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第25話 侮蔑の言葉

 やがて空は鮮やかな藍色に染まり、天にはしとやかにきらめく小さな星々が現れ始める頃には、ほぼ全員の招待客が勢ぞろいしていた。この国を動かす各界のアルファたちが一堂に集う、素晴らしく盛大な宴の始まりである。  広々とした庭の一角で奏じられる管弦楽の音色が、パーティに華やかな彩りを添えている。磨き上げられたシャンパングラスを片手に、招待客らが談笑する中、結糸は気配を消しつつ、壁際のテーブルに置かれた空のグラスや、ビュッフェの小皿を回収する役周りを務めていた。手早く食器を集め、急ぎ足でバックヤードへ戻る。その繰り返しだ。  そうして立ち働きつつも、やはり気になるのは葵のことだ。葵は蓮に連れられて、あちらこちらで名刺を受け取ったり軽い会話を交わしたりと、とても忙しそうだった。パーティの前に葵が言っていたように、これでは確かに、葵には結糸のことを気にかけている余裕などないだろう。  これまで表舞台に出てくることのなかった葵の姿を一目見ようと、たくさんのアルファがここにいる。  才気に溢れ、カリスマ性に富む美貌のアルファ、国城蓮。その弟というだけで、世間からの注目度は高く、注がれる期待はかなりなものだっただろう。  そして葵の静謐な美貌と知的な雰囲気は、世間の期待を裏切らなかった。葵の存在は、もれなく招待客たちを酔わせている。誰しもが葵と目線を交わすだけでうっとりと微笑み、言葉を交わせば彼の知性の深さを知る。  パーティが始まって数十分。あっという間に、葵はその玲瓏たる存在感を社交界に示すことに成功しているように見えた。  一方、葵の姿を遠くから見ている自分は、下働きをしているだけのただの使用人。結糸は時間が進むごとに重く募ってゆく不安と焦燥感に、悩まされずにはいられなかった。  ――しっかりしろ。こんな気持ちでいたら、葵さまに失礼だ。  必死で自分を鼓舞するも、今結糸にできることといえば、裏方で皿を洗うくらいのものである。袖をまくった腕に飛び散る水が、妙に冷たいものに感じられて、ついさっき、首飾りを送られて舞い上がっていた自分が、急に道化じみたものにさえ思えてくる。  ――だめだ、こんなんじゃ……。俺、いつからこんな情けないやつになったんだろう……。 「結糸ー。グラスの回収と補充、お願いするわ〜」 「……え? あ、はい!」  キッチンの奥の方から声がかかり、結糸はハッとして顔を上げた。そしていそいそと袖を下ろしてジャケットを羽織り、小さな鏡の前で身支度を整える。鏡の中に映る自分の顔を見て、結糸は若干ぎょっとした。目つきも表情も暗く翳っていて、恐ろしいほどに精彩を欠いている。今日は葵の社交界デビューという華々しい催しだというのに、この顔はなんだ! と、結糸は自分の両頰をバシバシと叩いた。 「うっし!!」 「ん? なんの気合いだ」 「いえ別に! 行ってきます!」  洗い場のそばにいた料理長に向かってやたら威勢良くそう言い放ち、結糸は背筋を伸ばしてキッチンを出た。  + 「見ろよ、オメガがいる」  大広間でいそいそとグラスを回収していると、ふと、男の声が聞こえてきた。  弾かれたように振り返ると、少し離れた場所に立つタキシード姿の男が二人。どちらも年齢は三十路手前、というところだろうか。結糸はてっきり自分のことを言われているのではと思っていたが、彼らの目線の先にいるのは須能だった。護衛だろうか、須能は黒い着物姿の大柄な男を二人引き連れ、愛想のいい笑みを浮かべながら壮年の男女らと言葉を交わしている。 「あぁ〜、日舞の家元だろ。男だけど、美人だよな」 「エロいよなぁ、あの男。もう番ってる相手いんのかな」 「さぁ、どうだろうな。でも、須能家は代々優秀なアルファを選り好みしてるっていうじゃないか。俺たちなんか、相手にされるわけないよ。どうせ今日も、蓮様と葵様のご機嫌取りだろ」 「ふーん……。ただの踊り子のくせに、生意気なこった」  逃げるようにその場を立ち去りかけていた結糸の耳に、憎々しげな台詞が飛び込んでくる。結糸は、大広間を一歩出たところで、ぴたりと立ち止まった。  どうやら二人の男は酔っているようだが、須能のこれまでの苦労を知る結糸にとって、その台詞はあまりにも許しがたい言葉だった。 「オメガはのんびりアルファに孕まされてりゃいいのにな。