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第17話 嫉妬と痛み

   翌日、結糸はひとり、庭園の掃除に勤しんでいた。  今日は朝から葵は大学へ行っており、珍しく二人は離れ離れである。  これまでは結糸が大学へ付き添い、並んで講義を受けていたのだが、今日は護衛だけを連れて屋敷を出て行った。葵の在籍する名門私立大学には多くのアルファが通っているため、用心してのことらしい。  それに目が見えるようになった今、大学で葵が結糸の手を必要とすることはほとんどないだろう。葵は耳で聞き取った講義内容は事細かに覚えているし、そもそも、大学で学ぶような内容は幼い頃から家庭教師によって叩き込まれている。それでも、講義を受けなければ単位を出さないという教授もいるし、履修した科目は全てレポート提出が求められるため、葵はこれまで通り週に一、二度は大学へ顔を出しているのだ。  レポート作成をするときは、有志の学生が手を貸してくれていた。葵が口にする内容をパソコンに打ち込み、プリントアウトして提出しておいてくれるのである。当然のごとく、結糸にはその手の手伝いは一切出来ないので、あくびを嚙み殺しながら葵のそばに控えていることしかできなかった。  葵の声を聞き、時に意見を交わしながらレポートを打ち込む学生たちは、男女問わず、葵の美しい容姿にうっとりとした目つきをしていたものだった。彼らは総じて名門のアルファであったが、優秀な彼らからも尊敬と畏怖の眼差しを向けられている葵の存在が、結糸はいつも誇らしかった。 「はぁ〜、あっつ……」  薔薇の庭の草むしりをしていた結糸は、軍手を外してこめかみの汗をタオルで拭った。春先とはいえ、今日は真夏並みに日差しが強く、庭師から借りた麦わら帽子がいい仕事をしている。  喉の渇きを覚えた結糸は、うーんと唸りながら腰を伸ばした。休憩がてら水を飲もうと、少し離れた場所にある東屋(あずまや)の方へと歩を進める。 「やっぱ草むしりは肩凝んなー。でも、綺麗になったし、オッケーオッケー……」 と、ブツブツひとりごとを呟きながら庭を見渡す。ここは葵のお気に入りの庭なのだ。彼が初めてこの美しい庭を見るときに、足元に雑草が生えているのはいささか趣が良くないであろうと、庭師の許可を得て草むしりをしていたのである。  むせ返るような薔薇の匂いと、どことなく夏の匂いを含んだ風を胸いっぱいに吸い込みながら、結糸は葵のことを想った。  この庭を見たら、葵はどんな顔をするだろう。どんな言葉を口にするだろう。あの美しい瞳をきらめかせ、この美しい花々を見渡す葵の表情を想像するだけで、結糸の胸はどきどきと高鳴った。  そして同時に、昨夜のことを思い出す。  葵によって高められ、その手によって絶頂へと導かれた甘い時間のことを。  葵のキスは、結糸の理性をあっという間にとろけさせてしまう。葵もしばしば口にすることだが、結糸にとっても彼の唾液はとても甘く、全身が痺れてしまうほどの興奮を煽られる。  肌の上を滑る葵の指先にも随分と啼かされてしまったものだが、何よりも結糸を高ぶらせたのは葵の目線だった。  これまで白く曇っていた瞳は、今は夜空を宿すかのような美しい紺碧色。うすく金色を帯びるその色彩は、まるで満天の夜空に輝く星々をも抱(いだ)いているかのようで、素晴らしく美しい。  葵はその瞳に熱を孕ませ、快楽に狂う結糸をじっと見つめる。そうして見つめられているだけで、結糸の身体は熱く熱く昂った。絶頂の瞬間でさえ、葵は結糸から目を離さなかった。  恥ずかしい、はしたないと思っているのに、葵の眼差しに射抜かれることに悦びを感じた。目と目を合わせながら愛を囁かれることに、至上の幸福を感じた。  ”産む道具”と揶揄されることが厭でたまらず、自分の性を否定し続けてきたというのに……葵に抱かれていると、オメガの本能が激しく疼く。早く葵の番になりたい、彼の子を孕みたいと全細胞が騒ぐのだ。  ――オメガとして生きることを、否定し続けてきたのにな……。  しかしこうして我に返った時、自分のそういう反応が、ふと恐ろしくなる瞬間がある。  