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第27話 蓮の匂い

  「にいさま、いいにおい……」 「そう? 葵の方が、いい匂いだよ?」 「……いいにおい……。ぼく、にいさまのにおい、だいすきだよ」 「そう? ありがとう、葵。葵が眠るまで、僕はここにいるからね」  幼い頃、葵は兄の匂いがとても好きだった。  特に蓮の香りを強く感じることができるのは、ふたりでもぐるベッドの中。葵が「さみしい」と訴えれば、蓮はいつでも葵の手を握りしめ、頭を撫でながら眠りへと導いてくれた。  視覚を失ってからまだ日が浅かったこともあり、夜を一人で過ごすのが怖かった。  葵が感じることができるのは、薄ぼんやりと感じることのできる光の気配だけ。しかし夜という時間は、葵の世界を全て闇へと塗り替えてしまう。孤独に飲み込まれてしまうな心地がして、とてもとても心細かった。  目を閉じていても、開いていても、そこにあるのは途方もない暗闇だけ。自分の未来さえもが闇の中に囚われているように思えてしまい、葵にとって、夜はひどく恐ろしいものだった。  そういう理由もあり、幼い頃は、眠る前に泣いてしまうことがしばしばだった。そんな時、いつでも蓮がそばにいてくれた。同じ部屋を使い、一緒に食事をとり、入浴し、眠る……。毎日というわけではなかったが、蓮に甘えきりの生活は、蓮が高校へ上がる時期まで続いていた。蓮が十五歳、葵が十歳の頃である。  両親がいないことに関して、葵はそこまで悲観したことはない。両親は葵が三歳になる直前に亡くなっており、はっきりとした記憶がなかったからだ。それに使用人達はい皆優しかったし、何よりも蓮がそばにいてくれた。ただそれだけで、葵は心強かった。  しかし蓮は高校に上がると、部活だ勉強だと急に多忙になり、あまり葵のそばにはいてくれなくなった。たまに家の中で出会えたとしても、蓮はこれまでのように葵を甘やかしてはくれなくなり、むしろ厳しい言葉を投げつけてくるようになった。 『僕らは国城家の男なんだ。葵も、もっとしっかりしなきゃだめだよ。勉強も、運動も、音楽も、身につけられるものは何でもやりなさい』と蓮に言われた。葵は寂しさを感じつつも、それは確かに道理であると理解し、努力を重ねた。  今思えば、初めて感じた違和感は、その頃だったような気がする。  蓮は唐突に葵と距離を置き、人が変わったように厳しくなった。『国城家のために』という言葉を多く使うようになったのも、この頃からだと記憶している。  蓮は何かを隠している。たった一人の家族である、自分に。  それがずっと気がかりだったが、葵はその違和感の正体になかなか気づくことができなかった。それに、兄の多忙は自分のためであるということに負い目も感じていたため、葵には余所事を考えている暇がなかった。  ずっと感じていた違和感の正体に気づき始めたのは、ほんの最近のことだ。  蓮が身につけているトワレの香りの中に、微かにあの甘い匂いを感じた瞬間。それは幼い頃に嗅いだ兄の匂いのようでいて、何かが少し違っていた。  結糸が薬でフェロモンを常時抑え込んでいたこと……この事実も、葵にとってヒントとなった。  蓮が葵から離れていった時期。葵に対する態度の豹変。隠そうとしているようでも垣間見えてしまう、不安定な体調と精神的な揺らぎ。  ひょっとしたら……という疑念が、ある日すとんと胸に落ちた。  そんなわけない、という想いもあったが、そう考えると、兄の行動の一つ一つに全て説明がつくことにも気がついてしまった。  そして今、兄は葵の問いかけに無言でいる。  突拍子も無いことを言い出す弟に激怒するでもなく、動揺するでもなく、蓮はただただ静かにその場に佇んでいるばかりであった。  傍にいる結糸が、戸惑ったように葵と蓮を見比べている。葵はそんな結糸の肩を抱き直し、もう一度兄に問いかけた。 「そうなんだろう? 兄さん」 「……」 「否定、しないのか」  蓮はゆっくりと目を伏せつつ、首に巻いていたタイに指をかけてそれを緩めた。そしてどことなく疲れたような声で、「さすがにもう、無理か」と呟く。 