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第23話 パーティの支度

   そして、その一週間後。  今日は夕暮れ時から、葵の二十歳の誕生日と視力回復を祝うための盛大なパーティが開かれる。  使用人たちは朝から大忙しだ。  数百人に及ぶ招待客をもてなすため、数ヶ月前から着々と準備が進められてきた。招待客リストの作成、料理人の手配、屋敷の大広間(パーティールーム)と庭園の清掃及び装飾の支度、その他諸々の細々した準備……。執事長の勢田は、それら全てを把握し使用人たちを動かしていた。これまでもずっと、勢田のすぐそばで仕事をしてきた結糸だが、膨大なタスクをてきぱきとこなし、葵の社交界デビューの場を着々と形作ってゆく勢田の仕事っぷりには、ただただ目を丸くするばかりであった。  普段は大雑把で荒っぽい勢田であるが、こうして着々と確実にパーティの下準備が完成して行くさまを見ていると、勢田の有能さを感じずにはいられない。勢田は人を動かすのこともすこぶる上手く、トラブルが起こった際の対応も実にスマートだ。  ここで働き始めて一年と少し。これまで、結糸は葵の身の回りの世話にだけ心を砕けばそれでよかった。しかし、「いつか葵の秘書になる」という目標を胸に抱き始めている結糸にとって、こうしてバリバリ仕事をこなす勢田の姿からは、学ぶことがとても多いことに気づかされる。 「結糸、ここはもういいから。葵さまの支度、手伝って来いよ」 「あ、はい! 分かりました」 「パーティが始まったら、お前は極力裏方に徹しろよ。アルファがわんさかくるパーティだからな、うっかりオメガだと気づかれでもしたら厄介だ」 「わ、わかりました」 「あと、それが済んだらお前も軽くシャワーを浴びて着替えろ。正装だぞ、分かってるな」 「分かってますって」 「ほれ、もうのんびりしてらんねーぞ! 早く行け!」  勢田は肘上まで腕まくりをしたワイシャツと、黒いベストという格好だ。いつにも増して忙しそうな勢田にびしりと額を突かれ、結糸は渋い顔をして額をさすりつつ、さっと身を翻して葵の部屋へと向かう。  + 「葵さま、結糸です。入ってもよろしいですか?」 「ああ、どうぞ」  ドアを開いて部屋の中へ進み入ると、クロゼットの前の姿見の前で、身支度を整えている葵の後ろ姿が見えた。  肩と背中にフィットした細身のシャツ、そこに重なる光沢のあるベスト、そして形良く締まった尻から長い脚を覆う濃紺のスラックスを身につけた葵の後ろ姿を目にしただけで、結糸の心臓はドキドキと高鳴った。  普段の葵は、清潔感を漂わせつつも、学生らしいラフな雰囲気を漂わせるような衣服を着ることが多い。  しかし今日は、葵のために設えられた晴れの舞台だ。今葵が身につけているのは、この日のためにとフルオーダーされた濃紺のタキシード。生地の色は、葵の瞳の色に合わせて選ばれた、奥行きのある光沢を湛えた上品な濃紺。無駄のないシルエットが、葵の魅力をいかん無く引き立てている。  今はまだ、ジャケットもボウタイもしておらず、シャツとベストというだけの格好だ。しなやかな首のラインが引き立つ立て襟のシャツは、葵にとてもよく似合う。いつになく改まった衣服に身を包んだ葵の姿はあまりにも格好がよく、結糸は声をかけるのも忘れて、葵の立ち姿に見惚れてしまった。 「ん? どうしたんだ?」 「…………えっ?」 「ぼうっとして。もう時間か?」 「あっ……い、いえ、まだ大丈夫です! 着替えを手伝うことがあるかなって……」 「あぁ、じゃあ、カフスをつけてくれる?」 「は、はい! 喜んで!」  なぜか声が上ずっている結糸を見て、葵は小さく笑った。プラチナとダイアモンドでできたカフスボタンを葵のシャツにつけようとするのだが、なんだか緊張してしまい、なかなかうまくいかないのである。 「どうしたんだよ」 「え、いえ、あの……」 「ん?」 「葵さまが……あまりにも、かっこいいから……手が震えて」 「え? あはっ……はははっ」  軽やかに笑う葵を、真っ赤になりながら見上げてみる。  普段は無造作に放ってあるプラチナブロンドの短い髪も、今日はきちんと整えられていた。サイドはきちんと撫で付けて、前髪は軽く流してある。きりりとした形のいい双眸ときれいなアーチを描く眉、そして彫りの深い端正な顔立ちがいつにも増して麗しく見え、結糸はついついぽうっとなってしまった。 「そんな可愛いことを言われると、またお前にちょっかいを出したくなるんだけど」 「ちょっかいって……いや、そんな、こんなときに、あの、」 「冗談だよ」 「うぐ」 「ふふっ……普段のスキンシップじゃ、物足りないのか?」 「えっ!? い、いいえ!? そんなことないですけど!!」  葵の言葉に照れてしまい、結糸はかーっと真っ赤になった。葵は肩を揺すって楽しげに笑うと、身を屈めてちゅっと結糸の頬にキスをした。 「俺は物足りないけどな。いつだってお前に飢えてる」 「っ……な、何をおっしゃるんですか」 「好きだよ、結糸」 「う……」  葵のいたずらっぽいキスが、唇に降ってくる。結糸はうっかり興奮してしまいそうになるのを必死で抑え、ようやく葵の両手首にカフスボタンを装着した。 「か、からかわないでくださいよ! もう!」 「ははっ、ごめんごめん。あ、そうだ、お前に渡したいものがあるんだ」 「え?」  