男でありながら、愛する男の子を孕みたいと願ってしまう、己の本能が怖いのだ。  もちろん、葵のことは愛おしいし、役に立ちたいと思っている。番という、唯一無二の存在になりたいと切望している。でもその先のことを考えると、どうにも足が竦んでしまう。  もし仮に蓮の許しを得ることができたとしたら、結糸は国城家の跡取りを産む存在となるということだ。  この国で最も栄え、人々に多くの豊かさをもたらし続けてきた国城家の血筋を継ぐ子どもを、産み出す存在にならねばらない。果たして自分にそんなことができるのかと、不安が高まる瞬間がある。  国城家が世間に及ぼす影響力を考えると、葵と両想いになれたという幸福感にだけふわふわと浸っていてはいけないような気がして、妙に気が急くのである。  ぐるぐると思考を巡らせることに疲れ、結糸は東屋のベンチに座ってため息をついた。そして水筒の水を飲み、一息つく。 「……はぁ……。ってか、そんなこと考えててもしょうがないけど。そもそも、蓮さまのお許しが出るかってことがまず難題なわけで、」 「へぇ……蓮さまのお許しって、何?」  不意に須能の声が聞こえてきて、結糸は仰天のあまり水筒を取り落とした。ステンレス製の水筒が東屋の床に転がり、中から水が流れ出す。  須能はどことなくどろりとした目つきで、じっと結糸を見つめている。普段とはまるで様子が違う須能に見据えられ、結糸はひどく落ち着かない気分になった。 「す、須能さま……。ど、どうしてこんなとこに」 「……昨日は一旦帰ったんやけど……どうしても葵くんと話がしたくなってな、日暮れ前に、ここへ戻ってきたんや」 「……え? じゃあ、昨晩からここに……?」 「そ。一応な、このお屋敷には僕の部屋が用意してあるやろ?」  着流しただけの白い浴衣と、濃灰色の羽織。足元は裸足に雪駄履きというくつろいだ格好だが、艶のある長い髪はやや乱れ、肌の色は蒼白だった。 「あの……どこか具合でも、悪いんですか?」 「具合、なぁ……良くはないかな」 「それなら、お部屋で寝ておられた方がいいんじゃ……」 「寝てられへんやろ。だって……あんなもん見せられたら、胸糞悪ぅて眠れへんわ」 「あ、あんなもんって……」  ぎろり、と須能が結糸を()めつけた。怨念の籠ったような鋭い目つきに、結糸は背筋が凍る思いがした。  須能はひたひたと結糸に迫り、ぐいっとその胸ぐらを掴んだ。思わずベンチの上で後ずさると、須能はさらに身を乗り出して結糸に迫り、そのまま結糸を押し倒した。  驚くほど強い力で襟首を締め上げられ、結糸は苦悶のあまり身をよじった。須能はそのまま結糸の上に馬乗りになり、乱れ髪の下で薄く笑った。 「昨日、葵くんと、部屋で何してたん? 仲よさそうにお手手繋いで」 「え……?」  ――まさか。昨日のこと、見られていたのか……!?   結糸は焦った。冷や汗が流れ、顔が強張る。  その表情の変化を肯定と捉えたのか、結糸の首を締め上げる須能の指に、さらに力がこもっていく。 「それで? カーテン閉めて、そのまま仲よう睦み合うたん? お世話がかりっていうのは、夜のお相手もするもんなんか?」 「ち、違います……!! 俺は、そんな、」 「葵くんはな、どこの馬の骨とも分からへんような下賤なベータが、おいそれと触れていいような存在とちゃう。……目ぇの見えへん葵くんに身体で迫るなんて、いやらしい子ぉやな……。いつから、そういう関係なんや」 「ちが、ちがう……!! 俺は……!」 「立場利用して葵くんに取り入ろうやなんて……ほんっま、許せへん。僕がこれまでどんな想いで生きてきたか……君に分かるか?」  ぐぐっ……と細く硬い指先が、結糸の首にめり込んでいく。気道を圧迫され、結糸は苦しみのあまり須能の手首に爪を立てた。それでも、須能は怯むことなく結糸を睨みつけながら、体重をかけて結糸の首を締めてくる。あまつさえ、唇に笑みを浮かべながら。  ――こ、この人、俺を殺す気なんじゃ……!!   直感的に危機を察知してしまえば、もうなりふり構ってはいられない。結糸はぐっと須能の手首を掴み、自分の方へぐいと引き寄せた。バランスを崩して倒れこみそうになった須能の手を掴んだまま、自分ごとベンチから転がり落ちる。