「……お前には、いつかきっと気づかれると思っていた。葵は鼻がいいからな」 「……やっぱり、そうだったんだな。何で……何でずっと隠してた」 「何で? ふふっ……葵、それは愚問だよ」  蓮はそう言って肩を揺すると、自虐めいた笑みを唇に浮かべた。そして金色味を帯びた翡翠色の瞳で夜空を見上げながら、はぁ……と大きなため息をつく。まるで、胸の中に凝っていた何かを吐き出すように。 「僕は、アルファの名門・国城家の長男だ。代々、国城家に生まれる男はアルファばかりだった。当然、僕自身もそう思っていたさ。……性別判定の血液検査を受けるまではな」 「……」  そう言って、蓮は翳りのある目線を葵に向けた。  これまで考えていたことが的中してしまったこと、それは葵の心に、想像以上の衝撃を与えている。 「僕が初めて血液検査を受けたのは、高校入学前の健康診断の時だった。集団検診じゃなかったことを、心から幸いに思うよ。僕の検診を担当したのは、綾世の父親だった」 「綾世先生の……?」 「そう。……それ以降、僕は綾世家の世話になりっぱなしだ。親戚筋にも絶対にばれないように、この十年、ずっと気を張り詰めてやってきた。……国城家の長男がオメガだなんて、ありえないことだ。そんなことが世間に露呈してみろ、この家の没落を望む他のアルファの餌食になるだけ。それだけは、絶対に嫌だった。僕は、この家とお前を守りたかったんだ」 「……兄さん」  十五の頃の兄の苦しみと焦燥は、いかばかりのものだっただろうか。まだ十五歳の少年が抱えるには、あまりにも大きすぎる秘密だっただろう。  翡翠色の瞳を見つめていると、当時の蓮の切迫した感情が、葵の胸に迫ってくるようだった。葵はぐっと結糸の肩を抱き寄せて、過去を語る兄の姿を(つぶさ)に見つめた。 「ありとあらゆる抑制剤を使った。当時僕の担当医だった綾世の父親は、それに当然いい顔をしなかった。でも、僕の置かれている状況をよく理解してくれていたから、僕のしたいようにさせてくれた。先生は身体に負担の少ない抑制剤の開発にも力を入れるようになり、いつしかその研究は、息子が受け継ぐようになっていた。綾世家は二代にわたって僕のことをずっと見守り、支えてくれていたんだ」 「……あの先生が」 「そう。綾世は僕の高校の先輩でもある。学校でも、随分世話になったよ」  蓮が高校に入学した時、綾世は高校三年生だった。入学前から知り合いだった蓮を気にかけ、綾世はいつでも蓮のそばを付いて回っていたらしい。  そのため綾世は学内において、『あけすけに名門アルファを誘惑するいやらしいオメガ』という不名誉なレッテルを貼られていた。しかしその実、綾世は自分が蓮のそばにいることによって、蓮が無意識に漂わせてしまうオメガフェロモンをカモフラージュしていたのだ。自分が必要以上に色気を振りまくことにより、蓮がオメガだと露見することを防いでいたということだ。  高校一年生になったばかりの蓮は、まだ自身の性に戸惑いと絶望を感じていた。その上、まだオメガとしても未成熟であったこともあり、いつフェロモンが強まってしまうかどうかも分からないような状態だった。不安定な蓮を陰ながら支える存在として、綾世はいつでも蓮のそばにいたのだという。  そんな話をしつつ、蓮は疲れたような表情で額に手をあて、前髪をくしゃっと乱した。そしてさらに、淡々と話し続ける。 「抑制剤だけじゃない。体格もアルファらしく見えるように、筋肉増強剤を使った。発情期を迎えるたびに集中力を欠き、まるで使えなくなる脳みそが嫌でたまらなくて、麻薬の一歩手前のような薬まで使ったこともある。そうでもしなければ、僕は『国城』の姓を名乗ってはいけないような気がしていたんだ。弟のお前にも、情けないところを見せたくなかった。誰よりもアルファらしいアルファでいるために、死に物狂いで生きてきた。だからかな……そろそろ、僕の肉体にはガタが出はじめている。……お前に跡継ぎをせかしていたのは、そのせいさ」 「そんな……! だからここ最近ずっと、具合が悪そうだったのか?」 「……それもあるし、発情を抑え込むのも、そろそろ限界らしくてな。