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第26話 激昂
結糸は抗うこともできぬまま、裏庭にぽつんと佇む倉庫の中に引きずり込まれた。
華やかにパーティが催されている表の庭とは違い、ここにはまるで人気はなく、埃をかぶった道具類やたくさんの薪がうずたかく積まれているような場所である。
「はなせ……!! はなせよ!!」
「発情してんだろうが。俺たちが宥めてやるから感謝しろよ」
「してない!! 発情なんて……!!」
「うそつけ。エロいフェロモン撒き散らしながら、何言ってやがんだ。大人しくしろ!!」
「あぅっ!」
どん、と床に突き飛ばされ、結糸は収まらぬ動悸に呼吸を乱しながら男たちを見上げた。この肉体的な高揚は発情時のものに似ているが、いつぞや葵の前でヒートを起こしてしまった時の状況とは、何かが違う。
あの時は、脳みそまで溶けてしまったのではないかと錯覚するほどに、身体の中が熱かった。肌という肌が快楽を拾ってしまうかのように過敏になり、肉体も思考もぐしゃぐしゃに乱れ、制御できないほどの性的な高ぶりを覚えたものだった。
でも今は、身体の方はひどく熱いが、頭の方はひどく醒めているような状態だと感じている。身体は火照り呼吸は乱れ、足元がふらつくような高揚感はあるものの、男たちを嫌悪する感情やこの状況に焦る気持ちは強まるばかり。
アルファの二人の目つきはさっきよりもずっと獣じみていて、明らかにオメガフェロモンに影響を受けている様子がうかがえる。しかし自分では、フェロモンを発しているのかいないのかはよく分からないのだ。
男たちは埃っぽい床の上に結糸を押さえつけ、荒々しく結糸のシャツを引き裂いた。ボタンが飛び、胸元がはだけ、結糸の艶めいた肌が闇の中にぼんやりと浮かび上がる。両腕を押さえられた状態で身体をよじると、垂れ目の男が結糸の脚の間に割って入ってきた。そしてねっとりとした笑みを浮かべつつ、結糸の下腹のあたりをいやらしく撫で回す。
「あれ? 泣きそうじゃないか。さっきまでの威勢の良さはどこへ行ったんだ?」
「はなせ!! お前らなんかに、俺は……っ!!」
「うるせぇな。おい、口塞いでろ」
「はいはい。さっさとヤってすぐに替われよな。……しかし、こんなガキのくせに、しっかりアルファを誘うなんて……。くくっ、オメガってのは本当に浅ましい生き物だよな」
「んぐっ……ん!! んーんんーー!!」
大きな手で口を塞がれ、垂れ目の男の手が結糸のベルトにかかる。結糸の目からは涙が流れ、おぞましさのあまり吐き気がするのに、身体はまるで思うようには動いてくれなかった。
――葵さま……!! ごめんなさい、葵さま……!! 俺、こんな奴らに……っ……!!
硬く閉じた瞼の裏に、葵の優しい笑顔が浮かんでは消える。溢れ出す涙が結糸のこめかみを濡らしたその時、腹の上に感じていた男の体重がふっと消えた。
同時に、骨と肉がぶつかり合う鈍い音が、暗い倉庫の中に響き渡った。
「……へ……」
腕を押さえていた男の手が離れ、両手が自由になった。結糸は男から逃れるために急いで起き上がり、若干の目眩と吐き気を堪えつつ両手をついて、音のする方へ目をやった。
「あ……葵さま……!?」
開かれたドアから差し込む星明かりを受け、浮かび上がるシルエット。
そこにいるのは、葵だった。
葵が、垂れ目の男を結糸から引き剥がし、固めた拳で殴り飛ばしたのだ。それだけではない、頰を押さえてうずくまる男の胸ぐらを荒々しく掴み上げ、二度、三度と激しく男の顔を殴打している。
骨が砕けるような音と、垂れ目の男のくぐもった悲鳴。聞いたこともないような荒んだ音に、結糸は身を竦ませた。
ついに倒れ伏して動かなくなった男の襟首を掴み上げ、葵はさらに拳を振り上げる。その動きを見た結糸はハッとして、思わず声を上げていた。
「葵さま!! やめて……!!」
ぴた、と葵の手が止まる。ゆっくりと結糸の方を見る紺碧色の瞳は、なぜだか金色に光り輝いているようにも見えた。
葵の瞳からは理性が消え失せ、激しい怒りと攻撃性がぎらぎらと燃え滾っている。初めて目の当たりにする葵の野生的な一面に、結糸はごくりと息を飲んだ。
「……何で止めるんだ。お前を、こんな目に遭わせたやつだぞ」
「葵さまに人を傷つけて欲しくないんです!! あなたは、誰よりも優しい人なんだ!! だからこんなこと、してほしくない……!!」
「俺は結糸を傷つける人間を、絶対に許さない」
「や、やめてください!! やめて、葵さま……!!」
