家の中を見回しているところである。
「でかいですよねぇ。俺も始めて来たときはビビりましたもん。この風景は記憶にありませんでしたか?」
と、隣で結糸がそう言った。
「なかったな。自分の部屋とか、ダイニングくらいはなんとなく覚えていたけど」
「お庭も後で行ってみませんか? すごくきれいですから!」
「ああ、そうだな」
玄関ホールを抜け、踏みしめる絨毯の感触。それは目が見えなかった頃に感じていたものと、当然同じものである。しかし落ち着いたボルドーの絨毯や白い壁、庭に面した廊下の壁に嵌った大きな窓などの記憶は曖昧で、どこもかしこも珍しい。
明るくて、きらびやかで、華やかで……これまで暗闇の中で暮らしていたことが、嘘のように感じられる。
「……当分落ち着かないかもしれない。俺、ずっとこんな派手な家で暮らしてたのか」
「そうですよ? っていうか、葵さまにはこういう家、よく似合ってますけど」
「そうかな」
「ひとまず、リビングルームへどうぞ」
「ああ……そうだな」
目の前に現れた縦長の扉を、結糸がぐっと押しあける。すると、玄関ホールと負けず劣らずきらびやかな空間が目の前に現れた。葵の目を#慮__おもんばか__#ってか、窓には全て白いシェードが降りていて、南向きの大きな出窓から燦々と差し込む陽光は遮られている。葵はちょっとホッとした。
ほんのりと明るいその空間には、アイボリーの大きなソファが向かい合わせに並んでいる。そのうちの一つに腰掛けていた背の高い男が、葵を見るなりすっくと立ちあがり、まっすぐこちらに駆けてくる。
「葵!!」
「……その声。#陽仁__はるひと__#か?」
「そうだよ! うわぁ……すごいな、見えてるんだな、俺のこと!」
「あぁ、見えるよ。お前、こんな顔してたんだな」
陽仁は、葵よりも十センチ近く背が高かった。軽く見上げる格好になりながら、葵はすっと手を伸ばし、陽仁の顔に触れてみる。べたべたと無遠慮に顔を撫で回されるものだから、陽仁は整った顔をくすぐったそうに歪めて、「おい何してんだよ」と笑った。
健康的に陽に焼けた肌や、快活な性格をそのまま表すかのような、はっきりとした大きな目。爽やかに短く刈られた黒髪には艶があり、きりっとした上がり眉がとても凛々しい。
久方ぶりに見た自分の顔よりもずっと、陽仁の顔立ちは男らしくて、とても好ましいものに見える。身体つきも葵よりもずっと逞しく、ぴんと張ったワイシャツの胸元は頼もしい。こういう華のある男こそが、アルファと呼ばれるに相応しいのだろうなと、葵はどことなく人ごとのように感じていた。
しげしげと見つめられながら、身体中を撫で回されているというのに、陽仁は気を悪くする様子もなく、軽い口調でこう言った。
「どうだ、いい男すぎてびっくりしたろ」
「うん、びっくりした」
「おいおい、そんなとこ触んなって、くすぐったいだろ」
「今も鍛えてるのか? 胸板すごいな」
「まぁな。それにずっとサッカーやってたし……てか、揉むなって、あははっ」
「んー、これは兄さんより逞しいな」
「そうかな、まぁ、蓮様は細身だもんな。まだ会ってないのか?」
「うん、まだなんだ。早く顔が見たいよ」
「蓮様は、びっくりするくらい美しい人だよ。身に纏うオーラは半端ないのに、なんかこう、どことなく儚げなところもある雰囲気がすごく麗しいっていうか……」
「なんだよ、べた褒めだな」
「そりゃ、一度会ったら忘れられなくなるような人だからな。高校時代、たまに蓮様がお前を迎えに来てただろ? その時初めてお目にかかって、びっくりしたのをよく覚えてる」
「えぇ? 初耳だぞ、そんな話」
「いや、言ったら引かれると思ってたし」
陽仁は少し照れたように苦笑して、葵としっかり目を合わせた。鮮やかな黒が際立つ、きりりとした目だ。
「たまにパーティとかで姿を見ることもあったけど、あの人の周りにはいつも人垣が出来てて、近寄れないしな。仕事のことでお会いしたのも一回きりだ。……この休暇中に、一度でも会いたいんだけどな」
「え? まだ会えてないのか?」
「避けられてんのかな俺。一度、きちんと会って、資金援助の礼が言いたいんだけど……。ま、今は俺の話より、お前の目が見えるようになったことを祝わせてくれ」
陽仁はそう言いつつ葵の手を取って、ちゅっと手の甲にキスをした。気障っぽい動きだが、嫌味なく様になっている。
「良かったな、葵。これでお前は無敵だ」
「そうでもないさ」
「結糸くんも、良かったな。葵の世話、大変だったろ?」
陽仁の目線が、葵の斜め後ろに控えていた結糸に向く。突然話しかけられたことにびっくりしたような顔をしつつ、結糸は愛想よく破顔した。
「いえ、全然そんなことありませんでしたよ」
「けっこう偏屈だろ? こいつ」
「え? いえ全然……」
「そうなの? 高校時代はけっこうヒネてたような気がするんだけどなぁ」
「こら陽仁、余計なこと言うなよ」
「あははっ。ごめんごめん」
「偏屈……」