抑制剤の効きも悪くなっているから、お前のように、そろそろ僕の化けの皮に気づきはじめている(アルファ)も、いると思う」  蓮はそう語りながら、すっと結糸のほうを見た。葵も結糸を見下ろしてみるが、結糸はもう震えてはおらず、食い入るように蓮の姿を見つめている。  立場は違えど、結糸と蓮がしてきたことはまるきり同じだ。ふたりともが性を否定し、それを隠して生きていきていくために、必死だった。  今、結糸は何を思っているのだろう。唇が、物言いたげに震えている。蓮に何か言いたいことがあるのかもしれない。葵はそんなことを思いつつ、もう一度兄の方へと視線を戻した。 「国城政親(まさちか)氏を、知っているだろ? 父の従兄弟で、僕が成人するまで、クニシロ・ホールディングスのトップを預かっていた男だ」 「……あぁ、当然知ってる。今も兄さんのすぐ下で動いてるんだろ?」 「あいつは、そろそろ気づいていると思う。ここ最近、僕への接触が露骨に性的でね。……あの男にだけは、絶対に最高権力を与えたくないんだ。今、弱みを見せれば、あいつは僕のこともお前のことも、あっさり切り捨てて葬り去ろうとするだろう」 「……何だって?」 「だから、今はまだ、僕は倒れるわけには行かないんだ。だからこそ、国城家の直流である僕らが健在であるところを、世間にアピールしなくちゃならない。なおかつ、この血を受け継ぐための子どもを早いうちに作っておきたい。……お前には、色々と無理を言ってしまった。それは分かってる、でも僕は、どうしても立ち止まるわけにはいかないんだ……!」  蓮は一息にそう言い切ると、疲れたように、深いため息を吐いた。  しんとした夜の庭に、気の早い夏虫の声が響いている。  すっと、結糸の手が葵の手に触れ、葵ははっとして結糸を見下ろした。すると結糸は澄んだ瞳でじっと葵を見上げている。 「蓮さまが、おつらそうです。そばへ行って、支えてあげてください。俺はもう大丈夫ですから」 「あ、ああ……すまない」  葵はそっと結糸から離れ、ゆっくりと兄に近づいた。ついさっきまでパーティ会場でずっとそばにいたというのに、こうしてきちんと兄と視線を交わすのは、ずいぶん久しぶりな気がした。  視覚を取り戻してからずっと、兄の目つきには頑なな堅さがあった。その理由が、ようやく全て分かったのだ。  葵はすっと蓮の頬に両手を添え、ほんのりと冷えた白い肌を撫でた。そして、じっと蓮の翡翠色の瞳を覗き込みながら、小さく唇を嚙む。 「兄さん……もう、大丈夫だ。これからは、俺が兄さんのことを守る。仕事のこと、全部俺に教えてくれ。早いうちに全部俺が引き継いでいくよ。兄さんは、身体を休めることだけを考えていてほしい」 「……葵」 「大学は辞める。もうこれ以上、兄さんに全てを押し付けてなんていられない。俺はずっと、この目が見えないことに甘えて、色んなことから目を逸らしてきた。全部兄さんに任せきりで、兄さんに甘えっぱなしで……」 「いいんだよ、そうさせていたのは僕だから。それに、大学は……」 「辞めるなというなら、休学する。とにかく今は、兄さんの負担を少しでも減らしたい。政親氏のことも、放ってはおけない。俺がすぐそばで、絶対に兄さんを守るから……!」 「……葵……」  ぎゅ、と葵は蓮を抱きしめた。  兄の身体は、こんなにも頼りないものだっただろうか。いつだって、蓮は逞しくて自信に溢れ、光り輝く存在だった。その姿が偽りだとは思わない。しかし、蓮はそう振る舞うために、必死で自分を抑え込んできたのだろう。孤独も、焦燥も、アルファを従えて頂点に立たねばならないことへの不安も恐怖も、全てを押し殺して葵のことを守ってくれたのだ。  葵の目からは、いつしか涙が溢れていた。嗚咽が漏れ、身体が震える。  守ると言ったそばから情けない姿を晒す自分のことが許せなかったが、今はどうしても、湧き上がる感情をコントロールできなかった。  すると蓮が、葵の背中をぽんぽんと優しく叩いた。幼子をなだめるような柔らかな手つきで。

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