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第24話 宴の始まり
そして空が暮れなずみ始めた頃、招待客が国城邸を訪れ始めた。
国城邸の大広間 は葵達が住まう私邸の裏手にある。そこには小高い丘と湖を抱く広大な芝生の庭がある。広間だけではなく、庭でも招待客たちが寛げるようになっており、座り心地のいいベンチや小さなテーブル、そして淡い光を放つランプなどが置かれている。
煌々と明かりの灯るきらびやかなパーティールームから庭を望めば、燃えるような緋色から、徐々に群青色へと染まりつつある空に一番星を見つけることができる。青々とした芝生のそこここに灯る、白いランプの明かり。静かに水をたたえた湖の中には、夜空のきらめきが映り込む。美しく着飾ったアルファの男女がゆったりと庭を散策する様子は、とても優雅な眺めである。
結糸は人の集まり始めた大広間の片隅でシャンパングラスの支度をしながら、そろそろ裏に引っ込むべきであろうかと考えていた。まだまだ人気もまばらな広間の中には、年齢層もさまざまなアルファの男女があちらこちらで談笑しているが、壁際に並べられたテーブルのそばでたちはたらく結糸を、気にかけるような人物は見られない。
――葵さまは意外と心配性だなぁ。
そんなことを考えつつ、結糸はそっと首元に触れた。きちんと一番上まで留めたシャツのボタンと、きゅっと締めたアスコットタイの下にある首輪の感触を感じるたび、どきどきと胸が高鳴る。気を緩めれば顔がにやけそうになるのをぐっとこらえて、結糸はしゃんと背筋を伸ばした。
「おばんどす」
「ぅわぁ!!」
突然背後から声をかけられ、結糸は仰天して飛び上がった。涙目になりながら振り返ると、そこには黒い着物と濃灰色の袴を身につけた、須能正巳が立っている。長い髪は高いところできつく結わえ、形のきれいな額をすっきりと出しており、須能はいつになく凛々しい表情に見えた。
「す、須能様……。こ、こんばんは」
自然と思い出されるのは、あの日のこと。自分を前にしてたじろいでいる結糸の姿を見つめる須能の表情は、どことなく翳りがあるように見える。
ひょっとして、また恨み言を言われるのではないかと思ったが、結糸はぐっと気を引き締めて、須能に正面から向き合った。
しかし、須能は頭を垂れ、小さな声でこう言った。
「この間は、すまんかった」
「……え?」
「その……噛み付いたりして」
「えっ……い、いえ!! もう全然大丈夫ですから、あの、頭を上げてください!」
「……ごめんな」
須能は申し訳なさそうな表情で顔を上げ、結糸をじっと見つめている。そして小さくため息をついた後、須能は結糸の腕を軽く引いて、庭の方へと導いた。
「須能様、あの……」
「正直、まだ君のことを許せてるわけじゃない。でも……葵くんが君を選んだんや。僕がどうこう言える立場でもないしな」
「……すみません」
「謝らんといて。僕にとっても、色々なことを考えるいい機会になった」
「色々なこと?」
「うん」
須能は懐手をして、すっかり群青色に染まった夜空を見上げた。形良く整った横顔を見つめつつ、結糸は、鬼気迫る表情で自分に迫った須能の姿を思い出していた。
「なんやかんやいうて、僕は今も葵くんが好きやと思う。でも今は、必死で葵くんとどうこなりたい、ならなあかんって、焦るような気持ちはなくなって……ちょっと、楽になったかな」
「……そうなんですか?」
「せやな、僕は焦ってたんや。上からも、はよう後継を作れってせっつかれてたしな。葵くんは僕につれなかったけど、目ぇが見えへん状態なんやったら、発情促進剤でも使 て無理矢理にでも迫れば、なんとかなるんちゃうかなって思ってた。なかなかに下衆な考え方やろ」
「……はぁ」
「でも、葵くんは視力なんかなくても、ちゃんと自分の相手を匂いで嗅ぎ分けてたんやな。最初 っからあかんかったのに、僕はいつまでも希望が捨てられへんくって、ズルズル葵くんのことを追いかけてた」
「……はい」
「ま、踏ん切りついたし、当分パートナーだの跡継ぎだの、そういう問題のことは考えんことにするわ。もう疲れてん、そういう話」
「そうです、よね」
「しばらくは、踊りの方を突き詰めたいと思ってる。僕、こう見えて弟子もぎょうさんおるからな。お弟子さんのこともきちんと考えてあげなあかんし」
須能はそう言って、初めて結糸に微笑みかけた。そのたおやかで雅やかな須能の笑顔は美しく、結糸はついつい目線を奪われてしまっていた。