結糸の言葉などおかまいなしに拳を振り下ろす葵の姿には、鬼気迫るものがあった。結糸はふらつく身体に鞭打って立ち上がると、男を殴りつける葵の背中に飛びついた。
タキシード越しだというのに、身体はひどく熱い。そして同時に、凍りつくような激しい怒気が、葵の身体を微かに震わせている。結糸は必死で葵の背中にすがりつき、ただひたすらに「もういいんです!! やめてください!! 葵さま!! やめて!!」と訴え続けた。
やがて、男が完全に意識を失った。そうしてようやく、葵の身体からも力が抜け始める。
どさりと床に転がった男を見るや、もう一人のアルファの男は、悲鳴をあげながらその場を転がり出て行こうとした。
しかし、その男はそれ以上先へは逃げられなかった。
「何の騒ぎだ」
蓮と勢田、そして黒服の屈強な男が二人、倉庫の外に立っている。
結糸を襲い、その場から逃げようとした男は、蓮を見上げてわなわなと唇を震わせた。蓮はどこまでも冷徹な瞳で男を見下ろし、煩わしげにため息をついた。そして、硬い声でこう言った。
「今日という日に泥を塗ったお前たちのことを、僕は決して許さない。勢田、こいつらを連れて行け」
「はい」
「あっ……あの!! 俺は!! ただ、巻き込まれただけで……!! あの、話を……!!」
「うるさいぞ、目障りだ。黙ってさっさとここから立ち去れ」
「そんなっ……蓮さま……!! あの、これは……違うんです……!!」
黒服と勢田に引きずられて行く、アルファの男たち。
結糸は葵の背中にしがみついたまま、呆然とその光景を見送っていた。
そして訪れる静寂。
蓮の気配と視線が、結糸の全身を強張らせた。
結糸は恐る恐る、ゆっくりと葵の背中から腕を緩める。すると葵はすぐにこちらを向いて、結糸を強く強く抱きしめた。
「結糸……ごめん、気づくのが遅くなって、ごめん……!」
「あ、葵さま……そんな、なんで葵さまが謝るんですか」
「ごめん……こんな目に遭わせることになるなんて。片時でもそばを離れるべきじゃなかった。俺がもっと早く、兄さんにお前のことを話していたら……!」
「あ……」
恐怖を体験していたのは結糸であるが、まるで葵が結糸に縋っているようにも感じられ、結糸は思わず葵を抱きしめ返したくなった。
しかし、今、ここには蓮がいる。
蓮の目線が、突き刺さるようだ。
やがて重たいため息とともに、蓮が低い声でこう言った。
「……こっちに来い、葵」
ぴく、と葵の肩が揺れる。
葵はゆっくりと結糸から身を離し、蓮に威圧されて身を震わせている結糸をじっと見つめた。
葵はするりとタキシードの上着を脱ぐと、それを結糸の肩にそっと羽織らせる。葵の温もりに包み込まれ、結糸はようやく少しだけほっとした。
しかし、こんな形で蓮に関係性が露見してしまったことへの罪悪感や、押しつぶされそうなほどの重たい不安は、結糸の表情をあいも変わらず硬くしたままであった。
葵に添われ、結糸は恐る恐る蓮の前に姿を現す。
男たちに引き裂かれ、すっかり露わになってしまった首元を見た蓮の目が、わずかに見開かれる。
「その首輪……」
「これは俺が贈ったものだ。俺は、結糸と番いたいと思ってる」
葵の静かな声に、蓮の表情が凍りつく。
「……番う、だと!? どういうことだ、お前はオメガだったのか!? 何のためにこの家に潜り込んできた!?」
「あ、あの……!! あの、すみませんでした……!!」
いたたまれなくなった結糸は、その場で直角に腰を折った。怒りを露わにして結糸を責める蓮のことが恐ろしくて恐ろしくてたまらず、自分でも何について謝まっているのかよく分からない。
葵の社交界デビューの場を騒がせてしまったことへの謝罪なのか、性を偽っていたことに対する謝罪なのか、葵と密かに絆を温めていたことへの謝罪なのか……いや、その全てのことに対してなのかもしれない。結糸はただただ「ごめんなさい!! 本当に、申しわけありませんでした……!!」と謝り続けることしかできなかった。
「結糸、やめてくれ。頭を上げて」
「葵さま……、蓮さま……!! ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
「……今すぐ出て行け」
蓮の凍りつくような声に、結糸はびくっと身体を強張らせた。のろのろと顔を上げると、蓮は研ぎ澄まされた美貌に燃えるような怒りの表情を湛え、きつい眼差しで結糸のことを見据えている。
「……え……」
「兄さん! ちゃんと話を聞いてくれ! いきなりそれはないだろう!」