明らかに、結糸は葵の高校時代のエピソードを聞きたがっている顔だ。葵は苦笑して、「とりあえず座ろう」と二人を促す。
その時、リビングの扉が音を立てて開き、銀色のワゴンを押す使用人達が顔を出す。
シンプルな黒いワンピースと白いエプロンという出で立ちをしたメイドたちや、結糸と揃いの格好をした使用人たち、コック帽をかぶった料理人たちが、それぞれの顔に笑顔を乗せてリビングルームに進み入ってきた。総勢二十名ほどであろうか、年の頃はそれぞれだが、皆が葵の帰りを歓迎している表情である。
一気にたくさんの人間が現れたことに驚きの表情を浮かべていた葵だが、口々に「葵さま、おかえりなさい」「わたくしが誰だか、分かりますか?」「よかったですね、本当に」など声をかけられるうち、自然と笑顔になる。
軽くつまめるピンチョスやバケットサンド、キッシュやローストビーフ、彩り豊かなサラダ。または一口サイズにカットされた焼き菓子やブリュレ、春らしい色をつけたババロアなどのデザートが美しくディスプレイされた銀色のワゴンが、ずらりとリビングルームの中に並んだ。
食欲をそそる美味そうな匂いと、目にも楽しい料理の数々を目にして、葵は目を輝かせた。
「わぁ、すごいな」
「おー、美味そう」
と、隣に立っていた陽仁も、負けじと目を輝かせている。
「さあ、葵さまのご帰還を祝って乾杯しましょう! 葵さまの視力回復、そして今後のご活躍とご健康を祈願いたしまして! 乾杯!!」
「乾杯!!」
勢田の威勢のいい声が、リビングルームに響く。西洋風かつ絢爛豪華なリビングルームには多少そぐわない、庶民的な雰囲気の乾杯の音頭であるが、葵は爽やかな笑顔でグラスを掲げ「みんな、ありがとう」と明るい声で礼を言った。
声を聞いて名前を当てたり、自己紹介を聞いたりと、使用人達と和やかに談笑していた葵だが、ふと、扉の方でじっとこちらを窺っている男の存在に気がついた。さらりとした黒髪を高い場所で結わえた、和服姿の青年だ。その男が誰なのか、葵にはすぐに分かった。
葵はちょっと手を上げてその場を抜けると、傍にいた使用人が持っていた盆の上からグラスを一つ取り、ドアの方へと歩いていく。葵が近づいてくるさまを見て、須能はばつが悪そうにサッと扉の向こうに姿を隠してしまった。
「須能、だよな」
「あっ……う、うん……。見えてんの? 僕のこと……」
「見えるよ、はっきり」
「うわぁ……ほんまにか……」
「どうしてそんなとこにいるんだよ。入ってくればいいのに」
「……あ……」
葵と目が合った瞬間、須能の顔が林檎のように真っ赤に染まった。それを恥じるように袖で口元を隠す須能を見下ろして、葵は少し笑った。
「こっちに来いよ。今日は兄もいないから、気楽な快気祝いだ。須能も何か食べていくといい」
「……う、うん……」
「どうしたんだよ」
「だ、だって……。目、見えてるんやろ? なんか……な」
手元に近づいたグラスを見て、須能はようやくそれに手を伸ばした。そして、ごわごわといった様子で顔を上げ、うるうると潤んだ目で葵を見上げる。
そこにいる須能は、葵の中に築き上げられていた須能のイメージとはまるで違う男だった。
須能は飄々とした雰囲気を持ちながらも自信に満ち、名家のオメガであることに強いプライドと誇りを抱いているという印象が強い。そのため、もっと我の強そうな、アクの強い派手な顔立ちだとイメージしていた。
しかし目の前で真っ赤になって震えている須能は、思っていたよりもずっと小柄で、顔立ちも清楚だった。雅やかで気品のある美しさが、身につけた濃灰色の和服とよく合っていて、とても絵になっている。
「い、いざ、ほんまに葵くんに顔見られるんかと思ったら……なんや、緊張してもて……」
「夜這いまでして、自分が一番俺にふさわしいって言ってたくせに」
「いや、せやねんけど……。葵くんは、眩しすぎる。綺麗すぎて……」
「須能だって、十分綺麗な顔をしてるじゃないか」
「……んっ? え? そ、そう?」
「ああ、想像していたお前の顔より、ずっといい」
「葵くん……!! ほな、僕のことパートナーに、」
「……そのことで、お前に話しておたいことがあるんだ。明日、時間あるか」
「え……? あ、うん……ええけど」
葵の表情と硬い口調に、須能の顔が強張った。自分にとって好ましくないことを宣告されるであろうという予兆を、すでに感じ取っている表情だ。こんな表情を見せられてしまうと葵の心もずきりと痛むのだが、結糸のためにも、須能にはきちんと話をしておかねばならない。
「ほな……僕はもう帰るわ。明日、また来る」
「……」
「退院おめでとう。葵くん、目ぇ見えるようになってよかったね」
「……ありがとう」
須能はぐいとグラスを葵に押し付けると、目線を合わせることもなく、そのまま踵を返して廊下を歩き去って行った。
葵はざらつく想いを抱えながら須能の背中を見送り、小さく拳を握りしめる。
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