「そういうわけやし。君らのことは応援したる。おんなじオメガなんや、なんでも相談し」
「あ……はい! ありがとうございます!!」
「もう、変な薬の飲み方してへんやろうな」
「はい、もうしてません。でも、今日はフェロモン抑制剤を飲むようにと言われていて」
「そらそうやろうな。僕も今日はきついの飲んでるし」
「そうですよね」
「そ。アルファの前で踊るんや。ぷんぷんフェロモンまき散らしてたら、このパーティが成り立たへんくなるからな」
「あ、そっか」
「フェロモンじゃなくて、踊りでアルファを酔わせるくらいじゃないと、須能流の家元なんて名乗れへんしね」
「うわ……須能様、今の、かっこいいです」
どこか遠くを見つめながら、堂々とした口調でそう語る須能の姿を、結糸は心底かっこいいと思った。須能は少し驚いたような顔で結糸を見つめ、白い歯をこぼして笑った。
「ははっ、なんやそれ。気ぃぬけるわ」
「え? あ、すみません……」
「ちゃうちゃう、褒めてんの。君は素直な子なんやろうな。僕みたいに、性根がねじ曲がったオメガには育ってないみたいやね」
「い、いえいえ! 須能様が過ごしてこられた環境と俺の貧乏暮らしじゃ、全然違いますし……」
「まぁね。どこで生きていても、オメガの人生には苦労がつきまとうもんや。けど、君は晴れて葵くんの番になれたなら、生活も一変しそうやけどな」
「はぁ……そうでしょうか」
「ま、よろしいやん。あの国城葵を独り占めできるんやで? どんな苦労も全て飲み込む覚悟で生きることや」
「は、はい!」
ばし、と背中を叩かれて、結糸はぴんと背筋を伸ばした。須能はすっと大広間の方へと目をやって、ぽんと結糸の肩を叩いた。
「見てみ、葵くんがきてる」
「あ……」
振り返って見てみれば、蓮とともに、葵もフロアに出てきていた。
きっちりとジャケットを着込み、蓮とともに客をもてなす葵の姿が、結糸の目に飛び込んでくる。すらりと背の高い葵の姿は、華やかなパーティーの場においても素晴らしくきらめいていて、否応無しに結糸の目を引いた。
着丈の短い紺碧色のジャケットを着込み、襟元にはごくごく淡いブルーのボウタイを絞めている。ああして盛装している葵は素晴らしく華やかで、まばゆいばかりのオーラを放っていた。さっき結糸と過ごしていた時とは打って変わって表情が引き締まり、愛想よく微笑みを浮かべる立ち姿は、誰よりも艶やかだ。
隣に並ぶ蓮は、シックな黒いタキシード姿。弟の誕生日を祝うパーティのホストらしく、控えめないでたちである。微笑みを浮かべながら葵を紹介する表情は、とても誇らしげだった。
蓮も葵も、どちらかというと大人しめな出で立ちだ。それでも、国城兄弟の美貌は他のアルファとは比べ物にならないほどに抜きん出ているため、どんな色の衣装を身に纏っていても、二人は圧倒的な存在感を放っていた。
――あんな人が、俺の番に……? 俺、本当に大丈夫かな……。
葵の周りには、あっという間に人垣が出来上がり、葵はその中心で愛想を振りまいている。そんな葵の姿を遠くに見つめるにつけ、結糸の心の片隅で、またうじうじと不安の虫が騒ぎ出す。須能に励まされたばかりだというのに情けないことだと、結糸は大きく深呼吸して首を振った。
「おう、結糸くん。今日は一段とキマってるな」
その時、庭の方から御門陽仁がやって来た。御門もビシっと黒のタキシードで盛装し、きっちりと黒髪を整えている。結糸はすぐに軽く腰を折って一礼する。
「ありがとうございます。御門様も、とても華やいでおいでで」
「そうか? ありがとうな。ん?」
「こちらは須能様です。日本舞踊須能流の家元を務めておられるんですよ」
「へぇ〜、若いのにすごいな」
「どうも、初めまして」
須能と御門は軽く握手を交わしつつも、互いを観察するような目つきをしていた。結糸は「ひょっとしてこの二人が恋に落ちたりしないだろうか」と思いつき、ドキドキしながら二人を見比べていた。が、二人はさほど互いに関心を抱き合う風でもなくあっさりと手を離した。結糸は拍子抜けした。
「君はオメガか。なるほど、もてそうだな」
「そら、どうも。御門さんかて、ええ感じにアルファアルファしてはって、モテそうですやん」
「いや……俺もたまに、自分がオメガだったらよかったのになぁと思うことがあるよ」
「へぇ? そうなんですか?」
御門と須能がのんびりとおしゃべりを始めたところを見計らい、結糸はそっと自分の仕事に戻ることにした。
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