すると一瞬にして形勢が逆転し、結糸は須能の上に倒れ臥す格好になった。 「痛っ……何すんねん!! この……」  須能はすぐに結糸の下から抜け出そうとしたが、ここでまた上を取られてしまうわけにはいかない。結糸は多少乱暴な手つきで須能の肩を床に押さえつけ、須能の腹の上に跨った。  しかし、須能の動きは俊敏だった。たおやかそうな見た目から繰り出されるとは思えないような機敏な動きで、素早く腰を突き上げたのだ。すると須能の腹の上に馬乗りになっていた結糸のバランスが崩れ、ぐらりと前につんのめる。  須能はすぐさま結糸の胸ぐらを掴んで自分の方へと引き寄せ、同時に結糸の脚に自らの脚をかけると、ぐるりと身体を横に返して結糸を再び組み伏せた。 「っ……」 「ふ……僕が、何もできひんただの踊り子やとでも思ってた?」 「は、離せよ!!」 「離せ、か。……君、誰に向かって口を利いたはんの?」  大きく乱れた着物の裾から、白い太ももがむき出しになっている。着衣の乱れなど気にする様子もなく、須能は顔に降りかかってくる長い髪をさっと片手でかき上げた。 「ふうん……こうしてようよう見てみたら、君もなかなか可愛(かあい)らしい顔してるやんか」 「ちょっ……何を……!!」  須能は、ゆるく開いた結糸のシャツの襟からするりと手を差し込み、首筋や鎖骨のあたりを指先で撫でた。庭仕事で火照った体に、須能の指先はひどく冷たく感じられ、ぞっとした。 「……へぇ、何、これ? 首筋に、いやらしい痣いっぱいつけて……。なるほどね、やっぱりそういうことしてはったんやね」 「……んっ……」  昨夜、葵は執拗に結糸の首筋に触れてきたものだった。がぶがぶと甘噛みされたり、きつく吸われたり、うつ伏せにされて舐め上げられたり……。そういう行動のひとつひとつが、早く結糸と番たいという葵の願いのように感じられ、とても愛おしい気持ちになったものだった。  葵の気持ちを行動で感じるたび、首筋にかかる吐息の熱さを感じるたび、結糸はひどく昂った。このまま犯し尽くしてくれたらいいのに、とさえ思った。  その愛撫の残滓を、須能に見られた。しかも須能は赤く残ったその痣に、ぐいと唇を押しつけてくる。そして葵の痕跡をなぞるように舌を這わせているのだ。  ねっとりと濡れた舌の感触に、結糸はぶるりと全身を震わせた。 「ァっ……な、なにすっ……ンっ……」 「へぇ……ええ声出すんやなぁ。ふふ……僕かて男や。ちょっと、ぞくぞくしましたえ?」 「さ、さわんな!! どけよ!! 俺から離れ、ァっ……!!」  次の瞬間、須能の歯が結糸の肩口に食い込んだ。あまりの痛みに結糸は悶絶し、須能の両腕を掴んで振りほどこうと激しくもがいた。しかし須能はぎりぎりと結糸を締め上げ、突き立てた牙を離す気配も見せない。獣じみた荒々しさで結糸の肩口に二度、三度と歯を立てて、結糸の股間の上で腰を揺らめかせる。 「ぁっ……!! ()ぅ……!! や、やめろ!! やめろよ……!!」 「生意気言いなや。薄汚い身体で、葵くんを絡め取りよって……許せへん……」 「あ、ぐぅ……!! 離せ……!! 離せよ!!」  声を張ろうとするも、締められた喉が痛み、思うように呼吸ができなかった。痛みのせいで思考が混乱し、結糸はじたばたと脚をばたつかせて須能から逃れようとしたが、マウントポジションを取られていては分が悪い。 「いやだ……!! 葵さま……葵さま……!」  苦しみのあまり、思わず口をついて出てきた葵の名に、須能がぴたりと動きを止めた。  ゆっくりと顔を上げた須能の唇は、べったりと結糸の血に濡れている。 「……ひ……」 「……もうええ。ほんまに犯したるわ、ここで」 「えっ……」 「気安く葵くんの名前を呼ぶな!! あの人は……僕の……!!」  須能が左手を振り上げた。  殴られることを予感し、結糸は固く目を閉じて、歯をきつく食いしばる。  しかし、いつまで経っても衝撃は降ってこない。  結糸は恐る恐る、目を開いた。  まばゆい太陽を背に、須能の手首を掴む葵の姿がそこにあった。  夜空を映すかのような紺碧色の美しい瞳に、燃え滾る怒りを湛えながら。

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