大した仕事もできねーくせに、国に保護されてるだかなんだか知らねーけど、権利だけはしっかり主張しやがる」 「まー、それはそうだよなぁ」 「発情するのが仕事だろ? ああいうさ、偉そうにスカした面したオメガ見てると……あー……ほんっと、胸糞悪いわ」  ざわ……と腹の中を無遠慮に撫で回されるような、おぞましい気分になった。  結糸は震える手でグラスを盆に載せながら、湧き上がる吐き気をなんとか堪える。  オメガとして生まれてしまったがゆえの苦悩がどのようなものか、この男たちは考えることもないのだろう。  国城家という名家で働き、葵という優しい主人に仕えるうちに忘れていたが、この男たちが語るオメガへの身勝手な見解こそが、この国に根強く残るオメガ蔑視の大意なのだ。  自分の身体が変わってゆくことへの嫌悪感。抗いがたい発情時の衝動。  自分の肉体も、意志も、運命でさえも、コントロールできなくなってしまうことへの、喪失感。  この男たちは、知ろうともしないのだろう。  この言いようのない生きにくさと、理不尽に侮蔑の対象となる、この哀しみを。 「あっ……」  廊下に置いておいた銀色のワゴンに盆を置こうとした拍子に手が震え、グラスの一つがぐらりと揺れた。とっさに手を伸ばしたが、ぐらついたシャンパングラスの一つが大きく傾き、結糸の手をすり抜けて転がり落ちてゆく。ひやりとした時にはもう遅く、華奢なデザインのグラスが廊下の大理石の上に落下し、パリンと乾いた音を立てた。  落とした場所が廊下でよかったと思いつつも、結糸は慌てた。急いでその場を片付けなければと思い床に膝をつくと、さっきのアルファの男たちが結糸の方へと近づいてくる。 「あらあらあら、割っちゃったんだ。片付け、手伝おうか?」 「い、いえ。大丈夫です。失礼いたしました」  結糸のそばに膝をついた男の吐息からは、かなり濃いアルコールの匂いがした。とろんとした目で結糸を見つめるアルファの男の容姿はさすがのように整ってはいるが、どことなく、その目つきの奥には卑屈さがちらついているように感じられた。  黙って破片を拾っていると、もう一人の男も、結糸の前に大股を開いてしゃがみこんだ。さっきから、オメガを侮蔑する発言を特に強く口にしていた方の男である。  仕立てのいいチャコールグレーのタキシードを身につけたこの男も、容姿だけはすこぶる甘い。細い唇にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべたこの男に、結糸は嫌悪感を感じずにはいられなかった。男は無遠慮な目つきでしげしげと結糸を覗き込みながら、嘲るような口ぶりでこんなことを言う。 「へぇ〜、国城家のお屋敷ではこんな若い子まで働かせてんだな。しかもかーわいい」 「おいおい、やめとけよ。下働きとはいえ、国城家の使用人だぞ」 「いいだろちょっとくらい。ねぇ、君いくつ? 酒は飲めるのか?」 「ぼ、僕は仕事があるので失礼いたします」 「ちょっと待ちなよ。よく見ると、本当に可愛いね。十六、七ってとこか。ベータにもこんな上玉がいるんだな」 「あのっ……」  大まかな片付けを終え、ワゴンを押してその場を去ろうとしたが、男はすっと結糸の手を掴んで動きを阻む。いかにも好色そうな目尻の垂れた大きな目が、ずいっと結糸に迫ってくる。男は、中身の入ったシャンパングラスを軽く掲げて、ねっとりと微笑んだ。 「俺たちと、飲まない? ちょっとくらいいいだろ?」 「い、いえ! 俺はまだ未成年ですし仕事が、」 「まぁそうつれないこと言うなよ。ほら……こっちにおいで」 「ちょ……っ、やめてください!」  結糸の意思など御構い無しに、ぐいと肩を抱かれてワゴンから引き剥がされる。酒と香水の混じったきつい匂いに包み込まれ、いいようのない嫌悪感が結糸の肌を粟立たせた。  拒絶感に全身を染められ、結糸は無意識に、その男の腕を荒々しく振り払っていた。  垂れ目の男の表情が、途端に酷薄なものとなる。目からは甘い光が失せ、小さく舌打ちをする口元からは笑みが消えた。結糸はゾッとして、すぐさまそこから逃げ出そうとした。  しかし、男は大きな手でガシっと結糸の腕を掴んで引き寄せる。そしてものすごい力で結糸の腕を掴み上げながら、アルコール臭い吐息を結糸の顔に吐きかけた。 「……ベータのガキが、いきがりやがる」 「や、やめてください……!!」 「おいおい、やめとけって。