「ふざけるな!! 葵、お前はどこまで身勝手なんだ!! 僕がここまで築き上げてきたものを、こんな……!!」
きっと鋭い目で見据えられ、結糸は思わず息を止めた。ぐらぐらと憤怒に揺れる翡翠色の双眸に射抜かれてしまえば、結糸は恐ろしさのあまりふらついてしまいそうだった。
「こんな、どこの誰とも分からないようなオメガを、お前の番にだと!? いいか葵!! お前は何も分かっていない!! これまで僕が、どれだけ必死になってお前を守ってきたか、まだ分からないのか!?」
「……分かってる。分かってるよ! でも、」
「国城家の繁栄を妬む者はたくさんいるんだ!! いつだってそうだ、僕らを陥れようとするやつらはごまんといる。だからこそ、お前に近づく人間には目を光らせてきた! 純粋なお前が、悪意を持った誰かに騙されることのないようにな!」
「悪意? 結糸に悪意なんてあるわけないだろう!! ちゃんと話をさせてくれ! どうしていつも頭ごなしに否定するんだ!!」
「僕はお前を守りたいんだ!! どうして分からない!! ……お前の目が見えなくなったぶん、僕は見たくないものをたくさん見てきたんだぞ!? 父と、母のことも……」
「……父さんと母さん? え? 病死……したんだよな?」
葵の表情がに、わかに強張る。
そんな弟の表情を見て、蓮ははっとしたように目を瞬いた。そして、流麗な目元に後悔の色を浮かべながら、蓮は抑えた声でこう言った。
「病気なもんか。あれは、事故に見せかけられた殺人だった。……犯人は、父さんの親友だ」
「……え……?」
「そういうことさ。……葵、お前はまず、人を疑うことを覚えるんだ。僕たちに近づく者は誰しもが、何かしら悪意を抱えているかもしれないのだと。……その下働きのオメガも、何か思惑があってお前に近づいたのかもしれないだろう」
「……違う!!」
「どうして違うと言い切れる。性を偽ってまで、その少年はお前に近づいたんだぞ? その理由を考えたことは?」
「結糸は、オメガとしての性を受け入れられなかっただけだ! 悪意があってベータと偽ったわけじゃない! 家族のために、働き口が必要で、」
「なら、そのご家族とやらのために必要な金は、すべてこちらで支払おう。……だから、さっさと葵の前から消えろ!!」
「っ……」
――葵さまのそばを離れる? もう会えなくなる? そんな……そんなの、絶対に嫌だ。嫌だ、そんな……。
傍に葵のいない人生など、もはや考えられない。結糸は震えながらも葵のジャケットをぐっと握りしめ、まっすぐに蓮を見据えた。
「いやです……!! 俺、俺は……、葵さまを愛しています!! 葵さまのおそばにいさせてください……!!」
「愛、だと? くだらない」
「番にしてくださいとは言いません!! 俺はただ、葵さまのそばにいたいだけなんです!! お願いします!! 俺はもう……葵さまがいないと……生きていけない……」
最後の方はもう、涙声だった。一度にいろんなことが起こりすぎて、頭のなかは混乱を極めている。
こんな陳腐な訴えで蓮の心が動くとは思えない。が、結糸にできることはこれだけだ。ただ、葵への想いを蓮に訴えることだけ。企みをもって葵に近づいたわけではないことを。
ぎゅっと力強く肩を抱かれ、結糸は葵の横顔を見上げた。葵は夜空を溶かし込んだかのような美しい瞳をまっすぐに兄へと向け、熱のこもった声で強く訴えた。
「兄さん、お願いだ! 俺たちのことを許してほしい。どんなことでもする、だから、」
「駄目だ。許せない」
蓮は断固とした口調でそう言い放つと、ゆっくりと首を振って、結糸と葵を見比べた。
「どんな事情があるにせよ、偽りは罪だ。僕は、お前たちのことを許すわけにはいかない。さっさと荷物をまとめるんだ」
「……そんな……」
全身から、力が抜けてしまいそうだった。思わずその場にへたり込みそうになる結糸の身体を、葵はしっかりと抱きとめた。
葵は、深く深く息を吐いた。
そして毅然たる眼差しを蓮の方へと向け、はっきりとした口調でこう言った。
「結糸の偽りを責める資格が、兄さんにあるのか?」
「なんだと?」
葵が蓮に対して何を言おうとしているのか、結糸には全く分からなかった。結糸は涙を拭って、そっと蓮を見上げてみる。気のせいだろうか、蓮の瞳が、僅かに揺らいだように見えた。
「……兄さんも、オメガなんだろう?」
葵の粛然とした声に、結糸は耳を疑った。
◇次話より、再び葵目線です。どうぞよろしくお願いいたします。
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