葵はクロゼットの傍らに置いてあるチェストに歩み寄り、一番上の引き出しを開けた。そしてそこから、黒いベルベット生地の貼られた細長い箱を取り出して、すっと結糸の方へと差し出す。 「……? 何ですか?」 「ずっと贈ろうと思ってたんだ。開けてみて」 「はい」  葵に手渡された箱を、結糸はそっと開いてみた。  その中には、黒革製のほっそりとしたチョーカーが収められている。チョーカーの両端には、凝った細工の施された銀色の金具。そして箱の隅の方には、小さな鍵が収まっている。これは、望まぬ形でアルファが番ってしまうことがないよう、オメガの首筋を守る首輪だ。 「あ……これ」 「お前を首輪でつなごうってわけじゃないんだけど、パーティには数百人のアルファが来るからな。念のために、これをつけておいて欲しいんだ」 「首飾り……俺のために?」 「そりゃそうだよ。結糸のことが心配なんだ。パーティの間は、俺は客の相手で忙しくなる。ずっとお前のそばにいるわけにもいかないから」 「わぁ、ありがとうございます……!」  葵からの、初めての贈り物。  葵からこれを送られるということ、それは、結糸が紛れもなく葵の所有物であることの証でもある。まだどんな形にも収まっていない二人の関係を、確固たる形で示すもののように思われ、結糸は喜びを噛み締めながら震える指でチョーカーを撫でた。 「嬉しいです。ありがとうございます」 「どういたしまして。……つけてもいいか?」 「あ、はい! ……でも、見えないかな」 「パーティの時はお前たちも正装だろ? 蝶ネクタイの下になるから、見えないはずだ」 「あ、そっか」 「もっとそばに来て、少し上を向いて」 「はい! お、お願いします……!」  結糸が自ら襟元を広げると、葵はケースからチョーカーをそっと取り上げ、結糸の首に巻きつけた。喉仏の下の方に触れる金具の微かな冷たさと、柔らかな革のひんやりとした感触が、なんだかとても愛おしいものに感じられた。  そして葵は、小さな鍵でチョーカーを施錠した。カチリ、という小さな音が聞こえてくる。金具同士がしっかりと繋がり合った感触が肌を通じて伝わって来ると同時に、葵の唇が結糸のそれにふわりと重なった。 「……ん……葵さま……?」 「番になれたら、こんなものは必要ないんだけどな」 「いえ……でも、嬉しいです。俺……」 「本当?」 「はい、すごく」  首飾りに触れていると、むず痒いような幸福感が結糸の身体を満たしていく。オメガの中には、この首輪を忌み嫌うものも多いと聞くが、結糸にとって、葵から与えられるものは何よりも特別なものなのだ。自然と溢れ出す笑顔を葵に向けると、葵は白い頬をほんのりと紅色に染めて、照れたように目をそらした。 「……今夜だけは、必ずフェロモン抑制剤を飲んでおくんだぞ」 「あ、はい! もちろんです」 「それと、絶対にパーティフロアには来るな。危ないから」 「あ、でも……。多少は助っ人に入るかもなんで……」 「だめだ。アルファの男たちは軟派なやつが多いからな。狼の群れの中に子兎を紛れ込ませるわけにはいかないよ」 「こうさぎ? 俺のことですか?」 「そうだよ。分かったか?」 「……はぁ、分かりました」 「よし」  結糸の返事を聞いて、葵は深く頷いた。しかし、白い指で結糸の襟元を正しながらも、まだ少し心配そうな顔をしている。盲目であった頃と比べて、葵はとても表情が豊かになったものだなぁと思いながら、結糸はじっと葵の美しい瞳を見上げていた。 「ん?」 「いえ……。あ、蓮さまとは、あれからお話しされたりしたんですか?」 「あぁ、うん。二、三度な。でも、家にいても兄さんは忙しそうでさ。打ち合わせだなんだとばたばたしてるから、話らしい話はできていないんだ」 「そう、ですか……」 「兄さんがパーティの主催者だしな。今回も俺のために忙しくしてくれているんだ、邪魔はできないよ。勢田といることは多いみたいだけど」 「あぁ、勢田さんがバリバリ仕切っておいでですもんね」 「そう。……俺にも何か手伝わせてくれたらいいのに」 「いえでも、今日は葵さまのお誕生日会ですもん。蓮さまもそりゃ、可愛い弟のために頑張っちゃうに決まってます!」  どことなく寂しげな葵を励まそうと、結糸はあえて軽い口調でそう言ってみた。すると葵はふっと小さく吹き出して、気の抜けたような軽い笑い声をあげた。 「可愛い弟、か。昔はもっと分かりやすく可愛がってもらってたんだけどなぁ」 「そうなんですか?」 「小さい頃は、だけどな。よく一緒に眠っていたし、風呂も一緒に入ってたし」 「わぁ……麗しいです」 と、結糸が素直に感動していると、葵はふと腕組みをして目を伏せた。そして、大真面目な口調でこんなことを言う。 「また一緒に風呂に入ってみようかな。そうすれば、じっくり俺の話も聞いてもらえるかも」 「お、おふろですか。蓮さまと……」 「のんびり風呂に浸かってる時間があるのかは分からないけど、それならお互い素直に腹を割れそうだし」 「はぁ……す、すごく、いいと思います。素敵です」  ついこの間、葵と濃密なバスタイムを過ごしたばかりの結糸は、葵の裸体とその時与えられた甘やかな愛撫を、ついつい思い出してしまう。  どきまぎしつつも、同時に蓮の裸体を想像しそうになった結糸は、不埒な妄想を振り払うように、大慌てで頭を振った。

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