怖がってんだろ〜」 「うるせぇ! こんな、いかにも力の差を見せつけてあげます〜みたいなパーティに呼ばれるだけでも胸糞悪いっていうのに、下働きにまでコケにされたら収まりつかねぇだろうが」 「まぁね、国城家からの招待を断れるわけないからなぁ」 「ちょうどいいから、ちょっと来いよ。君が素直に俺を慰めてくれるってんなら、俺はこれ以上怒ったりしないよ?」 「え……っ!? い、いやです!! なんで俺が、そんなっ……!!」 「暴れんじゃねぇよ。大騒ぎして、パーティを台無しにしたいのか? 国城家の大事な秘蔵っ子の葵さまの、楽しい楽しいお誕生日パーティだろ?」 「っ……」  男の口調には、明らかに葵までもを侮辱する響きがあった。  おぞましさと嫌悪感、そして恐怖を塗り替えるほどの怒りが、結糸の全身を支配する。  結糸は震える拳を握りしめ、腕をねじり上げられながらもキッと男を睨み上げる。 「……ふざけるな」 「あ? なんだ?」 「お前らなんかが葵さまと同じアルファだなんてありえねぇよ!! クソ野郎!!」 「っ……。へぇ〜〜、威勢がいいんだな。かーわいい」  男のこめかみに、びきびきと青筋が浮かぶ。怒りを押し殺して唇を歪め、笑ったような表情を作っているが、それが逆にひどく不気味だ。  もう一人の男も、最後の結糸の台詞にはかちんときたらしい。スラックスのポケットに手を突っ込み、垂れ目の男と同じように卑しい笑みを浮かべながら、ぐっと結糸に顔を近づけてくる。 「なるほどね、さすがはお高く止まった国城家だ。下々の者にまでしっかり躾が行き届いてるってことか」 「……ち、近づくんじゃねーよ!! 離せ!!」 「大した抵抗もできないくせに、生意気な口をきいて……バカなガキだな。どこでヤる?」 「おっ、お前も乗り気になったのか? いいねいいね、とりあえず、外に連れて行こうぜ。無駄に広い庭だ、その辺の植え込みにでも押し込めれば見えやしねーだろ」 「そうだな」 「っ……離せよ……!! 誰か、誰かっ……っぐ」 「うるさいガキだ。これでも飲んで気持ちよくなってみろ」  そう言うやいなや、垂れ目の男はぐいっと結糸の頬を掴んで顔を上げさせ、無理矢理に口を開かせた。そして結糸の口内に、金色のシャンパンを流し込んでくる。そしてすぐに口を手で塞がれて、結糸はごくりとそれを飲み下してしまった。 「っ……んぅっ……! 何すんだよ……っ!!」 「美味いだろ? ふふっ……真っ赤になっちゃって」 「ほら、裏へ行こーぜ」 「やめろっ!! 離せよクソっ……!!」 「暴れろ暴れろ。俺たちは普段から鍛えてるんだ。ベータのガキがいくら暴れても意味ねぇよ」  両側から腕を掴まれる。結糸はじたばたと暴れるが、男たちの言葉は嘘ではないらしく、もがいてももがいてもビクともしない。ずるずると引きずられるように廊下の出窓から外に連れ出され、ひんやりとした空気が結糸の焦りをさらに煽った。  ――くそっ……!! でも、これだけのパーティだ、大声出せば、どこかで仕事してる誰かに見つけてもらえるはず……!!  パーティ会場から少し離れたのを見計らい、結糸は大声を上げようと深く息を吸い込んだ。  その時、ドクン……!! と心臓が大きく震え、血が沸き立つように、全身が熱くなった。  身に覚えのある感覚に、結糸は震えた。  ――な、なんだこれ……!? まさか……いや、まさかな。そんなはずない、ヒートはもう少し先のはず……。 「……はぁっ……はぁ……っ……ぁ、あっ……」 「……ん? ガキの様子が変だぞ」 「え? なんだ? あれっぽっちで飲み過ぎか?」 「ん? この匂い……酒じゃねぇな」  ――酒……? ひょっとして、抑制剤を飲んでるのに酒を飲まされたから……!? だって、おかしい……こんなの、へんだ。  垂れ目の男の方が、鼻をひくつかせる。そして、欲の滲んだ瞳を小さく見開き、結糸の襟元をぐっと掴んだ。そして、ブチブチっとタイとボタンを引きちぎり、結糸の細い首を飾るチョーカーを露わにする。 「このガキ……オメガだ!」 「オメガだと? ……しかも、発情してやがる」 「はなせ……っ……はなせよぉ……っ……!! だれか、だれかぁっ……んぐ……っ!!」  口を手で塞がれて、ひょいと男に担ぎ上げられる。結糸は必死で藻搔いたが、男たちはますます脚を速め、人気のない裏庭の方へと進んで行く。 「……へぇ、下働きに希少種のオメガを使うなんて、国城家はどこまでも特別ってことか。へへっ……いいね、こりゃ楽しめそうだ」  男たちの目が、ぎらぎらと卑しく光った。

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